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嘘をつくことと,怒ることは本質的に同じである

今回,スコット・ハーショヴィッツさんの書かれた「父が息子に語る哲学の書」を読んだので得た知見について綴る.

哲学とは

 哲学とは何か.この問いに即座に答えるのは至難の業だろう.本書では哲学を理解するうえで,子供を一例にしていた.子供はすごい.自身の知識が足りないせいか,身の回りの現象や物事に対しての「なんで?」という知識欲が収まるところを知らない.また,自身が物事を知っていないという状態を恥ずかしがることなく,父や母にどう思われるのかを気にすることなど皆無である.だから疑問が止まらない.こういった常識に常に疑問を持ち続け,その疑問を解消しようと行動するその姿は,哲学者そのものである.
 一方,大人は常識を常識として認識する.そこに疑問が介入することは極めて稀で,考える余地は少ない.これは,より実用的な要素に取り組むようになるからである.(仕事でのトラブルにどう対応するか,晩御飯どうしようか,など)
 そして,子供はバカみたいな速度で成長する.大人は成長しているという実感がわきにくく,評価も受けにくい.生物学的な要素も大いにあるだろうが,この思考の差が,成長速度の差の一因であるとも考えられるのではないか.私たちも子供のように生きることができたならあるいはその力を発揮できるかもしれない.
 話はそれたが,本書にはこうも綴られていた.「哲学は考える力のことである」

トロッコ問題

 トロッコ問題というと,ほとんどの人が分かるだろう.暴走したトロッコが走っており,その路線の延長に5人の作業員がいる.自身は分岐点に立っており,路線を変えることができるが,そちらにもまた,作業員1人がいる.要は,5人を見殺しにするか,1人を殺すかという道徳的観点を問われる問題.だがこの問題の本来の趣旨は,なぜ,どういった理由でその選択をするのかという道徳的ではなく哲学的知見を試す問題であると筆者は綴る.実際に考えてみよう.トロッコ問題の場合,多くの人が分岐を操作し,1人を殺す方をとる人が多い(らしい).
 では,別の似たような事例で考える.ある病院に臓器移植待ちの患者が5人いる.その5人はそれぞれ異なる種類の臓器を移植する必要がある.そこに軽傷で命に別状はない1人の患者が訪れたとする.その軽傷の患者の5か所からそれぞれ臓器をもらい,5人の患者に移植すれば5人は助かる.この場合,一人を殺して5人を助けることをとるだろうか.
 また,トロッコ問題で5人が作業しているより前に橋が架かっており,その上に太った男と一緒にいる.男を路線に突き落とせば暴走したトロッコは男にぶつかり止まる.よって5人の作業員は助かる.この場合,あなたなら男を突き落とすだろうか.
 ほとんどの人はトロッコ問題では1人を殺す選択をするのにも関わらず,臓器移植と太った男の例では,5人を見殺しにする選択をとるだろう.それはなぜなのか考えてみてほしい.
 結論から言うと,これらの決定に差異が出るのは,手段と副産物の違いであるからだ.トロッコ問題では,1人を殺してしまうのは,5人を助けるときの副産物的現象であり,臓器移植や太った男の例では,1人を殺すことそれ自体が手段として含まれており,それなしには目的は達成できない.この違いが決定を変える.
 人が死ぬことを計画に入れ,それを実行するということは自己決定権を持つ人間を人間としてではなく,道具として認識,扱っていることに他ならない.では,相手の自己決定権を捻じ曲げなければならない場合は存在するか?すると考えている.それは責任があるときである.親は子供を育てる義務・責任があるため,子供の自己決定権に介入できる.嫌がる我が子を病院に連れていき,野菜を食べさせて,勉強を促す.裏返せば,責任を伴っていない人間の発言で制限されることはないともとれるだろう.

嘘をつくことと,怒ることは本質的に同じである

 集団的組織において,他者を目的のために物として扱ってはいけない.これは,ほとんどの人がなんとなく思っているのではないか.他者を目的のために物として扱うと信頼関係が崩壊してしまい相互理解ができなくなり,集団組織の崩壊を招くからである.(しかし,会社などで,契約により同意している場合はその限りではない.)
 ここで,本質的な部分としては,他者をモノ扱いする行為ではなく,信頼関係が崩壊し相互理解ができなくなるような行為であるということ.
 ではをつくのはどうだろうか.事実と異なる要素を故意に相手に伝える行為は,背景にある目的(勘違いさせることでメリットがある,またはデメリットを回避できる)を達成するために人を欺く.これは信頼関係を壊すのに十分な行為といえるだろう.

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