母への期待、ちょうどいい距離感、私の気持ち。【アダルトチルドレン】
小学校3年生で両親が離婚、2年間の母子家庭を経て母が再婚、新しい父親が現れ妹弟が誕生。
私は自分の居場所を守るために、心に蓋して仮面をしながら、常に他人の顔色を伺って生きてきました。
愛される自分でいるには期待に応えなければならない。理由もなく自分が愛されるわけがない。誰にも迷惑をかけず、嫌われず、自己犠牲を払っても他人を喜ばせたり役立つことに徹する”べき”だと考えてきました。
それでも、私の人生において「家族愛」も含め、「変わらないもの」なんてほとんどありませんでした。
私が18歳で家を出た後も、両親の離婚やその他詳しく語れないほど波乱万丈な家族のエピソードなどもあり、私の家族は離れたりくっついたりを繰り返してきました。
母のため、きょうだいのため、祖父母のため。長女の私ができることは何なのか、自分なりに考え、一生懸命訴えかけたり動いた時期もありました。が、結局私の力ではどうにもならないことを知り、無力感から家族そのものに対する理想も崩れ、愛着も薄れていきました。
執着すればするほど、自分がつらくなると思い知ったからです。
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特に、2019~2020年に母と半年ちょっとの短い二人暮らしをして、大きく衝突してからは、いっそう家族と距離を置くようになっていきました。
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それでも、夫を始め、オンライン・オフライン問わず色々な人とのふれあいやインプットを通して、私の凝り固まった心も少しずつ解けていき、考え方が少しずつ変化していきました。
まず、2021年春には入籍報告のために母と1年ぶりの再会をしました。
2022年12月中旬に妹と再会。(これも1~2年?ぶり)妹との再会で、母の気持ちを聞いた私は母に会ってみたくなり、妹と私の3人で会うことに。
↓は入籍報告後1年半以上ぶりに再会したときの母とのことを音声で話しました。
さらに急展開で、大晦日は実家で義父も含む家族みんなで過ごしました。高校3年生以来、なので約15年ぶり?の家族団欒の時間となりました。
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そして2023年も、家族に対する思い、主に母との関係性について、noteのつぶやき、記事で色々と記録してきました。
再会から怒涛の展開ではありましたが、今年母と食事等で会ったのは、6月と12月の計2回だけでした。お土産を届けたりでチラッと顔を見て、家の外で話す程度のことは1~2回あったかな?という感じです。
6月は、私の誕生日当日に、母と妹が祝ってくれました。
そして2回目はつい先日の12/28夜、母と妹と三人で、居酒屋でお酒と料理を楽しみながら、なんと5時間も談笑しました。
5時間もあれば、喜怒哀楽、色々な感情で揺れ動きます。
たくさん笑った気もするけれど、家に帰ってからは、モヤモヤした、悲しいような苛立たしいような気持ちになりました。
翌朝、どうしても心がザラついて、夫に話を聞いてもらったのですが、そのとき、それまでボンヤリしていた感情の正体がハッキリとして、一気に涙が溢れ、言葉が止まらなくなってしまいました。
何度も離れて近づいてを繰り返しながら、私はやっぱり、未だ母から「認められたい」「愛されたい」という期待を捨てきれずにいたんだと気づいたんです。
だって、本当に「諦め」ていて「期待していない」なら、何を言われても、自分を否定されても、傷つかずにいられたはずだからです。ムキになって、自分を認めさせるような言い方をしようとしたりしなくたって平気でいられたはずなんです。
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母はすべて無意識で、悪意のかけらもなかったんだと思います。
ただ、その日母の口から発せられた無邪気な言葉、他のきょうだいを過剰に褒めて見せる態度、「~~すべき」という価値観の押し付けなど、そうした一つ一つが遠まわしに私という人間や私の生き方をことごとく否定し、その時間が私にはとても苦しいものでした。
私は愛情のない人間?
産まないのも愛
私は子どもが好きです。中学生の頃は保育士さんになりたくて職業体験では保育園を選び、家に帰れば幼い妹や弟と、義父の目を盗んで毎日遊んでいました。
だけど、「好き」という感情だけでは、子どもは産めません。
自分に何があっても、どんな子どもが産まれてきてどんな風に育っても、産んだからには最後まで責任を持つ覚悟が必要なんだと、私は考えています。
子どもも一人の人間であり、その子にはその子の人生があります。親である私の機嫌や都合で、その子の人生を振り回すわけにはいきません。
私自身、家族がくっついたり離れたり不安定で、いつも自分の居場所がないように感じる寂しい子供時代を過ごしました。自分のような思いを、子どもにはさせたくありません。自分がされてつらかったことを、子どもには絶対にしたくありません。
でも、いくら私がそう強く心に誓っても、絶対にそうしない自信がないのも確かなんです。
私の感情は、毎日ジェットコースターのように上がったり下がったりします。睡眠が足りていないと被害妄想が激しく不安に陥ります。また、疲れがたまっていたり、予定がつまっていて時間や心に余裕がないと、イライラしやすくなります。
そうでなくても普段から「気にしすぎ」「考えすぎ」と人から言われるほどの人間です。
自分の怒りや悲しみ、不安のコントロールさえうまくできていないのに、初めて経験する出産・育児、それが何十年と続く重圧に、私が耐えられるのか・・・?
八つ当たりで暴言を吐いたり手を上げたり、弱い立場の子どもを守るどころかストレスのはけ口にするような事態に、”絶対に”ならないと誓えるのか。
そこまで考えて、私には子どもを産み育てる自信がないのです。
でもそれは、子どもが嫌いだからではなく、むしろ逆です。
自分自身、そして大切な夫に似た子どもが産まれてきて、愛しいと思わないわけがありません。だからこそ、悩むんです。
母は、妹自身や妹カップルの日常エピソードを「こんなに愛情深い子はいない」「これこそ無償の愛!」と大げさに称え、私に「こんな風に思える?」と投げかけます。それが私には、「あなたにはそういう感情がないでしょ」と言いたいように聞こえるのです。
私にも、自分以外の他者を愛する気持ちはあります。
でも、果たしてその大小は誰かと”比較すべきものなの?”と疑問に思います。
それに、もし私の中には「無償の愛」が存在しないのだと言いたいのだとしたら・・・
「だって、そんなのもらったことないから」
「あなたは私にくれたの?」
そう言い訳させてほしくもなってしまいます。
でも、当然そんなことは言えませんし、言うつもりもありません。
だから、そのとき「愛の無さ」を指摘されてグサッと刺さったけれど、ぐっと我慢していたんです。
妹の”無償の愛”を称えながら母は、「私には無理だわ~!」と笑っていました。その笑い顔と言葉に、私は胸がぎゅっとなりました。私の目の前で、そんな風に言わないでほしかったな、と。
だって私は、母のその愛が、あの頃何よりもほしくて、それをもらいたいがために、今もこうやってもがき苦しんでいるのに。
言わないのも愛
誰からももらったことがないものを、他人に与えることは難しいと思います。
無償の愛って何なのか?
勉強を頑張れば、習い事で受賞すれば、進学校に入れば、いいところに就職できれば・・・
期待に応えられれば褒めてもらえる。その経験はある。
でも、その逆をしたら・・・?
学校に行かずに休んだら?習い事を辞めたら?仕事が続かず転職を繰り返したら?
がっかりされて、過去の私を槍玉に挙げて「~すればよかったのに」「~べきだよ」を繰り返し、”今の私”には目もくれない。
そういう、条件と引き換えで得られる愛なら、受け取ったり没収された経験はあるけれど、無償の愛ってどうやったらもらえるものなのか・・・?
今までは全くわからず、そんなものが実在することも信じられませんでした。他の家族を見ても、映画やドラマを観ても、「嘘くさく」感じていました。
でも、だんだん「こういうことかな?」とわかってきました。
そして、愛を与える行為として、「聴く」「肯定する」があるとわかりました。
人は自分の話をに興味を持って聴いてもらえたり、意見や気持ちを肯定されることで幸せな気持ちになれる。だから、話を聴いてくれる人にたいして好意を持ちやすい、と。
実際、私も人からそうして受け入れてもらえる機会が増えてきたからこそ、人に対して愛情を抱けるようになり、私も相手に「お返ししてあげたい」という感情が自然にわいてくるようにもなりました。
結局、与えられたものしか与えることはできない。
これに尽きると感じています。
私は無償の愛を知らず、他人に愛を与えられない冷たい人間だったかもしれないし、今もそうかもしれない。
でもそれは、私自身が根っからの冷酷自分勝手人間なのではなく、”もらったことがなく、与えられるものを持っていない”からなんだと捉えることができるはずです。
それを、他人から非難されることは仕方ないとしても、親に責められるのは・・・ちょっとつらいです😂
私は、今でも義父にたいして肯定的な気持ちは持てません。
去年、小さく見える背格好や、丸く大人しくなった態度を見ても、「和解してこれからは仲良くやっていきたい」とは、どうしても思えませんでした。
でも、母や妹にたいして、義父へのそうしたネガティブな思いをあえて吐露しようとは思いません。それは、二人にとってはかけがえのない存在だと理解しているからです。
先日の居酒屋の席でも、義父の話を聞きながら、本当は喉まで出かかった色々な思いがありました。
それをあえて”言わない”ことも、私からの母や妹への愛なんです。
無償かどうかはわかりませんが、相手の好きなものや大切な人を否定しないこと、それも愛のうちだと私は思っています。
言葉にしないこと、目に見えないものは、気づいてもらいにくいものかもしれません。私も、他人が私のためにしてくれたそれらの全てに気づけているかというと、きっとそうではありません。
だから、「ありがとう」って感謝してくれなくてもいいんです。
ただ、言わないからと言って、目に見えないものだからといって、「無い」と決めつけることだけは、しないでほしいと思ってしまいました。
何事も続けられない
半年ぶりに会い、5時間という長い時間をお酒をまじえて共にしました。
特に母はビールをたくさん飲んでいたこともあり、酔いのせいもあって何度も同じお話を繰り返していました。
特に「続けることが何より大事!」と、私にひたすら言い聞かせ、諦めずに続けてきた人の話や、辛い境遇でも夫婦の愛を貫いた知人の話など、「あの人はスゴい!」「どんなにつらくても続けないと・・・!」と。
私は正直、色々なことが続かない人間です。
趣味も、友達も、恋愛も、仕事も、あらゆるものが続いてきませんでした。
熱中してもあるときプツッと熱が冷めてしまったり、誰にも相談できずに一人で悩んでエネルギーを使いすぎ、疲れて離れたくなってしまったり、好きでやっていたはずがいつしか義務になって辛いだけになってしまったり。
色々な理由はあるものの、続けられないことが自分の最大の欠点だということは自覚しています。
単純に「飽きる」ということも確かにあるのですが、私の場合はそれよりも「心」の管理に問題があると考えます。
人間関係や物事を続けるためには、自分の心のコントロール、心に余裕を持つことが何より大切だと思います。私がもっとも苦手とするのがそこだからです。
「なんでも続けるべき!」と押し付けられて、「逃げること」は悪とされたり、「なんでやめちゃったの?」と非難され、「~すればよかったのに」と深く理由も聞かずに自分の選択を否定されることはすごくつらいです。
自分で言うのもなんですが・・・
私は、人間的に「真面目」だと思っています。
興味があらゆる方向にうつりやすい飽きっぽさ(好奇心旺盛さ)はあるももの、「不真面目」だから続けられないではないと思っています。
むしろ、真面目すぎるがゆえに、「適当にやる」「手を抜く」「気楽に」という姿勢で向き合えず、やりすぎてしまって燃え尽きたり距離を置きたくなってしまう、と言う方が合っている気がします。
自分でそう思うからこそ、「続かない」という結果だけを見て非難されることが、とても悔しいんです。
ちょうどいい距離感
そんなこんなで、5時間ほとんど母の話を聞いていました。
「それは違うな」と思う部分があって口を挟もうとしても、ひたすら喋り続けるし、私が何か話そうとしても母の話にすり替わっていたり。
続けることが何より大事!という話のときにも、「我慢し続けることで、それ自体がストレスになって死にたくなるくらいなら、逃げても良いと思うけどな~」と、それとなく私の意見を話してみても、まるで伝わっていないような反応。
私の中で、「それはおかしい!」と思わず言いたくなるような話、「私だってそうだよ?」と主張したくなるような話、「こういう考え方があってもいいんじゃない?」と、自分を認めてほしくなる瞬間。その連続の5時間でした。
私のことをわかってもらえた、認めてもらえたという手ごたえはありませんでした。
むしろ、真逆の考え方を押し付けられ、何も言い返せない状況が続き、ただただ相手の機嫌良く話せることを考えながら相槌を打つ役割に徹しながら、私以外の家族や赤の他人のことを褒める話を聞かされ続けるうちに、私は自分という人間が徹底的に「否定」されていると感じざるを得ませんでした。
私の中の「愛」も「考え方」も、これまでの選択も、これからの「生き方」も・・・
認められたくて、私もほかの家族と同じように母から愛されたくて、一生懸命になっていたのですが、疲れと「きっとこれからもわかってもらえることはないんだろうな」という虚しさが残りました。
結果だけを見ないで、もっと気持ちを聴いてほしい。否定しないでほしい。
子どもを産むか産まないかの多様性を認める心があるなら、それと同じように、「つらくても続ける美徳」だけでなく「逃げる勇気」も認めてほしい。
翌朝夫に話を聞いてもらい、とても楽になりました。
自分を否定されず、何も期待せず押し付けることもなく、ただじっくり話に耳を傾けてくれる人がそばにいてくれることが、どんなに幸せか、改めて実感しました。
今回のことで、私はまだ母に期待し続けていたな、と気がつきました。
家族と言っても自分ではない、他人です。
他人に期待しても、自分の思い通りに考えたり動いてくれるわけではないから、期待を裏切られてつらくなるのは自分なんですよね。
期待することはやめて、自分が苦しくならない接し方や関係性をもう一度考え直そうと思いました。
たとえば、否定されたり、聞きたくない話題になったとき、今回のように一生懸命自分の思いを主張したり、無理して話を合わせたりなどせず、「そうじゃないのに…」と思っても飲み込んで、「そうだね~」と受け止めて、「そういえば○○ってどうなの?」とサラッとの話題に切り替える、とか・・・
いちいち話し合おうとかわかってもらおうとか、そういうのはもうやめようと思いました。
わかってもらえなくてもいい、聴いてくれなくてもいい。
ただ否定されなければいい。
だから、(適当に流して話題を変えて)否定させなければいい!(笑)
それくらいの気持ちでいれば、きっとしんどくなく、これからも母と娘をやっていけるはずです。
これからの私
でも私は、これからはもっと、人の話を聴いて、肯定して、たくさんの人からもらった愛を、人に与えられるようになっていきたいです。
「お母さん」って、そういう存在なのかなと思っていて・・・(いつも話を聞いてくれて誰よりもわかってくれる、みたいな)
だから私は、自分の子どもじゃなくても、「自分の周りの誰かにとってのお母さんになれたらいいな~」なんて・・・!!
要するに、何が言いたいかと言うと・・・
自分は他人に期待しないけど、自分は人からされて嬉しいことを他人にする。
つまり、「お母さん」がほしかったから、自分が「お母さん」になる!ということですね!
・・・ちょっと意味不明かもですね。伝わったでしょうか??涙
迷惑かけていいですか?
よし!!今年最後に、この話をどうしてもしたかったので、なんとか間に合ってよかったです!
来年も、きっと職場の人間関係やら母とのことやら、他の家族のことなど、主に人間同士のことで悩みまくりの私だと思います。
そして、壁にぶち当たったり、ちょっと凹んだりするたびに、突然ここへ逃げ込んできてブワ~~ッと思いの丈を吐き出して、またどこかへ消えていくことでしょう。
そんな神出鬼没な私が、あなたにはどう映っているのか。
自分のことばかり考えている自分本位な人間。
noteの更新もろくに続かない人間。
信用ならない無責任な人間。
そう思われても仕方ないことばかりしていますよね。
でも、そんな自分本位な私でいられる場所が今はここで、ここを見てくれている人が一人でもいることで、私はものすごく救われています。
自分の悩みを人に話すこと、誰かに頼ること、愚痴をこぼすこと、怒りをあらわにすること・・・それらすべて、私の中では「許されない」「悪いこと」「迷惑をかけること」という認識でした。
でも最近、「相談してくれたらよかったのに…」と、私が悩みを打ち明けなかったことを残念がってくれる人が現れたんです。(職場の年上のお姉さんです)
そんな風に思ってくれるなんて、私には驚きでした。
だって、悩みを話したり頼ったり、そのために連絡するとか時間を割いてもらうとか、(私がそれをするのは)迷惑がかかることでしかない!と思っていたんですから。
それが、むしろ遠慮することで「壁を作られている」「距離を感じる」「寂しい」「信用されていない」と思わせてしまうことになるなんて・・・
ただ、考えてみれば納得でした。
私はそうやって、人に迷惑をかけないように生きてきた分、人に感謝する機会も人と比べて少なかったんです。
迷惑をかけたらかけっぱなしじゃなく、ちゃんと感謝をすればいいんですよね。わるいことをしたら、ちゃんと謝ればいいんです。
人に遠慮して迷惑かけないように、摩擦起こさないように距離作って・・・ってしてたら、人との関係なんて縮まらないに決まってますもんね。
「ありがとう!」って感謝されて嬉しくない人なんていないはずです。
人に感謝する機会を自分から作っていくために、迷惑をかけると思っても人に頼ろうと、この年の瀬に、私は考えを改めました。
最後に、こんな私を見守ってくださっている方へ。
いただいたスキ!は「話してくれていいんだよ」「あなたがそう思ってもそれでいいんだよ」と、私を肯定してくれているものとして、勝手に解釈して喜んでいます!
本当に本当に、今年も一年ありがとうございました。
「お、はるねずみ変わったじゃん!(いい意味で)」
「成長したわね!」
「見守っててよかったわ~」
と思ってもらえるような自分に少しずつ近づけるよう、来年も頑張ります。
これからもよろしくお願いいたします。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
また来年の記事でお会いしましょう!!
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