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約15年ぶりに「実家」で家族団らんした話【妹のお父さん】

年末年始を家族と過ごす、ということを最後にしたのがいつだったか、もう思い出せません。

大学生の頃でさえ、周りはみんな「実家に帰る」と帰省していく中で、一人暮らしの部屋で年を越していました。

この記事では「継父」「妹」など、私の家族について詳しく話します。
前回の記事で、家族構成や、家族間のできごとを時系列にまとめてみたので、もしよければコチラを先に読んでいただけると嬉しいです!↓


私にとっての「実家」

「実家」という場所は、私にとって「気持ちが安らぐ場所」ではなく、むしろ神経を研ぎ澄ませ、継父の機嫌を損ねないよう振舞わなければならない場所であり、歓迎もされませんでした。

妹や弟に会いたい気持ちはあったけど、どうしてもその精神的なしんどさと、物理的な距離(バスや電車で片道4~5時間)、交通費が足を遠のかせました。

成人式のときだったか、久しぶり帰ったときには、見たこともない犬が家の中に何匹もいて、きちんと躾もされていないためか、あちこちにおしっこをしたり吠えたりしていて、元々犬が怖くて苦手だった私は自室にこもらざるを得ませんでした。笑

(犬を次々と飼ったのは継父の考えだったようです。)

社会人になってからは特に、家族の問題が、私には把握しきれないくらいにまで複雑化していたため、そもそも「実家に帰る」という選択肢自体ありませんでした。というか、家族全員が地元を離れてしまった以上、私の「実家」はその時点で消滅し、「家族の家」という認識でもありました。


てなわけで、最後に実家で年末年始を過ごしたことは、おそらく大学生以降一度もなかったはずなので・・・逆算すると、実家を出る前の高校三年生(18歳)の頃が最後。

私は現在33歳なので、およそ15年ぶりに「実家」で家族そろって年末を過ごした、ということになります…!

(2歳下の弟とその奥さんは不在だったのですが)



地元=実家?

ちなみに、初対面の人と話すとき(美容室での会話など)には、地元トークってよくありますよね。

そういうとき、

「地元どこ?」
私「◎◎市ですよ!」
「年末とかお盆は帰るの?」
私「いや、実は地元にはもう家族は住んでいなくて…」
「あ、そうなんだ~」

というやり取りをよくします。

家庭によってさまざまだと思いますが、お盆や年末年始など、何かの節目や行事のときに年に数回「実家に帰って顔を見せる」というのが一般的だと思います。

ただ、実家の場所がどこであろうと、「実家に帰る」という選択肢自体が存在しない私にとっては、相手に気を遣わせずに済む回答に、毎回すこし悩みます。(適当に嘘をついて、話を合わせておけばいいのかもしれませんが…)

皆が実家に帰る季節には、少しだけ気まずさというか、罪悪感のようなものを感じます。



「実家に帰ろう」と決めた経緯

年末に妹・母と会い、「家族ってやっぱりいいものだな」と思った私。

色々あった家族だからこそ「家族みんな一緒がいい」と、幼い頃から望み続けてきた妹の気持ちをむげにはできず、私の気持ち一つでそれを叶えられるならと、大晦日に実家を訪ねることを決意しました。

母や妹、下の弟に会いたい気持ちはあれど、正直継父には会いたくありませんでした。

継父は一言でいうと、「自分が一番偉く尊重されるべき人間であり、自分に逆らう人間には容赦しない。」という人でした。私や母、弟にたいしてはもちろん、赤の他人である従業員の方々に対しても常に威圧的で、モラハラ・パワハラは日常茶飯事でした。お店にクレームをつけることも多く、相手に言うことを聞かせることを誇らしげにしていました。

周りにいる人全員が常に顔色を伺いながら発言・行動しており、そんな姿を見て私は、

「自分は絶対こうなりたくない。人を怖がらせて言うことを聞かせるなんておかしい。」

と、いつも軽蔑していました。でも、やっぱり自分も怖かったので、あからさまに冷たい態度を取る、無視する、逆らうといったことは、実家を出るまでの間ほとんどできませんでした。(最後の方は勇気を出して少しした。)

一緒に暮らしていた頃から何年も経ち、弟からは「びっくりするほど丸くなった。別人のように大人しくなった」と聞かされてはいたものの、会って一緒に食事をするとなると抵抗がありました。

自分が不快になるだけならまだしも、大切な夫にたいして万が一無礼な態度や、尊厳を傷つけるような言葉を吐かれたりしたら・・・と思うと、不安がありました。

それでも、夫に相談すると、ほとんどためらいもなく、「行こうよ!」と二つ返事で応えてくれて、私も妹や母の喜ぶ顔を想像して、決意したのでした。



継父との距離感

当日は、やはり気まずさを感じずにはいられなかったものの、私が懸念していたようなことはほぼ無く、平和に過ごすことができました。

私はそこに住んだことがなく、足を踏み入れるのも今回が初めてだったので、「実家」と呼んでいいのかも微妙なのですが…(;・∀・)💦

家に入ると、すでにたくさんのご馳走が長いテーブルに並べられ、これでもかというほどのおもてなしをされました。

大晦日のご馳走。妹の手作りケーキ2種や、私の好きな母のレシピで作った「プリン」も!!!
母と妹が二人で作ってくれたおせち。夫と二人で食べるように小さな重箱に詰めて持ち帰らせてもくれました。


ただ、会ってすぐの会話で、

「これでも今は”人間”になってきたんだぞ。」
「悪かったと思ってるんだぞ。」

と、苦笑い?照れ笑い?のような表情を浮かべながら言われたときだけは、少し複雑な気持ちになりました。

そんな風に言われてしまうと、まるで子ども時代のことなどを「だから許せ」「今の自分を認めろ」と要求されているようで、そうできない自分が「冷たい」「わからずや」だと暗に言われている気がしたからです。

私にとっても、自分の意識の中では「過去のこと」であり、「今の幸せはあの時代があったからこそ」だと思えてはいます。

ただし、だからといって当の本人から「過去」のこととして認めることや「許す」ことを求められるのは、少し違う気がするんですよね。

だから「許す」とか「許さない」に関しては、実際会ってもピンと来ませんでした。先ほどの言葉にも「そうなんだ~!ww」くらいに笑って受け止めるに留め、本心は話しませんでした。


「許すとか許さないとかじゃない」


相手を許せるか

私自身は、継父という存在も含めて「過去」から距離を取りました。

思い出すと当時の寂しさや辛かった気持ちが今でもよみがえります。ただ、それに浸り続けていては、今ある大切なもの・人と向き合えなくなります。

私の中で継父に対する感情自体は今でもほとんど変わらないからこそ、「許す」ことは簡単ではありません。

というより、人の「心」や「心の傷」、もっと言うと虐待等の「家族間連鎖」「毒親」「虐待」などについて知れば知るほど、ただ目の前の「親」や「家族」を悪者にして「許せない!」と責めることは難しいんじゃないかと考えるようになってきたんです。

その人がそうであることは、果たして本人の「責任」なのか・・・?

「生まれながらにして悪人」という人はいないと思うし、環境や周りの人から受けた影響によって、少しずつ、攻撃性や自己愛傾向が強まっていくものなんじゃないかと思います。

私自身、今でこそ落ち着いたものの、20代の頃は「Theメンヘラ」「かまってちゃん」でした。自分が傷つけられることにはすこぶる敏感で、恋人など親しい間柄の人には攻撃性を発揮し、相手を屈服させようとする人間でした。

だからこそ、「攻撃的な性格」ですら、生きていくため、自分を守るためにやむなく身につけた「鎧」と捉えれば、その人自身が「悪」だと決めつけることはできないなと、考えられるようになりました。

こうした心境?解釈の変化は、信じられないくらい優しい夫と義両親のおかげであり、カウンセリングでの先生の言葉の数々のおかげです。


あ、めちゃくちゃぶっとんだ例え方をするなら、攻撃的な人=ライオン、としてみます!(*'▽')←
ライオンは人に襲い掛かります。そして食べます。
でも、それって良い悪いとかではなく「生きるための本能」としての行動なんですよね。目の前に食べ物があるから食べる、あるいは、「自分が攻撃されないために襲い掛かる」とも言えます。

ぶっとび例え話「攻撃的な人」


つまり、「許して」といくら言われても、その要求に応えられる自信はありませんが、「ここまでなら大丈夫」と、私自身が心の安全を感じられる距離感でなら接することができるかな、と。

あくまで、その「距離」を決めるのは、私の側であることが条件です。

だから、これからも数ヶ月に一回、妹や母たちがいるような場で、少しの時間をともにするくらいなら「応えられる」かなと思っています。

~~~

ちなみに、あとから聞いた話では、継父が「もっと◎◎(私)たちと話したかったのに~」と愚痴をこぼしていたようですが・・・

私としては多すぎず少なすぎずな具合で良かったと思いました(;'∀')



家族をつないでくれた妹

今回、こうして年末に実家で家族と過ごすということを決意できたのは、妹のおかげです。

妹を通して、母の現在を知ることができ、妹の「家族を大切に思う気持ち」を尊重したいと思いました。

妹自身、住む場所が転々として転校も繰り返し、友達も家族も離れたり戻ったりする中で、沢山寂しい思いをしてきたはずです。子どもの立場ではどうすることもできないし、ただ我慢したり、むりやり現実を受け入れるしかなかったと思います。

私は、継父や母と距離を置いてきたことで、妹・弟とも距離を置いてしまい、そのことに長年罪悪感を抱いてきました。

妹から手紙や手作りのマグカップのプレゼントをもらったり、ときどき両親に連れられて会いにきてくれたりしました。

けれど、私からはほとんど会いに行くことはなく、まして手紙や贈り物なんてしてきませんでした。ただ遠くから想っているだけで、姉らしいことも全然してこられませんでした。

それでも、昨年末に再会した際、妹は文句ひとついわず、ただ会えたこと、姉妹ふたりだけでカフェに行けたこと、私の家に来られたことを喜んでくれました。

一緒に暮らしていたころは小学校低学年だった妹が、会わないうちに成人して大人になって、正直どういう距離感で接すればいいのか、はじめはちょっと戸惑いました。でも、妹が私や2歳下の弟を呼ぶときの呼び方は相変わらずで、なつかしさを感じ、すぐに安心できました。

むしろ、ある程度妹が大きくなったからこそ「今なら話せるかな」と、家族にたいする私の正直な気持ちを打ち明けることもできました。


妹にとっては「お父さん」

一方で、妹から見た父や母、兄弟にたいする思いも聞きました。

兄弟間でも「立場の違い」によって全く捉え方は変わるんだなと、受け入れにくいこともありましたが、「それが自然だよね」と理解できることもありました。

妹にとっては継父は実の父親であり、世界にたった一人の大切な家族なわけで・・・

妹は父親の性格について「めんどくさい」とする部分がありつつも、欠点については「不器用なだけ」として認めているようでした。

親の都合でどれだけ振り回されてきてもなお、「大切なお父さん」「家族一緒がいい」と思う純粋な気持ちには、なんとも言えない気持ちにもなりました。

ただ、そうした妹の思いを聞いたのは初めてのことだったし、聞けてすごく嬉しかったです。


そして、その翌週に母と再会し、妹と三人でお茶をして、カラオケまで楽しんできました。母の歌う演歌があまりにも情緒的で、思わず涙してしまいました😂笑

こんな風に、母娘水入らずで過ごせる日が来るなんて、信じられませんでした。ましてや、大晦日に実家に帰って家族で過ごせたことは、もっともっと驚きの出来事でした。

一年前の私では、とうてい予想もしていなかったことであり、夫も私以上に驚いていました。

「こんなに簡単に・・・!?」

と思うくらい急展開がアッサリ続いて、拍子抜けしたくらいです。

が、何度も言うように、妹がいてくれたからこそ、家族とこうしてまたつながることができました。


継父との距離を今以上に縮めることはできないと思いますが、「妹の大切なお父さん」として、尊重したいと思っています。

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