見出し画像

コンテンツとしての批評 批評誌クライテリア3、クライテリア4の感想

『これは演劇ではない』

 2019年に東京のこまばアゴラ劇場で若手の演劇人たちが中心となって開かれたフェスティバルの名称であり、このクライテリア3の特集名でもある。
 演劇では批判として「これは演劇ではない!」と言われることがしばしばある。反発したくなるような言葉だが、演劇祭『これは演劇ではない』のステートメントでは‘‘その言葉を観客から引き出すような表現が、これからの世界を作り替えていく新しさの最低条件‘‘と書かれている。

 本誌では演劇祭に参加する劇団の中心人物や主宰者へのインタビューとその団体の演劇作品のレビューがセットになって6篇、掲載されている。
 以前から、演劇に対して関心はあったが都市でやってることという印象が強かった。僕の演劇に対するイメージはどうも行けそうにない距離間だけだった。僕自身は地方に住んでいるため演劇関連の話題に足踏みしていた部分もある。クライテリア3はそんな僕にとってはうってつけの特集号だ。演劇については知らないことばかりだったが、そこにあったのは驚きではなく、別のしかたで同じことを考えている人がいるという胸をなでおろすような感覚だった。物理的距離感は埋まらないまでも、そこで活動されている人たちの動きや演劇史における位置づけを知れたのはたいへんおもしろかった。
 
 インタビューでは今回の演劇祭へのおもいを各人が話している。発売されたのが演劇祭より前なこともあって不安や意気込みも多く語られている。新型コロナの渦中で僕はこの第3号を読んで、2019年に開かれた演劇祭「これは演劇ではない」を知った。間に合ったんだ、と安堵の思いがした。と同時に、これほど過去というものを印象づけられるできごとはなかった。

 読むということがある出来事によって意味を変えていく。時間の経過が新しい視座になる。それ自体は新しいことではない。本来そういうものである。その時間を技術で乗り越えようとするのが批評である。
 

 クライテリア4では、「読み」を現実やフィクションに対して、人が向き合う行為すべてを指す言葉として用いている。それは一つの技術であること。批評であることが書かれている。演劇でまとめていた3とうってかわって、4は文学・音楽・アニメとざっくばらんに論じられている。本誌では論考とレビューが中心を占めるためか、読みにおのずとちからが入る。そこにはアニメの話をしているかと思えば美術の話をしている、かと思ったら哲学の話をしながら同時に文学の話もしていた、といった僕の原体験としての批評があった。やはり痺れる。こうでないと。
 

 2冊同時に読んだが同じ雑誌で、次号で、これほど多彩なテーマが論じられているにもかかわらず不思議と違和感はない。その違和感のなさは僕の中にある‘‘批評を読む‘‘という意識が大きくかかわっている。

 「これは批評ではない」
2020年においてこの言葉を聞く機会がどれほどあるだろう。ひと昔前は、演劇同様に投げかけられたがそれももうない。別の言い方をすると手札がそろったがゆえに批評にはタブーがなくなってしまった。演劇・文学・音楽・アニメというふり幅がそのことを証明している。音楽業界でもよく言われるような出尽くした状態が批評でもここ10年で明らかになった。
                                        2020年、批評はもう「これは批評ではない」の声を観客から引き出せない。だが、批評とは何かその問いを乗り越えた今コンテンツとして正面から戦える批評があるとするならば、それこそが本誌クライテリアなのかもしれない。

この記事が参加している募集

#読書感想文

190,514件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?