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喪失と表現について

その時期の記憶は全体的に薄明るく、清らかな気配に満ちている。
壁紙の白、ユリとトルコキキョウとカスミソウの白、真新しい神棚の桧の白。喪失と葬いの黒よりも、視界全体を覆う白のイメージが強い。
猥雑なものを受け入れ難くなり、大きな音がより苦手になり、紛争や血にまつわるものごとに対する拒否感が高まった。
代わりに、風に揺れる草や、逆光を受けて透き通る猫のやわらかい毛や、早すぎる目覚めにやさしく注ぐオレンジ色の朝陽や、そういったものを切なく愛おしく感じるようになった。
感覚が鋭敏になり、どんな情報も魂の底まで直撃するように響いた。
受け入れられるものと受け入れられないものがはっきりとして、わがままに、極端に、本能に忠実に。
現実的で具体的な活動が幅を効かせていた時代はやがて終焉を迎え、内側の深くから突き上げるように溢れる言葉を、音を、書き出さなければ窒息しそうな気配さえあった。

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どんな体験も味が濃く強く実感としてそこにありすぎて、抱えたままでいられない。文字と文字の間にもその色と形と手触りはみっちりと詰まっていて、書き起こしながら追体験する。外から当てられること、意図せずに起こること、いわば受け身の「出来事」に対して、書くことは自らコントロールして言葉を絵の具のように、音符のように使い、流れのある短い物語のなかに収めてしまう主体的な「行為」だ。
言葉で説明すれば知的な活動のような雰囲気が漂うが、実際には食べることや寝ることに近い。生命を維持する最低限の活動で、それをしなければ不調をきたす。体験や出来事に対して、文章のなかに閉じ込めてやる、という支配欲を感じることさえある。ときに睡眠時間を奪い、空腹を飛び越えて止まらなくなる書くことへの欲求は、野蛮で獰猛な生き物のようでもある。なにかの拍子に、飼い犬に噛まれるというレベルではなく、この欲動の塊みたいな生き物に噛み殺されるのかもしれない。
振り返るとそんなふうに激しく苦痛をも伴う行いなのだが、集中している間は、まるで浅瀬の海を漂い、やがて大海に出て自由に泳ぎまわっているかのように心地よく優雅だ。夢中になって泳ぎまわり、陸に上がると
日焼けで痛む皮膚と、重力の世界に戻って気がつく身体の疲労と重みに驚愕する。飲み方を間違えた翌朝の二日酔いのような苦しさがあるが、大きな違いは後悔がまったくないということだ。脳も心も魂もこのうえない幸福感に満ち、身体だけがとてつもない苦痛を背負う。身体があるとはなんと不便なことなのだろう、そして、身体がなければこのキーボードを叩くことすらできない。

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この世を去った存在は、祈りの対象になるから、昔から星になるとか神さまになったとかいわれてきたのかもしれない。
一足先に次の世界へ逝った人や動物が、計り知れない大きな力で私たちに影響を及ぼす。真偽のほどを確かめる術もないが、そう思いたいというのが本当のところ。次の世界は、元いたところなのかもしれないし、なにもないのかもしれない。あると仮定することでかろうじて形成される想像の世界なのかもしれない。想像と、創造。
創造と創作には不向きな、脳を損傷させかねないような酷暑の日。ほどよく冷やした小部屋でものを書いていると、極小音のホワイトノイズが聞こえる気がしてくる。録画したTV番組から、ネットラジオに切り替え、BGMをミュージックアプリに移し、つぎにダウンロードした曲を繰り返し聴く、というのがよくあるパターンで、やがて無音で集中する段に至る。ごく稀に訪れる過集中の切れ目で耳を澄ますと、隣室から、屋外から、わずかに聴こえる他人の立てる音以外にはなにも聴こえない。聴こえない向こうから、小さな粒の砂嵐を感じる。ミクロサイズの粒が流砂となって流れ落ちる地の底に、それはそれは静謐で清涼な空間が広がっている。言葉の手触りを存分に味わう、沐浴の空間。
透明な光だけが射し込む、白い視界。
深く呼吸して、肺にめいっぱい清浄な気を送る。
そして打つ、ひと文字。数珠つなぎで続く文字、文字、ことば、言葉、文章。
出たり入ったりする、一枚の写真のような物語。
物語のような、現世。


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