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発達障害と社会モデル

こんにちは!りょーさんです。

今回から、発達障害についてちょっとずつ書いていこうと考えています。


障害って何?


そもそも障害ってなんでしょうか?
「障害はその人のもの」
「(目が見えない、足がないなどの)機能的なハンディキャップ」
って考えますか?
こういう考えを「医学モデル」とか「個人モデル」とか言います。
大変な状況にある方々を医療的にサポートしていくには、不要な考え方ではないのですが、これだけだと差別や偏見がなくならず、私たちの社会が抱える問題を等閑視してしまいます。

だから、大きな流れとしては、「障害を生み出すのは社会の側である」という考え方に移行してきています。(日本はめちゃくちゃ遅れていますが、、、)

これを「社会モデル」って言います。
「発達障害」に引き付けて説明していきますね。


社会モデルとは?


たとえば、ASD(自閉症スペクトラム)の子供たちは、平均から見ると、こだわりが強く、コミュニケーションがちょっとずれていて、社会性を身につけることにハードルがあったりするわけです。平均からある程度遠い位置にあるわけです。
(平均から見ると、、、ってあえてつけました。本当は誰もが発達には凸凹があるのだけども、、、)
で、それ自体を「障害」と診断したり、ラベルを貼ると、「医学モデル(個人モデル)」です。

でも、たとえば、その人が発達障害の診断がされているとして、経済活動や社会活動をしていて、日常生活に特段支障がなく、心身ともに健康で、楽しく生きているとしたらどうでしょう? 

医学の診断基準で「障害」という診断がつけられていたとしても、果たして「障害」と言えるでしょうか?

逆に、医学モデルとしての「発達障害」だとして、その人が育つ過程で、たとえば教育の中で、親やクラスメイト、教員の無理解等によってたくさんの傷つき体験をしてきたとしたら?
その傷つき体験によって、その人らしい成長が阻害され、本来の力を発揮できる場がなく、「生きにくさ」を感じながら生活しているとしたら?

このような状態によって、生まれるのが「障害」です。
社会モデルの立場に立つと、その人が障害者なのではなく、その人が豊かに育ち、安心して生活する機会を与えられていない状態が障害なのです。
もっというと社会が障害を持ってしまっている
ってことです。社会が残念!ってことです、、、。
(児童精神科医の杉山登志郎先生は、発達障害=発達凸凹+適応障害、と定義しています。適応障害を生み出すのは社会の方なんです)


トマトをトマトとして育てる。


もしみなさんがトマトの種として誕生し、ある土壌に植えられたと考えてみて欲しいです。トマトでなくても茄子でもきゅうりでもいいです。

育てる人が「トマトは単価が良くないからもっと高価なスイカみたいに育てたいな!」って思って、スイカ用の肥料を与え、スイカ用の気候で育て、スイカに必要な水分をあげたらどうなるでしょう?
みなさんは「余計なことをしてくれるな!」って思う
でしょう。

逆に何もしなかったら? 
「てきとーなところに植えておけば勝手に育つでしょ?」ってタネだけ蒔いて放置していたら? トマトであるみなさんは、干からびた時、「ちょっとくらい水まきしてよー」って思うでしょう。

どちらにせよ、たぶん、枯れます。育ってもヒョロヒョロでわずかな実りしかないのではないでしょうか。

さらにいうと、トマトに比べ、人間は複雑です。
前者において、スイカのように育てられれば「私はスイカ!」って思って育ちます。スイカの仮面を被る。本当の自分を隠して生きることがどれくらい苦しいことか。

もし、あなたが誰かから「なんでトマトに生まれたの!?スイカに生まれて欲しかった!」って言われて、あるいはそういうプレッシャーの中育てられたらどうでしょう?それも苦しいことですね、、、。

こう考えたら、トマトを無理にスイカにしようとするのではなく、トマトがトマトらしく、のびのびと根を伸ばし、茎や葉を育て、自分らしく花を咲かせ、実りを結ばせることのほうがよっぽど大事なことだってことがわかるかのではないかと思います。

トマトは子供たち、トマトが育つ環境が家庭であり学校であり地域社会の例えだとして、僕たちは「トマトがトマトとして育つ環境をつくれているだろうか?」っていうことです。
果たして僕たちの社会はそこと向き合っているでしょうか。


子育てや教育において発達障害をどう捉えていくか


発達障害について、昔ながらの価値観を持つ人は、「昔から、こんな子たくさんいた!」って言います。ここには「だからあまり特別扱いするな」っていう含意があります。
その結果、本人にあった土壌も肥料も水分も与えられず、傷つき体験をしまくって、本来ならば社会で活躍できた人たちが、大人になっても苦しんでいる事例がたくさんあります。

逆に「発達障害って診断がついた以上、できるだけみんなと同じに、普通なれるように訓練させよう!」って思う人もいます。
訓練を否定するわけではないのですが、「普通にさせよう!」って考え方自体が「トマトをスイカにしよう」って発想になっている可能性があります。これも傷つき体験を生み出すリスクがあります。

どちらも極端な例ですが、このような発想になる親や教育者がそれなりにいるのは事実です。

このように考えると大切にすべきは、「トマトだろうがナスだろうがスイカだろうが、その実りを豊かにするため育てよう」ってことではないか。僕はそう考えています。

これが発達障害云々の前に、子育てや教育や子供の福祉・医療の下敷きになるべき考え方なのではないかなーって思うのです。

最後まで読んでいただきありがとうございました。


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