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言葉にしてしまえば本当に何でもなくて小さな葛藤だけれども


先日、色々なもやもやを昇華しきれなくて、自分の感情を整理したくて無我夢中で文章化したこれ。

これを書いた日は、自分に対してのもやもやのほか、相手への怒りや悲しさとか、憎らしさとか、様々な感情がぐるぐるしていて、それだけで参ってしまっていた。なんてもろいし甘いんだろう。頭ではそう思っていても、心が、全身が、悲鳴をあげていた。

それから4日後、同僚が去る日。
プロジェクトが佳境を迎え、これからさらに忙しくなるであろうその時。もはや、相手への感情は無くて。ただ、できるだけ今その人の中にあるものを残していってほしい、何か不足はないか?あとで困ることはないか?必死になって考えた。今までないくらい残業してる、もうこれ以上無理、と半ば冗談めきつつ、色んな苛立ちをあらわにされる。もう去る立場からすれば、どうでもよいことでも、残される立場から見れば、大切な資産。
引継ぎ内容について関係者にメールを出しておいた、とかではなく、メールなり資料出したうえで、口頭でも報告も欲しい。そう思ってしまうし、これ以上無理、と言わずに引き継ぎはやりきってくれ...と思った。
少し思うことがありながら、なんとかめどが立つところまでやりきる。小さな相手からの小言が、積もっていくのがわかった。けれど、4日前の自分よりは冷静に、怒りや悲しさを超越したような、無の状態になっていた。

帰宅すると、日付は変わって土曜日。
かねてより気になっていたコミュニティへ、今の自分のもやもやを昇華したい一心で向かう。とある講演や実践・体験の発表、グループトークが主だったが、その話の中で、話の内容だけでなく話を聞いて自分が感じたこと・思い起こしたことをぱらぱらと記録した。もやもやと向き合った。苦しかった。けれど、なんにせよ自室でこもって向き合うよりも、外的要因からヒントを得て自分を奮い立たせたり、自らの棚卸をすることは、きっとプラスになるはずなんだ、そう言い聞かせてた。

そんなこんなで迎えた週明け、月曜日。
メンバーが減っても、当たり前ではあるがそんなことはお構いなしに日常は流れていく。むしろ、その分仕事は増えるのだから、そんなことは気にしていられない。
全てが自分に戻ってきた、そんな感覚。必死に食らいつく。
身体も心底疲れ果てているけれど、それ以上に情けなさや悔しさでいっぱいになって、ひとり夜中のお風呂場で、いろんなものがあふれ出した。
何より、相手への行き場のない明らかな憎しみの感情を自分が抱いていることも苦しかった。

そして火曜日、水曜日も食らいつく。
必死にやっていく中で少しずつ、自分ゴト化していく感覚を覚える。
この感覚は悪くはない。そして、その中で”憎しみ”も少しずつ気にならなくなってくる。他人の人生、別に好きに生きることは何にも問題ない、ただおざなりに去ってほしくなかっただけ。
今だから思うけれど、他人に対して憎しみを抱くことは想像以上にエネルギーを使う行為であって、ある意味力が湧くのかもしれないが、それは自分を縛り痛めつけるものでしかなくて。
それならば、まだ自分自身を責めて、気落ちして、どうしようもなくなる、いつもの私の方がまだましだ。
どっちが良い悪い、そんな比較は論点からずれているのだろうけど。他人に向ける刃ほど、しんどいものはないな、と思えた。


ちなみに水曜日は、先輩とごはんに。
雑談もしつつ、諸々のアドバイスを伺えた。


私は、人に頼ることがきっと苦手だ。
依頼するときに、すべて情報を用意してあげて、そのうえでお願いしなければいけない、と感じてしまっているから。
「ある程度、特に社内では相手に要点だけ伝えて、あとは質問させる、それで良いんだよ」
自分の中の刺のような何かが、少しずつはがされていく感じ。気を許せる、ってありがたい。おいしいごはんって、ありがたい。


木曜日。印象的な出来事が。
先日人が抜けたことで、社内のメンバーが1名、プロジェクトに加わることになり、改めてその業務に入ってもらった。
簡単な引継ぎは済ませた。けれど、実務を特にせずに行った引継ぎ、業務を経て「やってみてはじめてこれが骨が折れる作業だと分かった」とのこと。

人間、実際にやってみないとわからないし、こういう実務を積むことでその人にも本当の意味でプロジェクトのメンバーとして入ってほしいし、何ならその実務を引き受けるからこそ、気づくこと・改善すべき点など、声をあげてもらいたい。そう思った。人に対してとても上から目線の言い方だけど、これも、その人の”自分ゴト”への一歩なんだと思う。


金曜日。
とある監修会議で、ひとり午後外出。
18時ころ、事務所に戻ると、そこには先輩だけ。珍しく、先輩が苛立ちを見せていた。先輩も時折言ってくれるが、そうやって適度に感情を出してくれるのは本当にありがたいし、気を許せる。ふとした時にガスを抜いてくれる存在は稀有だ。
責任感の強さ、面倒見の良さゆえの苛立ち。そう思った。

その夜は、とある偶然が重なり管理人さんとごはんへ。
5,6人ほどが腰かけられるカウンター席。こじんまりとした和食の店。
仕事の話、家庭の話、シェアリングの話、商売の話、「楽しさ」の話、、、ざっくばらんに話した。

人はそれぞれ、自分の道を生きている。
自分のことだって完全にわからないこともきっとあるだろうに、他人のことなんて、ましてや他人とその先の相手のことなんて、もっとわかるはずない。すごく具体的で、それでいて抽象的な話(矛盾した言い方だけど)をたくさんしたのだけど、その中にお互いの芯はきちんとあって。
それがまた面白かった。
楽しい、とかなんとかなる、とか、そういう気持ちを忘れたくない。そう思った。

しじみの出汁のきいた卵焼き、ししとうが添えられたさつま揚げ。
大根おろしとともにさっと頂く。染みわたる味。

残るお客は気づけば私たちだけ。店のご主人も、一服をしはじめる。
どうやら夜中にやってくるという常連は、今夜は出張で不在だそう。きっと私たちが、本日最後の客。
一時はこの地を離れたこともあるようだけど、ここが実家であり、ご自身のお店、だそうだ。フレンチのシェフをやられていたそうだが、和食に転身したらしい。

フレンチのデザートは、スポンジやら何やら、色々な種類があるけれど、和に限っては極論あんこを極めるだけ、そんなことを言われていた。西洋と東洋の文化が見え隠れする会話は、自分の頭の中にはあまりなかった話題で、それがまた楽しく感じた。

気づけば、雨もしとしとと。
ご主人にお礼を告げ、店を出る。またふらっと立ち寄りたい、そんな気持ち。


要は、自分のやるべきことを見極めて、お願いすべきものは早急にふる。
周囲を頼る。完遂するために、できることを考える。至極シンプルなんだと思う。
そして、一時の感情に揉まれて、それを見失ったり気持ちをそがれてしまうのは、きっともったいないし、それで気持ちを変に揺さぶられるのは疲れてしまう。避けたい。感動とか、うれしいことに対して、心を震わせていたい。(あ、なんか結構照れるというか、恥ずかしい表現?)


そういえば、今ふと思い出したこと。
Twitterでどなたかがいいねをしていて気づいた生命科学関連の取り組みをされている 高橋祥子さん(@Shokotan_tanaka)。
この方がとある質問箱への回答で発言されていた内容が、今の自分に響くものがあって。

覚書として文字起こし、リンクを記載させていただく。
きっと今の私も、次には「あんなことあったな」とか思えるはず。

‐----  高橋さんは日々仕事や活動をする中で、つらいとか、疲れたとか、いやになることはあるんでしょうか。あるいは強い使命感があるとそんなことは感じたこともないのでしょうか。

高橋さんの回答
‐----  つらいという感情も遺伝子によるただの一時的な生体反応ですので、長期的な時間軸ではすべてが夢につながっていることを考えると、一時の生態反応に飲まれる必要はないと冷静に対峙できます。


気楽に、もうちょっと肩の力抜いていこう。



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