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「社会を変える」前に、やりたいこと

今日も思いつきから書き始めてみる。

「◯◯が社会を変える」という言い回しが流行りだしたのはいつからだろう? その「社会」は、「世界」になったりもするのかな。

ぼくはあまり「社会が(劇的に)変わる」ことに、積極的じゃない。どんなに出来の悪い社会でも、一度崩壊するよりは維持されてる方が、こどもたちには安全な社会だという気がする。

こどもたちの成長を、社会が変わるまで待て! とは言えませんから。

(そして「(劇的に)変わる」ことには、何か大きな犠牲がついてくるだろうという予感がある。仕方がないのかもしれないが…)

そう感じるのは、どんなに社会が混迷を極めようと、家の中とか、学校の中とか、コミュニティの中では、こどもたちを守る術が考えられそうだと思うから、かもしれない(考えられると言っているだけで、何もせずに守れるとは言わない)。

たとえば国が戦争を始めてしまったり巻き込まれてしまったりしたらそれも難しくなる。

だから政治家には「いまの暮らしを維持するためにどうするか」を真っ先に考えて欲しいと思ってきた。彼らには「社会を(劇的に)良くする」のは無理だと内心思っているからだ。ぼくは彼らに「改革」ということばを安易に使ってほしくなかった。

また、これから魔法のような方法が見出され、誰もが生きやすい、バラ色の社会がいますぐここに〜! と夢のようなことを経験できるとしても、またその後には地獄が待っていそうな気がするから、勘弁してほしい。

ぼくが思い出すのは、小・中学生の頃、休み時間などにふと廊下をみると、自分の母親がツカツカと歩いてる、追いかけると、職員室に入って行ったり、場合によっては追いかけずとも教室に入って来てまっすぐに教師のところへ行き、しばらく何かを話して、サッと帰ってゆく、という光景だ。

いまぼくは息子の通っている園へ、たまに「ひとつ申し上げますが…」と意見したりして煙たがられている様子だが、周囲の子の親は、どうやら、何かを感じたり思ったりしても言わない主義だ。園の方も、こどもの親からそんなふうに何か言われる経験が乏しいようで、どうにも頼りない。

こんなことでは魔法が使える政治家が総理大臣になって上から「社会が変わる」なんてことがあったとしても、足下の方はどうにもならない。

信頼はしても好き勝手にはさせない。

これが重要なことではないか。

信頼される方になってみろ。好き勝手にして、あとは知らねー、とか言われるより、ちゃんと見てるよ、と言われる方がよっぽど仕事しやすいし、気分もいい。

言うべき時に何かを言うためには、いま自分が何をどう感じて、どう考えているか、まずは、ちゃんと感じていないといけない。

ちゃんと感じてさえいれば、かならず何かしらの"ことば"になる、とぼくは信じてるのだが…

(つづく)

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「道草の家・ことのは山房」のトップ・ページに置いてある"日めくりカレンダー"は、1日めくって、7月31日。 今日は、「5才の夏が眩しい」話。

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