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こどもが生まれた時に思い知ったこと

この話は前も書いたかも。でも、ここ(noteの「道草のススメ2019」)では書いてないかも。忘れた。でもいいや。書きます。

ぼくはいま、妻と子と3人で暮らしている。

2014年にこどもが生まれた時には、心から、感動した。そんなふうな感動は、たぶんぼくの人生で、そうない。今後、2度とないかもしれない。

どんな感動?──人っていうのは、やっぱり生き物なんだ、動物なんだ! ということを心底思い知ったというか…

そんなの当たり前だ、と言われるかもしれないが、この社会では全然それを当たり前だと感じられていないとぼくは思う。

生きているってことは、一度死んだら、もう生きられないっていうことだ。生は、死があってこそ成り立つ。死なないものは、生きてもいない、というわけ。

生まれるというのは、簡単なことじゃない。──この社会ではすごくお金もかかるし、特別なこと、という感じ。いや、そういうことじゃない。それは、この社会のどうしようもないところであって、そんなこととは関係なく、こどもというのは、大人の都合(屁理屈)で「うまれろ!」と言われても生まれてこられるかどうかはわからない。

赤ん坊は、必死だ。必死で生きている。生きようとしている。大人の屁理屈なんか屁にもならない。

あぁ、ぼくも死ぬんだな、と思った。自分だけじゃない、妻も、この子も、いつかは死ぬ。それでいま生きている。

奇跡的な巡り合わせの中に、自分はいる、ということ。これを私たち夫婦の親、その親、その親、その親… と延々と受け継いできたということを思うと、気が遠くなる。いま、自分がここにいて、我が子がここに生まれてきたということが、"奇跡"ということば以外に表現できるだろうか、と思う。

この国は"少子化"(つまり、こどもがどんどん少なくなってきている)が、もう取り返しのつかないところまできているようだ。今日、こんなニュースが流れてた。

ぼくは若い人たちが安心してこどもをつくり、育てられる社会を共につくってゆきたいと願う。しかし、いまこの国(日本社会)は、まったくそういうふうにはなっていないし、今後そうやってゆこうというふうにもなっていない。

どんな反論があるとしても、現実はそうだ。このことに対する反論はどれも、現実を見ていない大人の屁理屈(屁にもならない理屈)でしかない。

これは経済問題でもあるし、それ以上に、性にかんする問題である。結局、人も生き物であり動物(哺乳類)だから、あらゆる問題がここに集まってくるのかもしれない。

(つづく)

「道草の家・ことのは山房」のトップ・ページに置いてある"日めくりカレンダー"は、1日めくって、10月7日。今日は、「雑草取り」の話。

さて、お知らせが多くなってきておりますが…

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10/27(日)には、「横浜らいず」で行われる「丘の上マルシェ」に、道草の家(アフリカキカクとひなた工房&モア)で出店します。

これの詳細は近々。

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※"日めくりカレンダー"は、毎日だいたい朝(日本時間の)に更新しています。

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