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子ども時代の宝さがしー私がお店を開いたら扱いたいもの(古本編vol.5)

E・ネズビット「宝さがしの子どもたち」吉田新一訳、スーザン・アインツィヒ画

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 いつだったか、学校から除籍図書として、貰ってきたものを見つけた。

「宝さがし」「子どもたち」というキーワードに惹かれたのだった。

 6人の子どもたちが、破産した父親の財産を取り戻そうと、宝さがしを始める物語だ。

 数年前に初めて読んだ時、子どもならではの行動や考えを微笑ましく感じたのを覚えている。

 だいぶ昔に書かれたこと(1899年に出版されたらしい)や、作者自身は先進的な女性だったが婦人参政権には反対派だった(訳者あとがきより)などから、

違和感を感じる描写や言葉が全くない訳ではないが。

 色々な考えを知るには良いとは思うし、作品自体の魅力が減るわけではない。

 結末には、良かったなぁと素直に思える。

宝さがし

 宝さがしという言葉に惹きつけられるのは何故だろう。

 私がこの本を手に取ったのも、その言葉に惹かれたからだった。

 幼い頃に、こんな風に宝さがしをした思い出があるわけではないけれど。

 宝さがしという言葉には、懐かしさを感じる。

 明確な宝さがしはしなかったけれど、自分にとって価値あるもの=宝は、ずっと探し続けていた気がする。

 どの箱や扉を開けるのかも分からない鍵を見つけ、それを大切にしたり。

 誰も知らない自分だけの場所を見つけようとしたり。

 そういった宝は、この本で子どもたちが探していた、お金になるようなものではないけれど。

 自分にとっては大切なもので、間違いもなく「宝」だった。

 幼い頃は、今よりももっと、周りに「宝」が溢れていた気がする。

 そう感じるのは、自分が大きくなってしまった証拠かもしれないけれど。

 今よりも多くの、様々なことに、ときめきと魅力を感じていた気がする。

 大人になったことが嫌というわけではないけれど。

 時々、子どもの心を思い出したいとは思う。

 子どもの時と同じ「宝」を、探す訳ではないけれど。

 時々は、自分にとっての「宝」を探したいなと思うのだ。

 そうしないと、自分のことが分からなくなってしまうような気がする。

 だから、宝さがしという言葉に惹かれるのだろう。

 「子どもたち」という言葉に惹かれるのも、同じような理由からだろう。

児童書に惹かれる理由

 改めて書くけれど、私が児童書に惹かれ続けるのは、子ども時代の心を忘れたくないからだと思う。

 子ども時代が全て幸福だった、子ども時代の心が全て正しかったと考えている訳ではないけれど。

 自分は無口な子どもだったから、

(というか、誰かに自分の気持ちを喋るという考えすら持っていなかった)

周りと馴染めていると感じたことはなかったし、ずっと違和感を持ち続けていた子ども時代だった。

 それでも、自分なりに幸福を感じていたことはあった。

 その幸福は大切にしたい。

 子どもの時に感じていたことは、今から思えば甘えであったり、そういうこともあるけれど。

 小さなことや他の人にとっては何でもないようなことに感動したり。そういうことを大切にしたり。

 そういった心、感情は、いつまでも覚えていたい。

 絵本や児童書は、そういった記憶や心を思い出す手段のひとつだ。

 だから、私が古本屋さんになったら、絵本や児童書をメインにしたいなと思っている。

 それから、洋書など、見ても読んでも楽しめる本を。

 五感を使って、楽しめるものを。

 そんなものを、届けたい。

 ※画像は、妹の絵を借りました。ありがとう。→https://twitter.com/o_yu_00

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