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習慣~コロナストレスと不適応

生まれもって同じ習慣を繰り返すのが得意な人とそうでない人がいると思う。
朝起きてから出かけるまでの習慣。食事に手を付けるときの順番。お風呂に入ってからの行動。寝る前の儀式的な習慣まで。

毎日欠かさないことを意図的に習慣づけているということはわたしには尊敬に値することだ。
わたしは自分がどうするかはその時の自分しか知らないと思っている人間だから。予定とか約束から一番遠い人間だと思う。勿論予定とか約束に自信が持てなくても、その約束の向こうにいる相手を大事にしたいという価値観があるからわたしは社会性を保っている。

そんな中note毎日投稿がようやく50日になって。
日課のはずの呼吸法と瞑想がやや飛び飛びになっていた中久しぶりにしつこくやって。

気づいたことがあった。

習慣というのは自分の軸をつくるのだな、と。

習慣にしている事柄自体がもたらすものはわかりやすい。
食後の運動だったら血糖値の降下と安定だろうし、読書なら情報量は勿論英語などの多言語だったらその言語に対する読解力が高まるなどあるだろう。

他のことをあまり続けたことがないから偉そうなことは書けないけれど、習慣というものは「これがわたし」「ここが居場所」みたいな感覚を造るものだと思う。
それをやると自分に還るというか。

だから。

そういう習慣が内側にない人はいま辛いかもしれない。
誰かと会って気持ちよく飲んで騒ぐことが毎週金曜日の習慣だった人とか。
定期的に予定を合わせて旅行に行くことで自分のリズムを作っていた人とか。
ライブでもなにか他のイベントごとでも、外に「支え」を作っていた人は今どんなにストレスを抱えているだろうと思う。

自宅でのウォーキングやヨガ、瞑想などの小さな習慣がしばらく欠けることでもぐらぐらのガタガタになりうるのだ。
自分の体験でもあり、講師の先生が自らの体験としておっしゃっていたことでもある。

コロナは益々拡がるばかりで日々新たな問題を生み出している。
今日も人災としか言えないような状況で小さないのちが奪われてしまった。
すべてのことがなるべくしてなって完璧であるとしても痛みは起きる。
例え麻痺することがあったとしても、痛みに慣れることはない。

他の人の在り方や喜びはどうにかできるものではないけれど、かつて得られたはずのものを追い求めるのではなくて、いまこの状況で自分が見いだせる喜びを新たな支えとして1日を有意義に生きれるのなら・・・

どんな状況だろうと、いつかは死を迎えるこの肉体における貴重な1日なのだから・・・自らと周りの人を喜びで満たすことに使えたのなら。
そうしたら、きっといつ死んでも後悔は少ないだろうから。

届くといいなと思う。

不安で胸がいっぱいの人に。
不満を仮面越しに周囲にぶつけるしかない人に。


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