『くじらの足音に耳塞ぐ』のおはなし

note復活させるとか言いながら一昨日ぶりになってしまいました。というのも、この週末は久しぶりに演劇に触れたのです。そのお話。まだギリギリ濃厚接触が許されていた時代、2020年の2月〜に私自身も出演しました『浪漫活劇譚 艶漢 第四夜』で出会いました末原拓馬さんという俳優さん、というか演出家、脚本家etc、なんでもこなす凄い方がいるのですが、彼が出演する『くじらの足音に耳塞ぐ』という作品を拝見しました。7/11〜12に劇場から無観客ライブ配信をするという「劇壇週間in劇前劇場」の一環で、ある意味私も流行りに乗った!という感じもしました。

劇壇週間in劇前劇場

この企画は演劇に携わる方々が、「こんな時期だからこそ、演劇に関わる人たちの能動的なつながりを大切にしたい」という気持ちで立ち上がったそうです。演劇の街・下北沢の「駅前劇場」から届ける生配信。HPに書かれている「舞台を主戦場に戦ってきた俳優陣が、生配信でどう表現し、どう観客と繋がってゆくのか」という部分にグッときますね。実は私も演劇こそ劇場!生でないと意味がない!と思ってオンライン演劇などといった映像を介して舞台作品を楽しむことに抵抗がありましたが、今回を機に少し考え方が変わったような気がしたのでこんなボリューム満点の記事を書こうと思いました。noteなので、本当に思っていることを容赦なく記しておりますのでその点についてはご了承ください。ちなみにここまで述べていますが、この企画について大賛成!素晴らしい!といった思いはそれほどなく、もっとやれることあるだろう、ましてや下北なのだからと思ってしまう自分もいます。下北には自粛前は最低でも月1回は観劇に足を運んでいたくらいなので愛着のある街であることには変わりありません。そして舞台業界を批判するような気持ちも一切ありません。

本題:『くじらの足音に耳塞ぐ』感想

ここまで企画のことについて書きましたが、今回のnoteの本題はあくまでもこの作品についての感想です。自分の中で思い巡らせたことを素直に自分のためにアウトプット。

7/11(土)17時〜 末原拓馬(おぼんろ)×美木マサオ(マサオプション)

『くじらの足音に耳塞ぐ』

まずなぜこの作品を観ようと思ったのか。理由は5つ、①拓馬さんの作品だから ②美木マサオさんがコンテンポラリーダンサーだから ③オンライン演劇というもの経験してみたかったから  ④下北を応援しているから ⑤コロナの影響で用事がなくなりリアルタイムで観劇できるようになったから である。⑤に笑ってしまうかもしれないが、私にとってはとても大きくて、オンラインなんてアーカイブやストリーミングと同じようだけど、やはり同じ時間を共有したいと思うのです。拓馬さんについては、自分でも驚くほど、そして悔しいという思いが芽生えてしまうほどアート思考が似ているような感じがして(あくまでも一方的ですが)、ファンの如く作品を見逃さないようにしています。そして大きな刺激と影響を私の人生に与えてくれるのです。大げさかもしれないけれど本当にそうなのです。感謝しています。美木マサオさんに関しては、私は初めましてだと思っているのですが、コンテンポラリーダンスという同じ界隈なのでもしかしたらどこかでお会いしたことあるのかな?となんとなく映像越しに見て親近感が湧いてしまいました。森下かどっかですれ違ったことあるのかな?みたいな。いつになったら感想が始まるのかしら?と思いました?私もです。

作品についての感想

長々と書いてしまう癖があるので、手短に飽きない程度に書きます。

すごく好き!!!

ね?手短でしょ?でも本当にこれなんだ〜。私が好きなタイプの作品、そう、こういうもの、まさにこれ、やりたい。これが観終わった後の素直な感想です。観た後に何か心に引っかかる、抽象的で、独自の世界観が人物とフィットしているのです。言葉も音楽も色彩も身体も、感覚が美しかったです。作品を見てあまりベタ褒めするタイプではありませんが、なんというか自分が創った作品なのかと錯覚してしまうくらい好みでした。「くじらの足音を探す」ストーリー。シーンごと噛み砕いて行きましょう。

序:最初は自己紹介的な。ここはまだ現実の世界、物語の世界に入り込む前のもう一つの物語。劇場を幼い頃の遊び場のように見立て巡り巡っていく。いつもは役者しか味わうことのない景色なので楽しかった。と同時に当たり前のように存在している劇場に愛と敬意を払っているようにも感じた。

くじらの足音:瞬間強力接着剤を使って手で耳を塞いだ男の話、耳から手を離すのを恐れている男の話。2人の関係性がとても好き、淡白に見えるかもしれないけれど、だからこそ椅子という1人で使う道具と2人の人間が密着するコントラストに身体美を感じました。なぜくじらなのか。なぜ耳を塞ぐのか。ここで1人の男の言動によって2人でくじらの足音を探しに行くという物語が始まる。

箱庭:ここでハッと気づかされたのは、膨大にセリフ量があるということ。相手とのコミュニケーションがないセリフを語るのは本当に凄い。頭の中で細かく細かく物語が繰り広げられているのだなぁと思った。そして小道具がめちゃくちゃ可愛い。モノクロなのも良いな。とても細かく繊細な小道具でこれだけでも1つの作品になりそうなものだった。口だけ動くパペット的な2人の老夫婦の会話劇、「くじらの足音」についてのヒントが見つかるような、そんなシーン。印象的だったのは何といってもシーン最後のお二人の手が絡み合う表現。これを見るためにお金を払っても良いと思うほどには美しかった。手という最大のコミュニケーションツールで、信頼やもどかしさ、さらには水の中を彷彿させる動きでとても美しかった。けど何で握手からあの表現になったのか、ここ聞きたい。

音屋さん:最初音符が落ちてるの、本当に可愛い。このシーンは一番私もやりそうだな〜と思えたシーンだった。気持ちや出来事を音にするって本当に素敵だと思うのです。そもそも音というものは世界共通言語だと思っているので、芸術問わず素晴らしいツールだと思っている。画角もよかった。目の前にピアニストの悠実さんがいらっしゃってお店屋さん感があった。メニューだったり空っぽの瓶だったり、本当に素敵だった。少しファンタジーの要素が含まれていた。良くある感じの演出だけどやっぱりなんか意味深で良い!良くて語彙力がない。反省。そしてコロナ禍だからか良く登場する”郵便”の表現。この郵便はもちろん後に登場するキーポイントになってくるわけだが、転換に使っていておしゃれだった。音の表現方法についてとても考えたシーンだった。音には物語があると再確認できた瞬間であった。

逃げてしまった影:美木マサオさんのソロダンス。あ〜〜まさしくコンテンポラリーダンスや。影という言葉の言葉遊びと身体のリンクがコンテンポラリーダンサーがやる演劇って感じ。演じる身体だった。途中画面が2つになって影だけになったのだけど、それもまたよかった。影に話しかけるのも何だか切なかった。何かそこから展開があるのかと思ったけどならなっかた。これはミスリード。拓馬さんにイマジネーションが足りないと言うのはウケた。

ブルーシート:一番好きなシーンだ。どうでもいいかもしれないけど「ブルーシート」なのにタイトルをブルーの背景にしなかったのが好き。これは全世界の人に観て欲しいな〜。ある種のイマジネーションゲーム。見えないお花見から繰り広げられる2人だけので世界感、これは誰も邪魔できない。ピアノの演奏がまた素敵なのです。全部台本あるのかな。2人の仲良しさ、無邪気さが伝わってくる。懐かしさだったり子供の頃の思い出が蘇ってくるのに、突如悲しくなるんだ。突然死をイメージさせるシーンに切り替わる。拓馬さん一人の語りになるわけだが、とても悲しい、胸がキューとなります。途中で『人魚姫』の話が出てきたが少し『人魚姫』めいた感じでもあった。特に叫んだ後、ブルーシートを触りながら語りかける場面。「ずーっとこうしていたいなぁとか、早くコロナ終わればいいなぁとか」苦しくなった。いつの間にかブルーシートが、水(波・海)を彷彿させていた。ブルーシートの色、グシャグシャする音、波の音のようにも感じた。(屍体が埋まっているから包めたの?多分違うよね)手、触るという行為をすごく大切にしていた。孤独をすごく感じる語り、人間らしい欲だったり喜怒哀楽だったり言語化できない思いを身体で表現し思わず涙してしまいそうになった。コンタクトは本当に素晴らしい表現だった。波っぽく、何かしらの葛藤を感じた。最後、画面が3つほどに分かれたが、どれをみれば良いのだろうと困惑した。欲張りなので。マルチアングルの課題かとも思った。にしても拓馬さんはコンテンポラリーダンサーなのかな?と思うほど凄い動きをする。感情が体に出ている。

最後に

結局くじらの足音というものは何だったのだろうか。冒頭で耳を塞いでいた者が最終的に生き残り、くじらの足音を聞いた。生物学的にくじらは耳が塞がれてるらしいが。終わった後、消化仕切れない作品だった。(いい意味で)解説を!と感じるのでやはり”コンテンポラリー”だなと思った。本当に良い作品だったのです!とてもとても考えた!素敵〜〜!劇場ならではの光の加減がやはり美しく愛おしい。でも画面越しだと勿体無い。劇場ならではの息遣い・熱・匂いがないのは少し寂しい。映像がもっと綺麗なら光の部分は改善されることかもしれないけれど、映像演劇の可能性もみれた作品でした!観てよかった!まじで!あくまでも素人の感想を綴ったnoteでした!長々と最後まで読んでくれてありがとう。

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