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つぎはぎ細工(11)

 案内された部屋に行くと、意外と若い医者が待っていた。薄暗い部屋で私たちに椅子を勧めて、一つ咳払いした。
「結果から言わせてもらいますと、岩永綾さんは、先ほど、息を引き取りました」
 ただでさえ混乱に陥っていた私の脳内は、ついに限界を迎えた。無だ。何も考えられない。綾が――死んだ? 何を言っているのだ、この人は。
「車に轢かれて、悲惨な状態でして、とてもお見せできません」
 最後まで聞かない内に、私は立ち上がって、部屋の外へと駆け出した。そのまま病院も出て、あてもなく走り続けた。よくドラマで、こういう状況で駆け出す人がいるが、私は今までそれが不思議だった。でも、今なら分かる。一人になりたかった。


 公園に着いた。遊具が多く、木々が鬱蒼と茂っている。時間が時間だけに、人はいなかった。私はベンチに腰を下ろした。
 明るい時なら子どもを誘うオーラを放つだろうが、暗いために不気味さを漂わせるブランコ。風でギシギシと音を鳴らしている。
 トーテムポールみたいな木でできた遊具もあり、用途が分からない事も相まって、夜の公園を不気味にしていた。
 ベンチの背に体を預けて、ゆっくりと深呼吸した。今にも涙がこみ上げてきそうになり、咄嗟に空を見上げた。空には星はなかった。都会はどうして星が見えないのかは知らないが、あったとしても今の私には何の慰めにもならない事は知っている。
 月は見えた。半円の月が、一人ぼっちなのに堂々と輝いていた。彼なら友達がいないクラスでも、生きてゆけそうだ。
 綾――。涙が突如、溢れてきた。止まらずに流れ続ける。涙って、こんなに出るのか。このまま泣いていたら、干からびてしまいそうなぐらいの勢いだ。
 綾と初めて友達になった日を思い出した。仲良くなれそうだ、とは考えなかった。そんな事を考えなくても、日々を過ごしている内に自然と友達になった。馬が合った。
 二年生の初め、変わりたいと思っていた私に的確なアドバイスをしてくれたのも綾だった。
 去年の夏、私が家に引きこもっていた時も、心配してくれた。
 転校の経験をもとに、別れの歌を贈る事を提案したのもそうだった。
 杉内たちを誘って忘年会を開けたのも、綾のおかげだ。いつも優しかった。私に足りないものをたくさん持っていた。
 この世に神様という存在はいるのだろうか。もし、本当にいるのなら、こんなに無情な存在だとは思わなかった。綾が若くして――まだ、十四歳――命を落とさなければならない理由は、どこにもない。神様は、私に今までで最大の悲しみを与え、罪なき少女の命を奪った。
 綾、あなたがいなくなったら、誰が毎朝、迎えに来てくれるの?誰が私の相談に乗ってくれるの? ずっと一緒にいてよ。傍で笑っていてよ。そのあたたかい眼差しで見守っていてよ。ねえ、綾。
「返事をしてよ、綾!」
 私の叫びは、虚しく暗闇の中に溶け込んだ。答えは返ってこないと分かっていたけど、それを待つように目を閉じて耳をすませた。
 涙は相変わらず頬を流れ続けた。
 トーテムポールだけが私の姿を捉えていた。


 昼過ぎまで眠っていた。眠る気にもならなかったが、疲れが溜まっていた。身体は正直なもので、いつのまにか私を眠りにつかせていた。
 起きてから、頭が混乱した。あれ、ここはどこだ。
 すぐに自分の部屋だと分かったが、イマイチ状況がつかめない。今日は何をする日だ。昨日は、何をしていた日だ。綾は――綾?
 じわじわと混乱が収まってきた。綾は、交通事故で死んだのだ。だから、迎えに来なかったのだ。いや、永遠に来ることはない。え、何それ? 綾が死んだ? そんな現実離れした話など、あるはずがない。夢に決まっている。そうだ、夢だったのだ。
 現実を直視しろ、相川紗希。心の声が聞こえてきそうだ。お前の親友は、もうこの世にはいない。
「綾……」
 弱々しく、かすれた声だった。流しきったと思った涙が、また目に溜まってきた。やがてこぼれ、昨日できた黒い筋をゆっくりと伝った。
 学校に行かなければ、とは思わなかった。それどころか、起き上がる気力さえ湧いてこなかった。何もかもがどうでも良かった。昨日の昼から何も食べていなかったが、食欲はないし、このまま餓死してもいいと思えた。綾のいない世界で、私はどうやって生きていけばいいというのだ。
 ふと、杉内の顔が浮かんだ。今頃、どうしているだろう。綾の死は、彼にどのくらい衝撃を与えただろう。空いている私の席を見て、どう思っているのだろう。心配してくれているといいな。
「会いたいよ……杉内君」
 そう呟いて、また眠った。


 夕方、お母さんの呼ぶ声で目を覚ました。
「紗希、杉内君っていう男の子が来たよ」
 部屋の入口に立った母の顔は、ややくたびれていた。私を案じていたのが分かる。
 え、杉内君? 何でこんなに早く。しかも一人で。私はまた混乱した。
「上げてもいい?」
 混乱が収まらない内に、答えを求められた。反射的に、黙ったまま頷いた。お母さんは、スリッパの音をパタパタとさせて、部屋から遠ざかっていった。
 いったい、杉内は何で来てくれたのか。上半身だけ起こして、部屋を見回した。昨日、着ていた服やマンガ、教科書などが散らばっていたが、幸い、壊滅的に汚くはない。
 私自身は、普通のパジャマで、問題はないと思われる。あ、顔がひどい事になっているはずだ。一応、洗っておこうかな。そう思って立ち上がりかけた瞬間、部屋のドアが開いた。現れたのは、杉内だった。本当に一人だった。
「相川」
 ドアをゆっくりと閉めると、私のすぐ近くまで歩み寄ってきた。ベッドの脇でしゃがんで、いつになく優しい瞳で私の顔を凝視した。私もまっすぐ彼を見つめた。
「……」
 しばらく、無言で見つめ合っていた。最初に視線を外したのは、私だった。手がかゆくなって、掻きたくなったからだ。少し俯く形になった。
 すると彼は、その瞬間を待っていたかのように、私をそっと抱き締めた。温かくて、あれこれ考えていた頭の中を、一瞬で真っ白にした。彼の髪が頬に触れた。動揺して、ビクンと身体が微かに震えた。頬が熱くなっているのが、自分でも分かる。
「相川、前から言おうと思っていたけど、お前のことが好きだ」
 耳元で囁いた。
「だから、学校に来てくれよ。お前がいなくて困る人間だっているんだ」


 綾の告別式があった。私たちを初め、三年生が全員、参列した。飾られた写真の中の綾は、綺麗に微笑んでいて、見た事がないくらい素敵だった。
 私はなるべく泣かないでいようと思っていたが、綾のお母さんの綾に向けられた言葉に泣かされた。母親の愛情が滲み出ていた。
 式の前に、未姫とまっさんに会った。ずいぶん久し振りな気がした。
「紗希、私たちはずっと紗希の友達だからね」
「一人きりだなんて思わないでね」
 二人とも、本気で私を心配してくれているのが窺がえた。私は才能や特技といったものに恵まれなかったが、良い友達に恵まれたようだ。何度も、ありがとう、と繰り返した。
 私は生き続けることに決めた。理由は、杉内だ。
 彼は、綺麗事を並べて慰めようとはしなかった。伝えたい事を一言に集約した。そんな杉内が愛おしかった。そして、その愛おしさを生きる活力にしていこうと思う。いつ、またヒビが入るか分からない薄いガラス張りの心だが、彼なら大切に扱ってくれるはずだ。
 綾の入った棺が、出棺の時を迎えた。喪主を務めている綾のお父さんの手には、位牌があった。その隣でお母さんが俯き気味に並んでいた。目が腫れているように見えるのは、気のせいじゃないだろう。綾の面影を残す二人の顔は、悲しみを思い起こさせた。
 私の横には、杉内たち軽音部メンバーが並んでいる。おしゃべりな小笠原も、今日は一言も口を開いていない。
「綾は」
 小声で話し始めた。杉内、浜中、小笠原、それに紅海が私の方を向く。
「私の最高の親友だった。もしかしたら、これから先の人生で、彼女以上の親友は、現れないかもしれない」
 紅海が鼻水をすすった。目が充血している。――素敵な人ですよね――綾が死にそうなタイミングで、偶然にも紅海は口にしていた。彼女の涙は、私に対する同情心から、というのもあろうが、綾に対する悲しい気持ちもあるだろう。
「だから、死のうかと思った。それが真っ先に浮かんだ。綾のいない世界なんて、観客のいないステージで踊り続けるようなものだ、って思った。
 でも、行き続けることにした。綾を想って涙に暮れる人がいるように、私を想ってくれる人がいると知ったから。親友を失ったのだから、命を大切にする義務が、残された私にあると分かったから」
 棺を乗せた霊柩車が、クラクションを鳴らした。哀愁を誘う、切ない響きに感じた。
「ありがとう、杉内君。よろしくね」
 声をさらに潜めた。他の三人は、聞こえなかった振りをしてくれた。
「ありがとう、綾。さようなら」

 私たちは車が見えなくなるまで見送った。


「相川、元気になったな」
 事故から一週間が過ぎていた。私はすっかり社会復帰を果たし、落ち込んだりしないで、できるだけ明るく振舞うように努めた。慰められると、逆に辛いからだ。
 軽音部もちゃんと活動した。時間を大切に、有意義に過ごすことが、今の私に課せられた最大の宿題だからだ。
 それで冒頭の台詞は、そんな私に向かって放たれた、小笠原の言葉である。
「そんなに前までふさぎ込んでた?」
「ああ、いや、あんまり」
 小笠原の答えが不明瞭になった。それはそうだろう、私は人前にそんな姿はさらさなかった。目にしたのは、この中だと杉内だけだ。
「相川」
 浜中が歩み寄ってきたので、そちらの方を向いた。
「七月のライブはどうする? お前の一存で決めていいぞ」
「決めるって、曲のこと?」
 私はわざととぼけた。
「違う、やるかやらないかだ。気持ち的にライブはやりたくないと思うなら、正直に言え」
 浜中は優しい。頑張っている私には、その言葉は胸に響く。声を上げて泣いて、彼の胸にすがりつきたい衝動に駆られた。
「相川」
 今度は杉内が歩み寄ってきた。
「おれたちの前でくらい、弱さを見せてもいいんだぞ。いつものパフォーマンスができないなら、ライブはやらない方がいい。おれたちはそれで納得する」
 二人の言い方的には、やらない方向で進めているようだ。私自身、やらない方がいいのではないかと思い始めていた。
 逃げちゃダメだ。
 これから、綾がいない事を痛感する出来事が幾度と私の前に現れる。それでいつも逃げていたら、きっと後悔ばかりする人生になる。
「やろう」
 私が呟くと、浜中と杉内は顔を合わせた。もう一度、「やろう」と言うと、ちょっと笑みを浮かべた。
「いいのか?」
「うん。やりたい」
 浜中は何度も頷いた。「そうか、良かった」

「その代わり、提案がある」
「何だ?」
 と聞き返したのは杉内。
「そのライブで、綾に捧げる曲をやりたい」
 二人は押し黙った。何か考えている様子だった。
「ダメかな?」
「いや、そんな事はない」
 浜中が否定した。
「だが、それだと本番で感極まって、演奏できなくなったりしないかな」
「私が歌う訳じゃないし、やると決めたからにはちゃんとやるよ」
「今はそう言えるかもしれないが、絶対とは言い切れないだろう」
「言い切れるよ!」
 私は少しムキになって答えた。私の気持ちは、私が誰よりも分かっている。心配してくれるのはありがたいけど、私の言葉を信じてほしい。
 杉内は腕組みをして、考え事を続けている風だった。が、やがておもむろに口を開いた。
「大丈夫だろ。相川がここまで言い張るんだから」
「でもな――」
「ライブは、見に来た人たちのためにやるもんだ。浜中の言い分も分かる」
 一度、言葉を切った。
「でも、ここは学校だ。岩永のことを皆、分かってる。相川がどれだけショックを受けたかも。
 だからって、失敗したら当然、許されない。皆が許してくれたとしても、おれたちが許さない。やるからには、完璧なライブを目指そう」
 私は力強く頷いた。浜中もゆっくりと首肯した。
「よし、だったら、曲を決めよう。小笠原と広池もこっちに来てくれ」
 いつもの浜中の口調が戻った。四人が私を中心に集まってきた。
 話し合いの末、今回はミスチルの『くるみ』とバンプの『supernova』の二曲に決まった。

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