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発達障害というカテゴリー

こんにちは、りょーさんです。

今日は、「発達障害というカテゴリー」について、その言葉があることで適切な理解をしていきたいよね、でもそうならないこともあるよねってことを書いてみたいと思います。


人はカテゴリー化する生き物


チワワとブルドッグ、ゴールデンレトリバー、どれも僕たちは「犬」と呼びます。
でも考えてみるとこの三つの犬種、姿形がだいぶ違います。
冷静に考えると同じ「犬」というカテゴリーに属させるのはちょっと無理があるのではないかってくらいですよね、、、笑
チワワとブルドッグを見て、どちらにも「これは犬だな!」って認識できる人間ってすごい!って思います。

人間ってこういうふうに言葉を駆使してカテゴリーに分けることで、物事を分類、抽象化し、思考の負荷を下げることでより広く深く考えることができるようにする存在です。
もし、犬という概念がなく、犬種ごとに呼び名を変えていたら、全ての犬種を覚えないといけないわけで、犬ってカテゴリーがなければ、ただの知らない生き物になってしまうわけです。「それがいる」って感じになる。
そう考えると、おそらく物事の共通点を見出しカテゴリー化することは、言葉を持つ人間が生活を営むには必須の力なのではないかと思われます。


『進撃の巨人』で描かれるカテゴリー化することの問題


一方で、このカテゴリーにとらわれることで、大きな過ちを犯すこともあります。

『進撃の巨人』って漫画(アニメ)をご存知でしょうか。
人間の葛藤や愚かさ、社会の営みの困難さをこれでもか!っていうくらい描きだした漫画は他になかなかないって思うくらいの名作で、僕にとってはバイブルです。
この漫画は、後半(アニメではファイナルシーズン)で人種差別が一つのテーマとして扱われます。

被差別民族として描かれるのエルディア人は、「悪魔の民族」です。
ある共通点を持つ人々を「民族」としてカテゴリー化して、十把一絡げに「悪魔」というラベルを貼る。
そこで「エルディア人=悪魔」という教育を受け、戦士として育てられた少女が重要人物として登場します。「エルディア人は悪魔」と強く信じています。

そんな登場人物が悪魔の住むエルディア人の島に潜入し、暴力も含むさまざまな人々との関わりを通じて、悪魔とカテゴライズされていた人々、一人ひとりが同じ人間だということに気づく。「悪魔なんかいなかった」「そこにいたのは人間」と。
一人ひとりを触れ合い、その一人ひとりにもそれぞれの事情があり悩みや葛藤があり、営みがあることを理解することで差別していた自分の過ちに気づく、そんなプロセスが丁寧に描かれます。
ここまで描いた作者(とアニメ製作陣)の力量は、ほんとすごいなーって思います。

カテゴリー化できるから、より抽象的な思考が可能となるとともに、カテゴリー化するからこそカテゴリーの奴隷(思考停止)となって間違いを犯す、そんなこともあります。
それが僕たち人間という種族の特徴だなーって思います。

僕たちは、どうしてもカテゴリーを生み出す動物。とっても重要な能力であると同時に、ある種の思考停止を生み出すこともある。わかりやすいレッテルを貼る。

私たちの営みとって、カテゴリー化は必要不可欠だけど、そこで思考停止するのは危ないよーって話です。


発達障害というカテゴリー


発達障害も私たちの社会が生み出したカテゴリーです。

「自閉症スペクトラム(ASD)」「注意欠如多動性障害(ADHD)」「学習障害(LD)」「発達性協調運動障害(DCD)」…
ある特性と持った人たちの共通点を引っ張り出し、抽象化し、名前をつける。

このカテゴリー化は「必要だ」って僕は思います。より良い形で一人ひとりを理解するために。
一方で、それが「思考の単純化のため」のものなれば僕たちはカテゴリーの奴隷になります。

では、僕たちがより良く生きる、それぞれが「いい感じ」で生きられるために生み出されたカテゴリーをどう捉えればいいのか? いわゆる自閉症スペクトラム(ASD)を例に考えてみたい、今日はそんな話です。前置きが長くなりました。


自閉症スペクトラム(ASD)って??


自閉症スペクトラム(ASD)とはなんでしょうか。

アメリカ精神医学会の診断基準であるDSM-5では以下のように書かれています。

1  複数の状況で社会的コミュニケーションおよび対人的相互反応における持続的欠陥があること
2  行動、興味、または活動の限定された反復的な様式が2つ以上あること(情動的、反復的な身体の運動や会話、固執やこだわり、極めて限定され執着する興味、感覚刺激に対する過敏さまたは鈍感さ など)
3 発達早期から1,2の症状が存在していること
4 発達に応じた対人関係や学業的・職業的な機能が障害されていること
5 これらの障害が、知的能力障害(知的障害)や全般性発達遅延ではうまく説明されないこと

難しいですね、、、
とりあえずもうちょっとわかりやすい言葉に置き換えます。

1 コミュニケーションになんらかの難しさがあり、
2 同じことを繰り返すのを好んだり、こだわりが強かったり、興味の範囲が狭かったり、感覚が過敏だったり鈍かったり、
3 幼い時から上記二つの症状があって、
4 対人関係とか勉強、働くにあたって何かしら困難がある、
5 それらが他の障害のカテゴリーに当てはめることできないな、、、

ってことです。
障害特性の中核は、1と2ですが、3と4も重要です。
3は、幼い時からある、つまり生得的であるってこと。「育て方が悪いからではないよ」ってことです。
4は、社会で生きていくための何かしらの(潜在的なものも含め)ハードルやリスクがある。このハードルを「障害」っていうんです。
医療の診断基準でも医学モデルだけでなく社会モデルの考え方が入れ込まれています(社会モデルについては以下をどうぞ)。
「障害は本人のもの」という考え方だけに寄っていないのです。


診断基準、読んでどんなことを想像しますか?


さて、もし僕がASDの子供達に出会ってこなかったなら、どんな人を想像するだろう?
何も知らなかったら、「得体の知れないもの」として捉えてしまうかも知れないし、なにかカテゴリーに押し込まれたステレオタイプを思い描くかも知れません。
知らないから「怖い」って思うかも知れない。診断とか障害という言葉にとらわれて、言葉の奴隷となって、あるいはカテゴリーの奴隷となって、知らず知らずのうちに差別や偏見を押し付けてしまうことだってある。
ここで僕がしたいのは、「知らず知らずにそれをしているかも知れない」ということに自覚的になるのが大事なのでは?という提案です。

カテゴリー化することで、僕たちは、生活すること、人と関わること、働くこと等に(潜在的なものも含め)困難があったりする方々に配慮をしたり、一人ひとりに合わせた教育や訓練を受けてもらったり、本人が生きやすいような支えをしていくことが可能となります。
一方で、カテゴリー化することで、何か特定の人たちをその中に押し込み、偏見(スティグマ)を生みやすくすることもある。僕たちが想像力を働かせることを怠ることによって。


そこにいるのは人間、だから一人ひとりを理解したい


僕はいわゆるASDと診断されている(あるいは疑いのある)子供たちとたくさん関わってきました。
一人ひとりと関わっていると、確かにこの基準に当てはまる感じはある、、、「ああ、確かに」って思うんだけど、一人ひとり見ていくととても多様なんです。「そこにいるのは人間」なんです。
明るい子もいればおとなしい子もいるし、勉強バリバリできる子もいれば、苦手な子もいる、人が好きな子もいれば人との関わりに恐れを感じていうる子もいる、感じている葛藤や喜びもそれぞれだし、好きなもの得意なものも傾向はあれど多様です。

仮にASDと診断されていたとしても人はそもそも多様なのだ、つまり「一人のかけがえのない存在なのだ」ってことを前提としないと、カテゴリーの中に押し込んで、偏見を持った目で見て、その人が可能性のある存在であることを忘れ、「〇〇だからできない」という眼差しで見ることになります。その時人は、カテゴリーの奴隷になってしまっているんだと思います。

一人ひとりの豊かさの触れながら、カテゴリーが与えてくれる視点を「その人を理解するための視点」としてとらえ、その人自身をより立体的に豊かに理解する。カテゴリーをそのための道具にする。有効活用する道具であり、捉われるべきことではない。

支援をする立場になると、その人の「理解者になる」ということがどれだけ大事か、そしてどれだけ難しいか、気付かされます
理解しようとすること、難しいけどそれが必要。
だから、理解するための道具としてのカテゴリー。決してカテゴリーに押し込めるためにカテゴリーがあるのではない。



発達性協調運動障害(DCD)
については、とらさんが書き始めています。とらさんの専門性のところなので文章がイキイキしていますね笑、ぜひご一読を。


最後まで読んでいただきありがとうございました。


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