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波累の話⑥

〜祖父母と私〜

今まで、悲しい話ばかりの私ですが、
祖父母には、とても大切に育ててもらいました。

母が家を出た小6の冬のこと。
図工の時間、版画を刷っても刷っても納得いかず
居残りして、頑張っていた。
思ったより帰るのが遅くなり、辺りは真っ暗。
私の家は学校から近く、友達数人と歩き出して
すぐ大きな人影が。
祖父でした。
心配して来てくれていました。
きっと父や母なら、来てくれていない。
ささいな事かもしれないけど、その頃の私にとっては凄く嬉しかった思い出。

雨の日や雪の日は、送り迎えをしてくれた。
お弁当には、私の好きな物しか入ってなかった。
父の起こした迷惑が私にかからないように、全力で守ってくれた。

大人になって、家を出てからも、手紙や電話で、
いつも私の事を思ってくれていた。
手紙の締めには、

「私達の宝物の波累さんへ」
「私達の生きる光 波累さんへ」
「私達の大事な大事な波累さんへ」

どんな時でも、どんな私でも大事に受け入れてくれた。

小学校六年生の私を褒めてあげよう。
あの決断は、みんなが驚いた。
だけど、間違っていなかったと。

祖父母と離れたくない!
と強く思った瞬間のことは、よく覚えている。

祖母が台所で料理をしていて、
私も隣で、いつものように何か話しながら、お手伝いしていた。
祖母は作業の手を止めず、とてもさりげなく

「お母さんの所に行っても、遊びに来てね。
 離れて暮らしても、私達の孫にかわりはないから。」

涙をこらえながら言った。いや、泣いていた。
私も涙が溢れてきた。
父か母かという問題ではなかったんだ。
私は祖父母と一緒にいる事が多く、その時間が大好きだった。
祖父母と離れるなんて考えられなかった。
祖父母は、私の決断を断る事も出来た。
父がいたとしても、年老いた二人が中学生の面倒を見るのは、
しんどかったはずだ。
それでも受け入れてくれて、心から感謝している。

もう一つ嬉しかったことがある。
父の知り合いから預かっていたシベリアンハスキーが、
赤ちゃんを産んだ事。
かわいくって毎日だっこして癒されていた。
お母さんハスキーも、体は大きいけど、
穏やかで、隣に座って肩をならべて悩みを聞いてもらっていた。

中学校に上がり、吹奏楽部に入って、
カッコいい楽器をやらせてもらって、
練習に明け暮れる。
少し家のことを忘れられた。
友達もたくさん出来た。
学校関連は、問題なく過ごせていた。

ただ一つ、大人に対しては凄く冷めた目で見ていた。
家庭訪問や面談で、私の家庭環境を知ると
「波累さんは精神の強い子です。」
「波累さんなら大丈夫。」
先生は、私がグレたりせず、
普通の真面目な中学生な事にびっくりしてる。
何も知らないくせに、知ったような事を言う。
「何でも相談してね。」(誰がするか、偽善者め。)
私は、親に捨てられたのと同じ。
実は、誰も信じられなくなっていた。


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