人を憂えることを“優しい”というならば
『人生は私にはとても重いのに、あなたにはごく軽いのね。私、その軽さに耐えられないの』
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もしかしてその絵、トルストイになりかけた犬?という問いかけにこくりと頷く。
”トルストイ” と名付けらそうになった犬・カレーニンが表紙を飾るのは、ミラン・クンデラの「存在の耐えられない軽さ」だ。
本作は映画化もされており、冒頭の文章はそこから引用している。
学生時代、表面をなぞるようにあっさりと読み終えたその本を、何度も読み返すようになったのは、つい最近のことだ。
学生時代と現在の自分との間で決定的に違うものがあるとすれば「軽んじられるべき存在などない」という意識の強さかもしれない。
自身の存在の軽さを意識する要因は、人によって様々だ。
悪意がある、あるいは悪意のない言葉や態度、行動によってだったり、自己と他者との比較が原因となったり。
存在の軽さを実感させるトリガーは人それぞれで多様だからこそ、一般化することは難しい。
ある人にとっては思いやりや優しさに溢れた言葉や行動であっても、他の人にとっては「存在を軽んじられている」と思われるものになり得る。
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そういえば小学生くらいの時分だっただろうか、こんなことを教えられたことがあった。
・自分がされて嫌なことは、他人にもしないこと
・相手が喜ぶこと、嬉しいと思うことをするよう心がけること
“自分が” という自己の視点から考える方法と、
“相手が” という他者の立場から想像力を働かせること。
異なる2つの立場からの見方を意識すれば、
多少なりとも自分以外の誰かを傷つけたり、不快に感じさせるリスクは減るだろう。
そうした意味で、これらの教えは有効だったと個人的には思う。
けれどそれは、あくまでリスクを減らすだけだ。
人によって感性は異なるし、私たちはあくまで「想像する」だけで、当人にはなり得ないのに、ついそれを忘れて、善意が一人歩きしそうになる。
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「優」という漢字は、人を憂えると書く。
人を憂えることを”優しい”というならば、私は、優しい人間でありたい。
願わくば、憂うだけでなく行動を起こせる人間でありたい。常々そう考えている。
それだから、優しくない自分に気付くたびに少し悲しくなりつつ、優しくありたいとの決意をさらに強めている。
それと同時に、忘れてはいけないと強く意識していることがある。
あなたにとっての優しさと、私にとっての優しさは必ずしも同じではないこと。
そして、私にとっての優しさは、誰かを傷つけ得るものかもしれないということ。
軽んじられて良い存在などない。
だからこそ善意が一人歩きしないような、そんな優しさを持ちたいものだと、思う。
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