見出し画像

「人に優しくしたい」という欲求【アダルトチルドレン】

ここ最近、外で人と接するときに「優しくしたい」「親切にしたい」という気持ちが湧き上がっていることにふと気がつきました。

その相手はたとえば、朝早くから駅の出口に立って通勤・通学する人達に挨拶する政治家の方、歩行者を誘導してくれる工事作業員さんや、雑貨屋のレジの店員さん、隣の席に座った職場の同僚の方などなど・・・


「おはようございます!」
「お気をつけてお進みください」
「会員証はございますか?」
「すみません、休憩時間ってどこかに書いてありましたっけ?」

声をかけても返事がなく素通りされてしまうところを見ると、「自分はしてあげなくちゃ」と思ったり、前に並んでいたお客さんにイライラと急かされていた店員さんを目の前にして、「焦らせないようにしよう」と自分自身も「(会員証出すのに)時間かかってすみません💦笑」と言葉にすることで、場を和ませようとしてみたり・・・


私は昔から、知らない人に道を聞かれたり、職場でも質問されることが多い方です。たぶんそれは、私の顔がシンプル(笑)で背も低く、おとなしい雰囲気があるので、声をかけるハードルが低いからなんだと思っています。

そして、そんな風に声をかけてもらえたり、頼りにしてもらえることを、私は嬉しく感じています。



「いい人」ぶる私

今、派遣社員としてコールセンターで電話を受ける仕事をしているのですが、そんなときにもそんな気持ちになることがあります。


自分の母親くらいの年代の方や、祖父母くらいのお年寄りの方から問い合わせを受けたとき、同じ目線に立って共感したり、相手のペースに合わせて相づちを打ちながら、一つ一つ説明をします。

それらがうまくいくと、「そういうことだったんですね!」「親切にどうもありがとう」「電話してみて良かった~」などと感謝の言葉をいただけます。

電話口から伝わってくる明るい声の響きから、相手の笑顔を想像すると自分も嬉しくなって、見えないとわかっていても、両手を合わせながら笑顔を浮かべたり、お辞儀をしたりしてしまいます。


また、お客さんだけでなく、隣の席の方からちょっとした質問(パソコン操作や業務のこと等)を受けたときにも、身体ごと相手に向き直って目線を合わせ、笑顔で答えるようにしています。毎日席が変わるしシフトもそれぞれだから、「その場限り」の付き合いではありますが、その一瞬でも「声をかけてみて良かった」と思ってほしいから、そうしています。



真に愛情深い人って・・・?

ここまでの話を聞いていただくと、

「優しい人なんだなぁ」
「誰にたいしても親切ないい人」
「怒ることなんてないんだろう」

みたいに受け取ってもらえるかもしれません。

実際、先ほどの話に嘘はありません。

自分がしたことで相手に喜んでもらえたとき、感謝されたときには、冗談抜きで涙が出てしまいそうなくらい嬉しくなるんです。


ただ、私はけっして「優しい人」「愛情深い人」ではないな・・・と、本物の優しさ・愛情を目の当たりにしたときに思ってしまいます。

私の「優しさ」「親切心」は結局、「好かれたい」「いい人だと思われたい」「感謝されたい」というエゴから生まれるものだからです。


相手のことを本当に思うなら、ときには厳しい言葉や態度も必要ですよね。

たとえば仕事のことで後輩に質問されたときには、手取足取りすべて教えるのでなく、(たとえ失敗する可能性があっても)本人が自分で考える余地を残して、ヒントを与えるにとどめるとか、フォローする側だからこそ、そうした振る舞いができるのが望ましいとも思います。

会社員として働いていたころ、私はそうしたことを「嫌われるのが怖い」という気持ちから難しく感じていました。


また、「愛情深い人」と聞いて私がイメージするのは、「人の喜び(悲しみ)を自分のことのように喜べる(悲しめる)人」です。

その点で言うと、私は悲しみには共感しやすいものの、誰かの成功や喜びを一緒に喜べるかどうかは「相手との関係性」によります。

「良かったね!」「やったね!」と本心で思える場合もあれば、「どうしてあの人が・・・」とネガティブな感情を持ってしまうこともあります。

それは人間誰しも、程度の差はあれそういうものなのかもしれないけど・・・

ただ、やっぱりそれが「誰のための優しさなのか」が、真に愛情深い人とそうでない人の違いなんでしょうね・・・

私は自分のため。愛情深い人のフリをしているに過ぎないんだと気づいたとき、密かにうしろめたい気持ちになります。



疲れる・疲れないの基準

ネットでもリアルでも、人と接していて「楽しい」と感じるときもあれば、「疲れる」と感じるときもあります。

電話の仕事でお客さんとやり取りする中で「やりがい」を感じるときもあれば、役に立てず虚しくなるときもあります。

大好きな人と一緒にいて幸せを感じていても、「なんでこうなの」とイライラが抑えられなくなるときもあります。


この違いってなんなんだろう?と、考えてみました。そして、自分なりに気づいたことがありました。

それは、

「(相手のために)自分ができることがあるのかどうか。」

ということでした。


自分にできることが明確

道端でスマホ片手にキョロキョロしている人から、「〇〇にはどうやって行けばいいですか?」と聞かれたなら、その人のために自分ができることは明確です。

一緒に地図を見ながら現在地を示し、目的地へたどり着く方法を説明してあげればいいですよね。

そうすれば「ありがとう」と喜んでもらえるはずです。

こういう場合のコミュニケーションには、(余程自分に余裕がないとか急いでいるとかでない限り)一切ストレスを感じませんし、もし目に見えてその人が困っているのだとしたら、こちらから声をかけに行くかもしれません。

喜んでもらえる!という確信があるからこそですね。


自分にできることが不明確

逆に、疲れてしまう場合というのは、自分に何ができるのかわからないときです。

たとえば、これは私の実体験なのですが・・・

遠方から遊びに来た友達と「一緒にショッピングをしよう!」と街中でお店を巡っているとき。

「疲れた~」
「足痛い」

こういうことを言われると、私は焦ります。そして罪悪感を覚えます。

「ちょっと休憩しよう」と提案したり、あるいはそうなる前の対策として、できるだけ歩かせすぎないようにしていました。

その友達とは趣味が異なっていたため、見たいお店も別々でした。

ただ、お互いの見たいところ、行きたいところを全部巡っていたらきっと疲れてしまいます。

だから、自分の見たい店は「私はいつでも来られるし、今度一人でじっくり見よう」と我慢しておき、友達の見たいところを優先して、一緒に見て回り、とにかく相手に「疲れ」を感じさせないよう徹底していました。

それでも・・・

どんなに自分を抑えて、相手優先で動いたり気遣ったりしたとしても、

「疲れた」

と、相手の口から漏れることはありました。

そんなときにものすごく、虚しさというか無力感というか苛立ちというか、やり場のない気持ちになってしまいました。


友達にそれを打ち明けたことはありません。そしてきっと、友達には悪意は無かったと思います。

これはただ、私が「求められていること」「自分にできること」を自分ひとりで考えて、空回りしてしまった結果なんですよね。



人が好きとか嫌いとか

こんな風に、「相手のために自分ができること」が明確で、喜んでもらえると期待できる場合には、進んで「優しさ」「親切」と振りまきたくなります。

一方、「相手のために自分ができること」が明確でない場合には、ストレスや疲れを感じやすくなり、「できること」を模索しても空回りで終わって余計むなしさを感じてしまうんですね。

前者の機会に恵まれているときには、「私は本当は人が好きなんだ!」「電話の仕事って楽しいな」と思えるのですが、そこへ後者の場面が挟み込まれた途端に、「人といると疲れる」「もう一人でいいや」となってしまいます。

自分は人が好きかとか、コミュニケーションが好きなのかどうか、こういうときわからなくなってしまいます・・・



私って、寂しい人間。

ここで、話を最初に戻します。

「優しくしたい」「親切にしたい」という気持ちがどんどん湧いているとき、これまで私は「自分の心に余裕ができたからなんだ」「こんな私でも、人に与えられるようになってきたんだ」と、成長の喜びを感じていました。

ただ、それは思い違いだったんだと気づきました。

けっしてそうではなく、むしろ私は相変わらず、満たされない気持ちを抱え続けているんですね。



あふれ出る優しさは、天井知らずの「感謝されたい」気持ちのあらわれ・・・?


「人に優しくしたい」という気持ちは、裏を返せば「人から感謝されたい」ということです。人から感謝されたくてたまらない、自分を認めてもらいたい、そういう気持ちが高まっているにすぎない。

そのことに気づいたとき、「私って寂しい人間だな」と悲しくなりました。


わかりやすいものしか信じられない。

「相手のためにできること」を提供すれば「喜んでもらえること」も明確で、だからその笑顔も「ありがとう」も相手の本心として素直に受け取ることができるんです。

でもそうじゃなく、自分で想像して動く場合には、相手の笑顔や「ありがとう」を素直に受け取れなくなってしまう。信じるための「根拠」がないからです。

私のことを「好き」だと言ってもらえても、自分が相手のために「~~してあげられたから」とか、そう思ってもらえるだけの「根拠」を求めたくなってしまうんです。



さいごに

情けないことですが、私はまだまだ未熟で「人から認められたい」という欲求を手放せずにいます。人の好意や善意を、理由なしでは受け取れない人間です。

だから、私が人に見せる優しさも、与える愛情も、付け焼き刃のハリボテでしかないかもしれません。それを配って歩いているだけなんですよね。
(それでも喜んでもらえる価値があるならまだいいかもしれないですが・・・)

それでも、相手に喜んでもらうことで、それが「小さな成功体験」として自分のなかに積みあがっていくのだとしたら、少なからず価値はあるのかな、とも思えます。

自分が与えるものが「本物」と呼べるものでなくとも、相手から返してもらえるものが「本物」なら、それを受け取り、「本物とは何か」を知ることで私もいつかそれを自分が与える側になれるのでしょうか・・・


。°+°。°+ °。°。°+°。°+ °。°。°+°。°+ °。°+ °。


最後までお読みいただきありがとうございました!

ちょっと感慨深げに語りすぎてしまいましたね💦どうも、冬の寒い日は気持ちがナイーブになりがちです。

近々、「ポケットモンスター アルセウス」(switch)で遊んだ感想とかもお話ししたいな~!なんて思っています🐭⚡
(おいおい、今回の記事とすごい変わりようダナーw)

それでは、また次回の記事でお会いしましょう(*´ω`)ノ✨✨

あったかくしてお過ごしくださいね🔥

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?