見出し画像

『劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン』映画評・感謝を伝える

こんにちは。ササクマです。趣味で映画評を書きます。この最初の挨拶文を考えるの、けっこう大変です。高確率でスベります。

さて、今回は待望の『劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン』です。

前回の反省を活かして公開後2日目に行き、劇場版のパンフを買い占めてやりました。メルカリで売りさばきます。嘘です。そんな資金力ありません。

本編の作品説明については、外伝の映画評をご覧ください。

キング・クリムゾンの能力で時間を飛ばされていない限り、みなさんリンク先を踏んでいただけたと思います。いつの間にかスタンド攻撃を受けていた方は、別にどうもしなくていいです。

まさかTVシリーズを見ていない方が先に劇場版を見るとは考えにくいですが、何も知らない方が先にわたしの映画評を読む可能性はあるので忠告しておきました。わたしが書いた映画評おもしろすぎますからね。読み進む手が止まらないのも無理ありません。

作品紹介を割愛した代わりに、京都アニメーションとは何かを最初に説明しましょう。


○京都アニメーション

創業者は八田陽子さん(現専務)。彼女は手塚治虫さんの虫プロにて、アニメーション彩色の仕事を経験していた。

京都に移住して八田英明さん(現社長)と結婚し、子どもが生まれた後もアニメーションの仕事を続けたいと思い、アニメ制作の彩色工房を立ち上げる。そしてシンエイ動画の社長である楠部大吉郎さんとの縁により、仕事の依頼を得るようになってから、法人会社として1985年に「京都アニメーション」が設立された。

映画「クレヨンしんちゃん」などのエンドロールに、仕上げスタッフとして京都アニメーションの名前がクレジットされている。東京と京都では距離のハンディキャップがあるものの、それでも仕上げをお願いしたいほどに京アニスタッフの技術は業界から信頼されていた。

その他もタツノコプロの下請け、グロス請けのキャリアを着実に積み重ね、ようやく2003年に初の元請け作品『フルメタル・パニック? ふもっふ』を制作。さらに2005年には恋愛アドベンチャーゲーム原作の『AIR』を、全話グロス請けに出さず高い完成度で制作した。2020年現在も他社へのグロス出しは行っていない。

グロスって何? という方、以下の記事を読めば、アニメ制作に関わる基礎知識が身につくのでどうぞ。宣伝。

様々なルートがあるゲームと、一本道しかないアニメでは話の構成が異なるのだが、京アニは原作に忠実なまま巧みにストーリーを展開させ、伝説の泣きゲーとされる『AIR』の世界観を少しも損なわなかった。その後も京アニはゲームブランド「Key」作品をアニメ化することになり、中でも2007年放送『CLANNAD』は本編全44話の大傑作である。めっちゃ泣いた。

しかし、京アニの名を世に轟かせたのは『CLANNAD』ではなく、2006年放送『涼宮ハルヒの憂鬱』だ。Key作品は元からオタクの人にしか響かないが、ハルヒは一般人をオタク化してしまうほどの社会現象を巻き起こす。わたしのことだ。

ハルヒの何が革新的だったのか? それは原作を超えた話題性だ(もちろん原作も最高のバイブル)。原作はライトノベルであり、ゲームと同じくアニメとは話の構成が異なるが、京アニは大胆にも物語の時系列をバラバラに放送した。

いきなり1話目からわけわからん自主制作映画が始まるのである。その他にもEDのダンスや、「ライブアライブ」の劇中歌バンド演奏シーン作画が伝説として語り継がれることとなった。このように、京アニは意欲的にアニメ演出を模索し続け、それを実現できるだけの技術力を合わせ持つ。(いくらなんでも2期のエンドレスエイトは頭ぶっ飛んでるが、後になって見返すと中毒性あって面白い)

ヤバい。ハルヒの話になってから、急に語り出すオタクになってしまった。普段は根暗で上手く人と喋れないくせに、ハルヒのことになると饒舌に話せるくらい人生に釘打ちされた作品なのである。

で、Key作品を含め、ハルヒの監督をしたのが石原立也(現取締役)。京都府出身で、大阪デザイナー専門学校を卒業後に京都アニメーション入社。人材の入れ替わりが激しかったとされる京アニの下請け時代からアニメーターとして活動し、シンエイ動画との仕事で演出に転向していたため、元請け制作で初監督を務めることになった。他にも『日常』や『響け! ユーフォニアム』など、原作付きの作品でアニメならではの表現を突き詰めている。

オタクの記憶に焼きついた衝撃作ハルヒ後も、京アニは再び社会現象を巻き起こす。2007年放送『らき☆すた』はオタクの女子高生が主人公であり、オタク文化が世間に注目されてきた時代に、オタクあるあると時事ネタを絡めた作風が当時のライヴ感を生み出した。

小ネタ・パロディはもちろんのこと、実在の人物まで悪ふざけレベルで登場しがち。そのメタフィクション的な作り込みが功を奏したのか、本作の舞台となった埼玉県の鷲宮神社にファンが押し寄せ、神輿を担ぐイベントまで開催するようになった。アニメの聖地巡礼による、地域活性化の先駆け作品とも言える。監督は武本康弘。『氷菓』や『甘城ブリリアントパーク』を手がけた。

まだまだ語るぜ。次の社会現象アニメは『けいおん!』だ。ここで書く社会現象の基準とは、オタク人口を爆発的に増殖させた作品のことを指す。別に統計データがあるわけじゃないが、わたしの兄も部活の先輩も『けいおん!』を通ってオタクとなった。

『けいおん!』の魅力はOP&ED曲と劇中歌のクオリティが高いのもさることながら、それでいて優しい世界観にあるとわたしは思う。ゆる〜い日常系の物語は、荒んだ視聴者の心を癒しに癒した。

他にも日常系アニメは存在したが、『けいおん!』は女子高を盗撮でもしてんのかと錯覚してしまうくらい、キャラクターが自然体なのだ。それを物陰に隠れて凝視するまでに、変態性を昇華させたのが『リズと青い鳥』である。息を殺して見ていた。監督は山田尚子、脚本は吉田玲子の黄金コンビ。『たまこまーけっと』と『聲の形』も最高。

とまぁ、作品を世に出せば大ヒットする京アニであったが、現在のアニメは製作委員会方式で作られている。どれだけヒット作を飛ばそうとも、その売り上げは出版社やグッズ会社、イベント会社などに分配されてしまう背景もあり、京アニは自社の出版事業、ショップ、養成塾を立ち上げた。

アニメ業界の闇については、こちらの記事へどうぞ。宣伝。

で、そのレーベルがKAエスマ文庫である。原作とアニメを一本化したことにより、『中二病でも恋がしたい!』ではオリジナルキャラを出しまくるなど、自由度の高さを発揮した。そして女性向け作品の『Free!』や、ダークな世界観である『境界の彼方』など、従来のイメージには無かった京アニらしからぬ物語のアニメが制作されるようになった。

中でも『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』は異質であり、それでいて京都アニメーション大賞を獲得した唯一の作品だ。わたしもTVシリーズではボロボロ泣いたし、外伝の映画評を書くくらいにはおもしろいと思った。劇場版にて完結を迎える本作が、どこへ旅立ったのか一緒に見届けてほしい。


○スタッフ

■監督:石立太一(現取締役)

1979年生まれで現在40歳のため、京都アニメーションに入社したのは2000年くらい。下請け時代に原画、演出デビューを果たし、その後も数々の京アニ作品の絵コンテ・演出を担当。2011年『日常』にて副監督を務め、2013年『境界の彼方』で初監督となった。

よく多用するアニメーションの演出としては、一眼レフカメラの単焦点レンズで撮影したようなボケ感が特徴。焦点とはレンズの凹凸から通る光線が屈折し、一点に重なる場所のこと。レンズから焦点までの距離を調節することで、画角の広さ関係を変えることができる。

で、単焦点レンズとは、焦点距離が固定されたレンズのこと。被写体に対してズームできないため、カメラマンは自分から移動して撮影するしかない。風景や記録の写真には向かないが、ズームレンズより薄い構造のおかげで、より光を取り込める利点がある。

光量は絞りによって調節することができ、レンズ内の絞り羽根を開くと光が通る穴が大きくなる仕組みだ。光が多いと画面全体が白っぽくなってしまうが、被写体にピントを合わせることで印象的に浮き上がり、背景が光に包まれボケるのだ。

この表現手法をアニメに取り入れることで、映像に奥行きが生まれる。また空気の冷たさ、重さ、歪みを感じられるため、キャラクターが生き生きしているように見える上、画面が明るいので一つ一つのシーンが絵画のように美しい。

そして背景がボケると、よりキャラクターの表情が強調される。単焦点レンズの撮影は被写体とカメラマンの距離であると同時に、我々の距離でもある。つまり、キャラクターの顔が近いのだ。この距離は人物の魅力を最大限に引き出す近さであり、ヴァイオレットの潤んだ瞳、輝くような金糸の髪、薄紅色の唇などが息を呑む可憐さで映っている。

演出、作画、仕上げ、美術、撮影、デジタルエフェクト。すべての制作工程を社内で一貫して行う、京都アニメーションだからこそ可能な演出方法と言えるのではないか。


■脚本:吉田玲子

京アニ御用達の人気有名脚本家。以前に書いた映画評『若おかみは小学生!』でも紹介したので、ここでは説明を割愛する。やってることは省略だけども。以下に記事を貼り付けよう。宣伝。

今回の映画評を書くため、原作小説を買って読んだ。原作は時系列がバラバラだが、TVシリーズでは順序が整理整頓されているという、逆シャッフル現象が起きている。

おかげで、ヴァイオレットが人の感情を知っていく過程を、一話ごと一話ごと懇切丁寧に描けた。これぞシリーズ構成の技量。まさに圧巻の一言。すげぇ。


■音響監督:鶴岡陽太

アニメ、映画の音響制作会社、楽音社の代表。京都アニメーションとは非常に関わりが深く、元請け制作が始まった頃から作品の音響監督を担当している。そのため、音響での発言力は石立監督より強かったり。

また、彼は声優の素質を見抜く才能もあり、新人声優であろうと作品のプラスになるのであれば積極的に起用する。杉田智和や中村悠一など、鶴岡音響監督の指導により鍛え上げられ、日の目を浴びるようになった声優も多い。

他にも何か調べて書こうと検索したら、すげぇサイトが出てきたのでリンク貼り付け。


■原作小説:暁佳奈

2014年、第5回京都アニメーション大賞を受賞。翌年に上巻を刊行。北海道在住の女性。アニメ『CLANNAD 〜AFTER STORY〜』が大好きなので、京都アニメーション大賞に応募したとのこと。

原作の巧みな文章表現については、以下の記事を参考にどうぞ。

また、作者本人のインタビューも公式サイトに載っています。


○登場人物

はい、ここから先は登場人物紹介です。なのですが、わたしは原作小説を読んでいるため、TVシリーズだけでは深掘れなかったキャラクターの過去を知っています。

マウンティングではありません。基本的にKAエスマ文庫は品薄です。あれ書店が本を入荷したくとも、書籍ではなくアニメグッズに分類されるらしく、なかなか本棚に並びません。アニメイトとか行った方が良いです。

そのため、原作読みたいけど未読の方は、ここから先を読むことはおすすめしません。ウィキペディアもダメです。どうしても先が気になる方、別にネタバレを気にしない方だけ読んでください。

いざ、参る!


■ヴァイオレット・エヴァーガーデン

劇場版にて18歳となった少女。幼少期は謎の組織に殺人兵器として訓練されていたらしく、凄まじい戦闘力を有している。これは隠し設定だが、同僚のベネディクトとは実の兄妹であり、組織から逃亡する際にミスをして生き別れてしまう。不幸中の幸いで無人島に流れ着いたものの、長い投薬生活の副作用もあって記憶喪失となる。ただ、かろうじて洗脳教育の効果だけ残っていたところ、海軍のディートフリートに拾われて少女兵となった。

で、その後はTVシリーズの通りである。洗脳教育の一環である刷込み学習により、とにかく命令者に対する依存心が人一倍強い。だが、ギルベルトから「あいしてる」と言われた衝撃により、洗脳が解かれて自我が芽生えた。

この一言の意味を理解したくて、彼女は手紙の代筆業を始める。そして道具としてではなく、一人の女性として生きることを自分で決めたのだった。


声優は石川由依。子役の頃から劇団に所属。2013年『進撃の巨人』のヒロイン、ミカサ・アッカーマン役に抜擢され、声優として注目を浴びる。2014年『アイカツ!』では主要キャラクターの一人、新条ひなき役で天真爛漫な少女も演じた。

ソロプロジェクトにて、朗読劇を行っている。暁佳奈先生の完全書き下ろしストーリーであるため、本作のファンであれば今後も活動を追いかけたいところだ。


■ギルベルト・ブーゲンビリア

陸軍少佐。生真面目で頑固者。自由奔放な兄に代わり、名門ブーゲンビリアの当主となる。ヴァイオレットの名付け親であり、25歳の時に彼女を引き取った。

最初は非人道的な扱いに憤ったものの、彼女の常人離れした戦闘力を見て考えを改める。小さな殺人鬼を放置するわけにもいかず、かと言って誰かに預けるわけにもいかない。そして国の情勢を鑑みた結果、自分が戦場で正しく使うことを決める。

とはいえ迷いは常にあり、非情にも徹し切れないので中途半端になる。一緒にいさえすれば彼女は道具からヴァイオレットになると思っていたが、そんな吉兆が見られることもなく最終局面へ。死ぬ間際になって、彼女に自分の本音を告げるのだった。


……劇場版のポスターを見て、察しの良い方は気づいたろう。


ギルベルト、生きてる。

原作だと下巻で判明しており、クラウディアもディートフリートも最初から知っていたが、ヴァイオレットには教えないよう口止めしていた。だが、アニメだとマジで誰も知らないことになっており、むしろ死亡説が有力になることで物語が魅力的に展開されている。

原作とアニメの共通点は、どうして彼が生き残れたのか明確な理由が無いことだ。まぁでも、生きていてくれて良かった。良かったが、この人は戦争が終わった後、数年間も何をしてたの? 少なくとも外伝の中で3年の月日は流れていたわけで、大馬鹿野郎だよ……。


声優は浪川大輔。小学生の頃から劇団に所属しており、子役の映画吹き替えの仕事をしていた。声優事務所ステイラックの代表取締役でもある。

本当に数多くの作品に出演している人気声優。トークも達者であり、よく舞台挨拶で場を賑やかにしている。小野大輔とは名前も声も似ているが別人。


■ディートフリート・ブーゲンビリア

海軍大佐。ギルベルトの兄で極度のブラコン。ヴァイオレットを拾った張本人だが、彼女のことを毛嫌いしており、厄介払いのつもりで弟に押し付けた。

彼がヴァイオレットを嫌うのは理由がある。最初に無人島で彼女を発見した際、発情して襲いかかった船員が返り討ちにあった。危険を察知したディートフリートは「殺せ」と命じるが、それを自分の命令だと勘違いした彼女は船員を皆殺しにする。わけがわからない彼は逃げ出すものの、彼女はさらなる命令を求めて追いかけ回すという、ホラー映画みたいな展開を繰り広げた。

過去のトラウマを引きずった彼からすると、ヴァイオレットが殺人兵器にしか見えないのも無理からぬことだろう。ただ戦闘力だけは買っていたので、弟の護衛になることを期待して渡したら、おめおめと自分だけ生き残ったのでは心象も悪い。

しかしTVアニメ終盤にて、彼女に対する認識を改める。ギルベルトと関わることで道具から人へと成長できたことを見届け、大切な人を失った悲しみを共有できる理解者として受け入れるのだった。


声優は木内秀信。『テニスの王子様』の忍足侑士役で人気に。映画『アントマン』の吹き替えも担当。その他にも主役、脇役を問わず、数多くの作品に登場している。


■クラウディア・ホッジンズ

C.H郵便社の社長。商家の次男坊だったが自ら志願して士官学校に入り、そこでギルベルトと出会い親友となる。大戦中は中佐に昇進ほど優秀であり、元軍人だった経験を活かして、戦場にも手紙を配達できる郵便社を立ち上げた。

若い頃は女性関係が幅広く、飄々とした優男であったが、ヴァイオレットの後見人となってからは娘のように可愛がっており、過保護で心労が絶えない。

原作ではライバル郵便社に誘拐されるなど、謎のヒロイン体質を発揮している。ベネディクトやカトレアの恩人でもあり、会社内でも慕われている様子。


声優は子安武人。非常に印象的な声質を持つ、実力派の人気有名声優。『ジョジョの奇妙な冒険』のDIO役など、魅力的な悪役を演じることも多い。


■デイジー・マグノリア

TVシリーズ10話にて登場した、アン・マグノリアの孫娘。ヴァイオレットが手紙を書いた時期から、少なくとも50年は経過しているもよう。祖母の遺品整理をしていたところに手紙を見つけ、代筆をした女性に興味を持つ。

仕事ばかりの両親とは折り合いが悪く、顔を合わせれば喧嘩ばかりしてしまう。本当は家族のことが大好きだからこその不機嫌だが、どうしても素直な気持ちを伝えることができない。


声優は諸星すみれ。『アイカツ!』にて伝説の主人公、星宮いちごを演じる。『約束のネバーランド』で主人公のエマ、『BNA』でも主人公の影森みちるを演じるなどの活躍をしている。


■ユリス

重い病気を患い、病院にて療養生活を余儀なくされた少年。自身の余命が幾許も無いことを悟り、電話でヴァイオレットに手紙の代筆を依頼する。

心配する両親の声を聞いても、なんだか建前のように感じてしまう。両親も何て声をかけたら良いか分からない状態のため、手紙なら素直な気持ちを伝えられると思ったとのこと。


声優は水橋かおり。『魔法少女まどか☆マギカ』で巴マミ役を演じる。他にも『ひだまりスケッチ』で宮子役、『化物語』で忍野扇役を演じるなどの人気声優。


○永遠

『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』の物語、全体を通してのテーマは「永遠」だ。根拠はある。なぜなら本作と外伝の映画パンフにて、原作者の暁佳奈先生が作品のテーマは「永遠」だと明言しているから。

では、何が永遠なのか? 永遠は意図的に作れるのか? 外伝パンフの作者コメントを引用してみよう。

たとえばですが、貴方には大好きな人形があるとします。実はそれはとうの昔に失われてしまったのですが、貴方は知りません。知らないので、貴方は失意もなく永遠に愛し続けます。こうなるとこの永遠は更新されない「情報」に近い。
けれど、貴方が人形は失われていることを知っていた場合、それでも愛した時間を刻み続けたいと行動を起こす時。それはきっと貴方が作り出した永遠です。


……どういうことだろうか? 前提条件を理解できない。大切なものが失われていることを知らない、知っている? 拷問すっぞ?

ま、ま、ま、ま、まぁ、落ち着いて。以前に書いた外伝のテーマが「名前」だったとするなら、今回のテーマは直球で「愛」だろう。

ただし、今ここで「愛」は永遠です、なんて書いたところで誰の心にも届かない。なぜなら、嘘臭いからだ。言葉に重みはあっても、それを扱う人間が軽い。空っぽの金メッキ。

問題は「愛」が永遠であることではなく、どうやったら「愛」が永遠になるかだ。その方法論を解明するべく、物語の最初から順番に紐解く。

 1.残された人

■未来

謎の女性デイジーが登場し、部屋の中で両親と言い争う。亡くなった祖母の写真と家の間取りを見て、観客は彼女がアン・マグノリアの子孫だと気づく。彼女との回想シーンを挟み、わたしは開始5分で泣いた。

祖母が大切に保管していた手紙を読む。代筆業の仕事に思いを巡らせていると、一通の手紙が風に飛ばされて空を舞った。風に乗った手紙は海を越え、時を超え、ヴァイオレットの物語へと舞い戻る。


■賛歌

ライデンシャフトリヒのお祭りにて、海へ感謝の歌を捧げる。自動手記人形(ドール)の功績を称えられ、ヴァイオレットは賛歌の歌詞を書く大役を勤め上げた。

賛歌が終わり市長に挨拶するが、ヴァイオレットの面持ちは暗い。仕事を通して人の心を理解できるようになった分、戦争で自分が殺した人々を悼む。

そしてギルベルトへの届かない想いも募らせており、癒えない傷を抱えたまま生き続けている。別れの回想シーンを挟み、またわたしは開始10分で泣いた。泣きすぎ。


■郵便社1

街に巨大な電波塔が建ち、一般家庭にも電話機が普及し始めている。技術の進歩が生活を便利にする一方、代筆業の仕事が無くなることを危惧する同僚のドール。それどころか、手紙の価値が相対的に古くなってしまえば、郵便社自体が廃れてしまうのではないか。

将来的なことを考えて不安になる面々だったが、社長のホッジンズは休日に社員をテニスに誘おうとしていた。ヴァイオレットのことも誘ったが、休日は予定があるとのことで断られる。


■墓前

TV最終話に登場したギルベルトの母親は故人となっており、ヴァイオレットは月命日の日に欠かさずお墓参りに訪れていた。花を添えて祈っていたところ、ディートフリートと出くわす。

何か言いたげなディートフリートだったが、上手く言葉が見つからない。ギルベルトのことは忘れろと言う。だが、ヴァイオレットは生きている限り忘れることはできないと言い、この場を早々に立ち去る。


 2.忘れられない

■ユリス

郵便社へ戻ってきたヴァイオレットだったが、本日は休みなので誰もいない。静寂に包まれた時間の中で、一本の電話が鳴り響く。受話器を取ると相手は子どもであり、こちらが正論を語るまでに屁理屈で言い捲られてしまう。

その日の内に指定の病院へ。依頼主の少年ユリスは重い病気にかかっているらしく、自分が死ぬ前に家族へ手紙を残したいとのこと。お見舞いに来る両親は大丈夫か、具合はどうとか、当たり障りない言葉しかかけてくれない。病状を知っているからこそ、何と声をかけたら良いのか分からないのだ。

まるで腫れ物を扱うような、両親の態度に嫌気が差す。本当は家族のことが大好きなのに、妙なプライドが邪魔をするせいで、顔を合わせても口答えばかりしてしまう。でも、手紙なら建前ではなく、本心を相手に伝えられると思った。その話を聞いたヴァイオレットは、手紙の代筆依頼を承る。


■郵便社2

再び郵便社へ帰ってきたヴァイオレット。そこにはホッジンズとベネディクトと、まさかのディートフリートが鉢合わせしていた。彼はヴァイオレットの落し物を届けたついでに、昔の船を処分するのでギルベルトの遺品を整理しないか誘う。

真っ先に食いつくヴァイオレット。ホッジンズはディートフリートの誘いを怪しみながらも、自分が同行することを条件に彼女が出かけることを許可するのであった。


■船

ホッジンズの言いつけを守らず、勝手にディートフリートの元へ行くヴァイオレット。ちょっと反抗期。ギルベルトの遺品整理で目を輝かせる中で、ディートフリートの私物に対しては真顔で元に戻すのおもしろすぎ。

兄弟の少年時代の回想。厳格な父と自由な兄の板挟みになった弟は、良い子になって両者の間を取り持つしかなかった。ここで彼の人格形成が見て取れる。どうでもいいけど少年ギルベルト可愛すぎん?

ヴァイオレットもディートフリートもギルベルトスキーなので、「こいつ分かってんじゃん」みたいな感じで意気投合する。ギルベルトのこと、忘れられないと。以前の血生臭い主従関係ではなく、共感者として互いに認め合う仲へ。


■親友

兄弟の話繋がりで、病室へとシームレスに場面展開する。ユリスにも甘えん坊な弟がおり、自分がいなくなった後も元気に生きて欲しいと願うが、何と伝えたら良いか分からない。それに対してヴァイオレットはリードをしっかりと持ち、ディートフリートを参考にしてユリスの気持ちを引き出す。

一通り書いた後、次は親友の話になる。弱った自分の姿を見せたくないという理由で、病室へのお見舞いも断ったので今は喧嘩中とのこと。同じようにヒアリングを開始した矢先、ユリスの具合が悪化したことで中断された。


 3.邂逅

■エカルテ島

島民が崖上に集まり、海へ向かい賛歌を歌っている。エカルテ島はライデンにとっての敵国領土だったが、戦争後は独立していた。島の若い男たちは戦争に行って帰らぬ人となり、残された子どもたちはライデンを憎むように。敗戦国にとって海への賛歌は、死者の魂を弔う意味合いが込められる。

女性と子どもと老人しかいない中、ギルベルトは一人ポツンと佇む。賛歌の作詞をしたドールは、ヴァイオレット・エヴァーガーデンとの情報を聞く。子どもの一人が彼を先生と呼び慕っていても、ただ静かに海を見つめていた。


■宛名不明

ホッジンズとベネディクトは、倉庫にある手紙の管理作業をしていた。宛先不明の手紙は送れないため、今後の処理に頭を悩ませていたところ、その中の一通にギルベルトの筆跡と同じものが見つかる。差出人の住所を確認すると、そこはエカルテ島だった。

ギルベルトは島の子どもに頼まれ、ライデンへ行った父親宛に手紙を書いていた。

もしかしたらギルベルトは生きているかもしれない。その可能性を確かめるため、エカルテ島の情報をディートフリートに報告する。

その後、ホッジンズはヴァイオレットにも報告する。彼女は嬉しさのあまり泣き崩れるが、いざ会うとなると何を話したら良いか不安になってきた。移動時間の間に手紙を書くことに。


■郵便社3

時は再び未来となり、デイジーはC.H郵便社に訪れる。本社は国の事業として合併され、跡地は博物館となっていた。展示物を見るとヴァイオレットの情報があり、彼女が愛用していた切手を手掛かりに調べると、その切手はエカルテ島で発行されたものだと判明する。


■学校

エカルテ島に着いた二人。先にホッジンズが様子を見に行くと、ギルベルトと会話できた。ギルベルトはヴァイオレットに対して負い目を感じており、彼女には会えないと言う。

親友と娘の板挟みとなったホッジンズだったが、ヴァイオレットは制止を振り切ってギルベルトへ会いに行く。扉越しの再会を果たすものの、彼は頑なに自分の殻に閉じこもっている。彼女は自分がいない方が幸せだと、突き放すような拒絶の意思を示す。

ヴァイオレットは「あいしてる」を少しは理解できている状態だ。つまり、それがギルベルトなりの優しさであり、愛なのだと察してしまい、何もできずに走り去る。その後のホッジンズの「大馬鹿野郎」は観客の気持ちを完璧に代弁した。


■ギル

しかし、ギルベルトのことを一方的に非難するのも酷だろう。彼の家庭環境は特殊であり、誰かが敷いたレールの上を歩くことを強要された。また生真面目な性格も災いして、常に周囲の期待に応えようと必死だった。

その中で、ヴァイオレットという異分子が介入する。彼は彼女を正しく使うことで、人間の尊厳を取り戻す機会を与えようとした。ゆえに、彼女を愛してしまったことは最大の「誤算」である。それさえなければ、戦場で愛する人を危険な目に遭わせる矛盾に苦悩しなかった。

自分がいると彼女を不幸にする。家のために、国のために、たくさんの敵を殺した。それが正しいことだと信じて生きてきたのに、目の前で人を殺す少女には違和感しか覚えない。今までの常識が瓦解した結果、頑固なギルベルトは自分を許せなくなっていた。


 4.伝えたい心

■灯台

突然の嵐で帰れなくなったホッジンズたちは、灯台で寝泊まりすることに。そして意気消沈しているヴァイオレットの元に、モールス信号でメッセージが届いた。

ユリスが危篤状態にあるらしい。まだ親友への手紙が書けていないが、ヴァイオレットはエカルテ島から移動できない。モールス信号では手紙の代筆もままならず、彼女が己の無力さを痛感していたところ、奔走したベネディクトがユリスと親友の電話を繋げた。

久しぶりの会話はどこかぎこちないながらも、二人は無事に仲直りする。お互いに反省点があったと素直に謝り、かけがえのない親友であることを認め合う。

この場面はユリスが亡くなって悲しいから、言葉が文学的で素晴らしいから感動するのではない。自分の心を相手に伝える行為が尊いからこそ、その想いが相手に通じた時に観客の胸を打つのだ。想いが通じさえすれば、その方法は手紙でも電話でもLINEでもかまわない。

しかし、心の声を相手に伝えるには勇気がいる。なぜなら、好きは気持ち悪いからだ。わたしのようにハルヒを語りまくるとキモがられる。好きな人に嫌われるのは怖い。でも、恥を押しのけてでも相手に好きをぶつけ、心が触れ合ったのなら、人生でこれ以上に幸福なことはないだろう。


■海

一度はギルベルトに拒絶されたヴァイオレットだったが、ユリスからもらった勇気で真心を手紙にしたためる。どこまでも健気な彼女に対しても、頑固な彼は振り返らない。若い男性がいないエカルテ島の中で、知識も体力もあるギルベルトは頼りにされており、既に新しい居場所ができていた。

それでも、彼は静かに海を見つめている。ブーゲンビリア家の男は海が好きだ。海は人の心を映す。

島は居心地が良いが、自分たちの国が女たちの夫と、子どもたちの父親を殺したという負い目からは逃げられない。自分は憎まれるべき存在であり、島民の役に立つことでしか罪を償えない。

ギルベルトの素性を察した島の老人は、「戦争の罪を一人で背負うな」と言う。 なかなかに重要なことを、さりげなく続けて語る。

「戦争で生活が豊かになると思っていた。ライデンの奴が憎いと思っていた。でも、みんな傷ついていた。帰れる場所があるのなら、帰った方が良い」

国を捨て、敵国に住む自分に、どこへ帰れる場所があるのだろう? 全員に責任があるからと言って、自分の罪悪感が消えるわけではない。だからこそ、悟った。

どんなに贖罪しても自分の間違いは許さないし、許されないし、開き直れないし、割り切れない。つまり、いくらか考えたところで答えなんか出ないのだ。

答えが出ないことに悩むのは苦しい。だが、別に自分のやりたいことなど分からない。国に帰ったとしても、再び家のしがらみが付きまとうだけ。そこで兄のディートフリートが登場する。すまなかった。自分が家督を継ぐから、お前は自由に生きろ。

そしてヴァイオレットからの手紙を読む。あなたの愛してるが、私の生きる道しるべになった。ギルベルトは彼女を愛したこと、愛してると伝えたことを後悔していた。なぜなら、告白の返事が「愛って何ですか!?」だからだ。そりゃ凹むわ。

しかし、その「あいしてる」により、ヴァイオレットは殺戮兵器から、恋する乙女へと変化した。ドールの仕事を通して人間の感情を理解し、自分が犯した罪を自覚した後も、罪悪感に押し潰されず生きてこれた。本当は生きる希望など見出せなかったはずなのに。

そして同じく、ギルベルトにとっても「あいしてる」は生きる道しるべとなる。彼は幼い頃から親の言うことを聞く良い子で、名家に生まれた期待に応えるのが重圧となっていた。だがヴァイオレットを愛したことにより、彼は今まで正しいと教えられてきたことに疑問を抱く。こんな少女を戦わせるなんて正気の沙汰じゃないし、分かっていて命令する自分も狂っている。

実は二人とも似たもの同士で、誰かの人形になることでしか生きる術を知らなかった。それでも相手を愛することで、誰かに敷かれたレールの上ではなく、自分が選んだ人生を生きたいと望んだ。人生は一度きり。自分のために生きる。

映画の舞台挨拶で判明した情報だが、このシーンにある手紙の最後の一文、音声として読まれていないらしい。ソースはこちら。

石立監督いわく、この一文によりギルベルトは背中を押されたとのこと。さらにディートフリートからの後押しもあり、迷いが消えた彼は崖から転がり落ちるように全力疾走した。

それを見たヴァイオレットも船から飛び降り、海を泳いで駆けつける。もう、エモーショナルが止まらない。お互いにボロボロで対面した二人だったが、ヴァイオレットは涙が止めどなく溢れて何も言えない。感情が先行しすぎていて思考が追いつかず、声を出そうにも言葉にならないのだ。だからこそ、手紙の最後の一文も音声で読み上げなかった。

声に出せずとも、文字にはできる。手紙を書くことは手段であり、本来の目的は相手に自分の想いを伝えることだ。もう既に心は触れ合っていたからこそ、ギルベルトは彼女を強く抱きしめる。

役目を果たした手紙は不要となり、彼の手から滑り落ちて空に舞い上がった。そして永遠となり、デイジーがいる未来へと繋がれる。


○感情

はい。物語のプロットを書き出したところで、恒例のアレやりますか。

「優れた物語は99%の現実と、1%の不思議で構成されている」

コロボックルの作者、佐藤さとる先生の言葉……だよな? 不安になったので「ファンタジーの世界」を読み返してみるが、先生は文章で「%」なんて使わねぇ。

でもファンタジーとメルヘンを分ける明確な違いとして、リアリティの要素を指摘しているのは事実だ。つまり、上記の格言は作者の言葉を、わたしが分かりやすく解釈して変換したものだった。

ファンタジーの定義はアメリカの作家ロバート・ネイサンいわく、「ファンタジーとは起こったことなどなく、起こり得るはずもないこと。だが、起こったかもしれないと思わせるもの」らしい。なので、上記の格言はあながち間違いではないはず。

で、この不思議要素は作者の空想であり、その空想を掴むためには自分の潜在意識を探る必要があるため、創作想像は「過去の経験を組み合わせて新しい心象を作る」ことになる。何も無い虚空から物語を形成するのは、自分と向き合う孤独で辛い工程だが、同時に最高に楽しい遊びでもある。

なぜなら、空想は本来起こり得るはずもないことであり、それを起こったかのように思わせるのは非常に楽しいからだ。ゆえに、ファンタジーの根本は遊びの精神であるため、作品の不思議要素であるフィクショナリティを見破ることは、作者の救いとなる願いを汲み取ることに繋がると、わたしは考える。


『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』のフィクショナリティとは何か? それは自動手記人形の存在だろう。てか、タイプライターをわざわざ自動手記人形と言い換える意味が解らん。だがウィキペディアを読むと、タイプライターは各地に多くの発明家がおり、その発明家ごとに名称が異なっていたらしい。

じゃあ、代筆屋の存在は? これもウィキペディアを読むと、識字率が低かった昔は一般的な職業だったと言うか、現在でも司法書士やら行政書士という形で引き継がれている。ウィキペディアよ、お前は最大の敵であり、最高の友だ。

となると、作品のフィクショナリティはタイトルにもなっている、ヴァイオレット自身にあるのではないか。そもそも、彼女は謎の組織から洗脳と戦闘訓練を受けて育った、なんて生い立ちからして怪しい。それでいて感情が無く、少女兵として活躍する? あの精巧な義手は何?

つまり、感情を失った機械人形の少女が、仕事を通して人と心が触れ合ったことで感情を取り戻し、愛する人へ自分の精一杯の気持ちを伝える。この伝える行為こそが作者にとっての願いであり、永遠なのではないか。

そう推測するのなら、ヴァイオレットの生い立ちにある背景は、不思議要素を成立させるためのリアリティになる。だが、同時に思う。感情が無い設定いる?

人は日々、感情をコントロールしている。社会の一員として仕事する中で、感情を垂れ流すのは精神的に幼い馬鹿だけだ。思慮のある大人だからこそ、感情の一部を押し殺しながら、本音と建前を使い分けて生きる。

例えば『若おかみは小学生!』の映画評にて、わたしは下記のようなことを書いた。

仕事が自分を作る。だが一方で、仕事の中では私利私欲を除く。これは自分を押し殺すという意味では無い。本来の自分は完璧超人などではなく、面倒臭がりでサボり魔の駄目人間だ。自分のためだけに頑張るのなら、いくらでも手を抜くことができる。そうではなく、誰かのために仕事を頑張るからこそ、怠惰な自分に打ち勝つ力を発揮できると、高坂監督は伝えたいのだろう。

しかし、感情のコントロール方法が抑制だけになると、それは時に処世術と呼ばれがち。場の空気を読んで周囲のノリに合わせることに慣れてしまうと、本当に大切な人へ自分の気持ちが相手に伝わらなかったりする。だからこそ人は仕事とプライベートの人間関係に苦悩するし、自分の本心を出すことが気恥ずかしい。

この恥を乗り越えもせず、愛は永遠だと真顔で言う人間、信用できん。残念ながら言葉は時に無力であり、口先だけでは嘘臭くなる。ヴァイオレットは最初、この状態だった。感情を排した設定にしたからこそ、テーマである言葉の重みが際立つ。

実際、ヴァイオレットは作中で一度も「愛してる」とは言っていない。劇場版ラストシーンも、ギルベルトへ向けて「愛してる」とは言えなかった。本当は自分も声に出したかったはずだが、嗚咽が止まらない体を叩くことしかできない。感情が自分を追い越した証拠である。

ヴァイオレットは仕事に戻らないといけないから、船に乗って帰ると言った。ギルベルトの声が聞けただけで満足だと。ギルベルトも彼女を不幸にするから、会わないと言い張っていた。そう言っていたのに、片方は船から海に飛び込み、片方は崖から転がり落ちて会いに駆けつける。メチャクチャだよ。

そう、言葉と心が裏腹だからこそ、我々の胸を打つ。

ラストシーンのヴァイオレットは、ぐちゃぐちゃに泣く。両目から洪水のように涙を流し、みっともなく鼻水は垂れ、好きな人の前で顔面をクシャクシャにする。そこでは青い瞳、金糸の髪、薄紅色の唇に見惚れるような美しさは無く、びしょ濡れの女性が立ち尽くしていた。

愛してるが声にならない。だが言葉にならずとも、愛は顔面で伝わっている。言葉だけで愛が伝わるのなら、それは小説や手紙で事足りるが、本作はアニメ映画だ。人物の本音を言葉ではなく、表情で、行動で伝えるのが映画じゃないのか。


……なんて偉そうなことを語っているものの、以上の言葉は田中泰延氏の映画評を参考にしている。下記へリンクを貼り付けておく。

わたしはわたしの信じられる言葉が欲しい。言葉は基本的に借り物であり、誠心誠意を持って使うことしかできないが、もう少しだけわたしの映画評は続く。


○まとめ

映画評を書く度、わたしは痛感する。自分は何者でもないと。

人が命を削って作ったものに対し、赤の他人があーだこーだと好き勝手に評価する。マジで何様だよ。ろくでなしめ。

何が「優れた物語は99%の現実と、1%の不思議で構成されている」だ。馬鹿が。得意気に書いてる場合かよ?

評論家にはなるな。

感想を言うのは良い。その感想に対して共感したり、怒ったりするのも良い。言論の自由。だが、安全地帯から石を投げるような、せこい卑怯者にはなるな。

創作者たちは前線に出て、必死に何かを伝えようとしている。なぜなら、言葉だけでは何も伝わらないから。口先だけでメッセージが届くのなら、誰も表現なんてしない。

しかし、わたしのようなライターは、言葉しか扱えない。小説のような開く物語形式ならともかく、随筆のように閉じる自己完結もので、説教臭く誰かに何かを伝えようなんて虫がよすぎる。恥知らずだ。

恥知らずが何かを書いたところで、そんなもん誰かに伝わるはずがない。言葉は重くとも人間が軽いから、どこにも届かず自滅する。


本作『劇場版ヴァイオレット・エヴァ―ガーデン』におけるメッセージは、石立監督の以下の言葉に集約されている。

「大切な人、支えてくれる人、自分のことを大事に思ってくれる人……皆さんそれぞれおられると思うんです。この映画を見てそれぞれ大切な人のことを思い返していただいて、自分が今大切な人に伝えるべきことを伝えているのか、見終わった後に思っていただけるような作品になっていたらいいなと思っています」

我々は、この言葉だけで感動したのではない。どっかのオッサンが同じ言葉を吐いたところで、「そんなもんお前に言われんでも分かっとるわ!」と似非関西弁で一蹴するだろう。

『ヴァイオレット・エヴァ―ガーデン』TVシリーズの終了後2018年4月から、劇場版と外伝の制作は同時に進められた。京都アニメーション放火殺人事件の影響がありながら、外伝は2019年9月に公開されたものの、劇場版は公開予定だった2020年1月から延期。さらにはコロナウイルス感染症の流行拡大により、次に予定していた4月の公開も延期し、ようやく9月公開を実現させた。

総制作期間、2年6ヶ月。映画の放映時間は150分。2時間を超える大作だ。制作開始から公開までの間、とんでもないことが起こりすぎたにもかかわらず、作品には一切の妥協が無い。街並みや風景の細かい描写、登場人物の仕草と繊細な演出。作品をこだわって、こだわって、究極にこだわり抜いて、やっと上記の「自分が今大切な人に伝えるべきことを伝える」メッセージが観客に届く。

スタッフが一体どんな心境で映画を完成させたのか、わたしには想像することすらできない。わたしの薄っぺらい言葉なんかで、知った風に彼らの葛藤を書き表せるわけがない。

だが少なくとも、石立監督並みの情熱、執念を持って作品を突き詰めなければ、不特定多数の人にメッセージは伝わらない。たった1,2週間で作成した、ウィキペディアをコピペしたようなFラン大学生のレポートでは無理。

言葉しか扱えないライターが、言葉だけでは何も伝えられないのなら、せめて、わたしは受け取れる人になりたい。

わたしがおもしろいと思った映画を、つまらないと吐き捨てる輩がいる。つまらないのは理解できないからだ。作品の悪口を言う前に、まずは自分を疑え。

しかし、おもしろさを説明できない自分もいる。なぜ、わたしは感動したのか? それを監督に聞く馬鹿はいないため、仕方ないので自分で調べるしかない。

自分が知らなかったことを知るのは楽しいが、調べるのは金も時間も労力もかかる。いっそのこと監督を拷問した方が早いのではないか、という思考に陥りそうになりながらも、なんとか分析を終えて自己満足…………できない。

なぜなら、他の人が書いた映画の感想を読んじゃうからだ。それらは大抵、わたしとは的外れなことを指摘している。当たり前か。自分の見たいものしか見ていない。

中には優れた映画評を書く稀有な人も存在するが、アニメ映画は取り扱ってなかったりする。なんて文句を言うくらいなら、自分で書くしかない。ってか、自分で書いた映画評、読みてぇ!

そういうわけで、わたしは複数の映画評を書いた。『劇場版SHIROBAKO』や、『若おかみは小学生!』は1万5千字を超えている。我ながらキモい。自分の行動原理が謎。

しかしながら、分かったこともある。書くのは死ぬほど辛いが、好きを語るのは生き返るほど楽しい。もちろん、相手に好きと伝えるのは怖い。わたしも石立監督に会って、いきなり「愛してます! 結婚してください!」とは言えん。

ではなく、相手の知らない所で好きを語る。陰口ならぬ、陽口みたいなものだ。どうせ伝わらないのだから、恥も外聞も無い。急に早口で喋るキモオタとなりて、気が済むまで好きを語りまくれ。

そうすれば、わたしの愛する作品は永遠だ。

あまりにも話が長すぎて、わたし自身も忘れかけていたが、本稿の目的は「愛」が永遠になる方法論を解明することだった。

愛は双方を想う心があって、はじめて成立する。そして、スタッフの愛は作品に注がれる。我々ではない。だが、作品のメッセージは我々に伝わっている。それが愛と呼べる代物かは知らないが、わたしたちが好きを語り続ければ、その作品は永遠に愛される。

ここでもう一度、原作者である暁佳奈先生の言葉を引用しよう。

たとえばですが、貴方には大好きな人形があるとします。実はそれはとうの昔に失われてしまったのですが、貴方は知りません。知らないので、貴方は失意もなく永遠に愛し続けます。こうなるとこの永遠は更新されない「情報」に近い。
けれど、貴方が人形は失われていることを知っていた場合、それでも愛した時間を刻み続けたいと行動を起こす時。それはきっと貴方が作り出した永遠です。

残念ながら、終わった映画は思い出となり、風化してゆく。作品が完結すると物語が閉じ、好きなキャラクターがいなくなったような喪失感を味わう。

それが寂しくて、わたしは映画評を書くのかもしれない。不思議なことに映画評を書くと、その作品が輝いて見えるのだ。いつでも心の中にキャラクターがいて、不甲斐無いわたしを叱咤激励してくれる。

この現象は、作品の良さを受け取ったから起きた。だからこそ好きを語り、作品を永遠に愛そう。しかし、これだけは苦言を呈させてくれ。

ヴァイオレットとギルベルト、もっとイチャイチャしろ。ちょっとこれから、いやらしい雰囲気にしてくるわ。

とまぁ、言葉で好きは伝わらないとか、監督のメッセージとは反することを述べてきたわけだが、勘違いしないでくれ。感謝は伝わる。それは神に祈るような行為かもしれないが、最後に制作者へ向けて感謝の言葉を伝えよう。

作品を完成してくれて、ありがとう。

あなたの物語は、わたしの人生を支えています。

愛が重い!!

いただいたお金は、映画評を書く資料集めに使います。目指せ3万円。