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【小説】夜の美術館

夜の美術館に取り残されたのは、どうやら私だけじゃかったらしい。
「お前、佐藤れな?」
 声がする方に振り向くと、田島が非常灯にぼんやりと照らされていた。そうだよ、と声のする方に返す。六年一組に『佐藤』は三人いるので、フルネームで呼ばれることには慣れている。でも薄暗い館内では、まるで刑務所の点呼のようだ。私は言った。
「くるみちゃんだったら良かったのに、って思ってるでしょ」
 有栖川くるみは、クラスのマドンナだ。雪のように白い肌、ふわふわパーマの髪、ブランドのワンピース、金持ちの両親。女子が欲しいものを、およそすべて手にしていた。
「なんでだよ。あいつ、来てないだろ」
小学校最後の遠足なのに、と彼は残念そうに続けた。ただでさえバレエやピアノで忙しいくるみちゃんは、年明けから中学受験のために学校を休みがちだった。それは男子の妄想を、余計に加速させていた。「くるみちゃんはウンチをしないらしい」という噂も流れるほどに。
私は田島に近づいた。一人でいると怖い絵に吸い込まれて、二度と戻れない気がした。私たちはぴったりと並び、手を繋いで歩き出した。筋ばった手は、冬だというのに汗ばんでいる。きっと彼も怖いのだ。何の解決にもならないが、彼が怯えていることは、不思議と私に勇気を与えてくれた。「彼を守らなくては」という気を起こさせもした。
お互い無言だった。ひどく疲れて、だるかった。日中にたくさん歩かされたせいだ。担任の大島先生を呪っていると、田島は声を上げた。
「あ。俺、スマホ持ってたんだった」
 リュックから取り出された液晶を、彼は期待を込めた目で見つめた。
「げ。圏外……地下だからか」
 悲し気な声が、静かに響く。感情の起伏が激しい彼にしては、珍しく冷静だった。
「ま、ライトにはなるでしょ」
「やり方、分かんね」
 私はスマホを受け取り、懐中電灯のツールを開いた。光は目の前にあった絵を照らした。『黒い絵』シリーズのひとつ、『我が子を食らうサトゥルヌス』だ。
ずるずるずるずる……
絵画の中から、何かが身を乗り出して来た。腐った肉と血をまぜあわせたような激臭が鼻をつく。それは絵から抜け出し、数秒後には呆気にとられている私たちを見下ろしていた。体格三メートルほどの老人だ。よく昼下がりの公園で見かける、心和むおじいさんではない。髪は乱れ、目は狂気で見開かれ、口から血が滴り落ちている。描かれた化け物、サトゥルヌスそのものだった。
「逃げよう!」
 彼が声を上げると同時に、私たちは駆け出した。

 田島は逃げ場所として、女子トイレの個室を選んだ。スマホは無情にも、まだ圏外だ。
「大島先生の言ってたこと、本当だったんだ……」
 彼は独り言のように呟いた。よく見ると、なかなかの美男子だ。かたちの良い鼻と唇をしている。まだ彼の顔をよく見ていなかった昼間、先生は言っていた。「なんで美術館が暗いか分かるか? 絵に光を当てると、勘違いして飛び出てきちゃうからだよ」と。
 あの時、大人はなんてバカなことを言うのかと思っていた。男子は体育の先生になると、脳みそまで筋肉になってしまうのかと。しかし、だいたいにおいて大人は正しい。そのことに気づくのは、いつも手遅れになってからなのだ。

「何か方法があるはずだよ。外から助けに来てもらう方法が」
「どうして、そんなこと分かるんだよ」
昔から私は、よく不思議な出来事に遭遇していた。先生曰く「魔を惹きつける」体質らしい。「自分の身に起きたことを、他人に話してはいけないよ」と、先生は言った。「相手が弱っていたら、何かの拍子に、魔が乗り移るかもしれないからね」とも。
 どうしてあの言葉が頭に浮かんだは分からない。私は一度だけ不思議な経験を話したことがあり、相手はくるみちゃんだった。家が向かいなので、彼女が休んだ日にはプリントを届けていた。彼女は小学校の話を聞きたがった。ある日、ネタが尽きて、つい話してしまったのだ。『美術室のおまじない』を。

あるアイディアが頭に浮かび、私は口を開いた。
「ねえ。美術館で、一番起こって欲しくないことは?」
「んー、絵が盗まれること?」
「うん。あと、絵が絵じゃなくなること。例えば、燃えたり……」
「燃やすのか!?」
「違うよ。火災報知機を作動させたいの」
「火なんて起こせねえじゃん」
「私たちには無理だよ。でも、火を描いた絵があったはず」
私たちは、絵に襲われている。美術館に人はいない。ならば、別の絵に助けてもらえば良い。

私はリュックからチラシを取り出した。速水御舟『炎舞』は、日本画エリアだ。化け物がいる西洋画エリアを通ることなく行ける。ドアを開けようとすると、田島が言った。
「どうするんだよ? ここ出て襲われたら」
「どうするんだよ? ここ居てドア壊されたら」
 彼の声色を真似ると、沈黙が返ってきた。それを肯定の意と捉え。ドアを開いた。彼が辺りにライトを照らし、化け物がいないことを確認した。私たちは走りだした。

 速水御舟『炎舞』は日本画エリアを入ってすぐ右手に飾ってあった。舞い上がる炎につられるように、色とりどりの蝶たちが躍っている。田島が絵にスマホのライトを照らすと、眼前に火が出現した。火災報知器が機械音を上げ、館内に警報が鳴り響く。
「良かった。すぐに消防隊が来るね」
 炎に背を向けて日本画エリアを出ようとしたが、できなかった。他のエリアへ通じる出入口が、閉鎖されたのだ。再び、先生の説明が蘇る。「火が他のエリアに広がらないように、防火シャッターが降りるようになってるんだ」。

「リュックに水がある!」
 私は叫び、それぞれがリュックから水筒を取り出した。サッカー部の田島は大容量で、幸運なことにほとんど飲まれていなかった。消火活動の結果、火は消えて行った。蝶たちもどこかへ消えていた。二人で壁を背に、座った。もうすぐ消防車のサイレンが聞こえるはずだ。
「スマホの充電、大丈夫?」
「やべ。あと3%だ」
昼間にゲームばかりしているからだろう。そんな小言を飲み込み。言った。
「まあ、もう使うことないから良いじゃない」
 念のため、と田島は画面をオフにした。非常灯がぼんやりと照らす、薄暗い世界へ戻って行った。
「佐藤。学校、楽しいか?」
 急に田島は聞いてきた。炎に群がる蝶のような、儚さを覚える声だ。
「楽しいわけないじゃん。先生はうざいし、女子はいじめあるし、男子はうるさいし」
「そっか」
 どこか安堵した声が、闇に溶けていく。私は田島の肩越しにある何かを見つめて、言った。
「あんた、田島じゃないでしょ」
 数秒ほど、完璧な沈黙が私たちを覆った。空気が微かに揺れ、『田島』が笑っているのだと分かった。轟音がとどろき、独特の匂いが漂ってきた。先程の化け物、サトゥルヌスのものだった。

奴が扉を破って来たのだと気づいた頃には、とっくに壁に突き飛ばされていた。全身の痛みにもだえながら前を見ると、サトゥルヌスが『田島』を追いかけていた。私は起き上がり、近くに落ちていたスマホを手に取った。辺りの絵を照らし、使えそうなものを探していると、『田島』の悲鳴が上がった。鬼ごっこの軍配はサトゥルヌスに上がったようだ。棒のように長い腕で彼女を抱き、大きく口を開けている。
「や、やめて! あたし美味しくないから!」
あれは空腹なのか、と思い至り、私はある絵を照らした。高橋由一『鮭』。現れた巨大な魚を、化け物の口に向かって投げた。それは口に入り、数秒ほど化け物は租借していた。空腹が満たされて満足したのか、目を細め、消えて行った。

 母が運転する車の後部座席で、真横にいる『田島』がひそひそ声で話しかけて来た。
「いつから気付いてた?」 
「女子トイレに駆け込んだ時。男なら普通、男子トイレに真っ先に入るでしょ。懐中電灯の出し方が分からなかった時も、おかしいなと思った。スマホばっかいじってる田島が、知らないわけないから」
『田島』は鼻を鳴らした。それは見事で、どこか優雅さを覚えるほどだった。
「ね、くるみちゃん」
 沈黙。それはうなずくよりも簡単に、答えを物語っていた。
「くるみちゃんの名前を出した時、『なんでだよ。あいつ、来てないだろ』って言ってたよね。あの子、遠足に来てたよ。欠席の筈だったから、先生も驚いてた」
「あのバカ。大人しく塾いけって行ったのに……」
「来たかったんでしょ。行きたいから行くなんて、当たり前だよ」
 田島も小学校最後の遠足は参加したかったのだろう。たとえ身体がくるみちゃんでも。
「あたしにはないの、その当たり前が。昔から、佐藤さんたちが羨ましかった。みんなと遊べて、ゲームできて、学校行けて。今年に入って、三日しか登校してないのよ」
 誰もが憧れのまなざしを向け、すべて持ちあわせる彼女の言葉とは思えなかった。
「で、今日は来て楽しかったの?」
「全然。もう、くたくたよ。美術館に閉じ込められるし、化け物に遭うし。日常って、案外こんなもんなのね」
「他人の暮らしは、良く見えるんだよ」
 彼女はかわいい声で笑った。闇夜に開く百合の花のように、私の心をくすぐった。
「今日、家に行って渡すものあったんだけどさ。ちょうど手間が省けたよ。ほら、これ」
 私は田島の姿をしたくるみちゃんに、あるものを渡した。
「牛乳キャップ? こんなに、たくさん。絵が描いてある」
「来月から中学入試でしょ。だから、お守り。クラスのみんなで作ったんだ。学校来なくても、居場所は六年一組にあるよ。だから、大丈夫」
「……くっさ。ちゃんと洗った?」
「その方が、化け物を思い出せて良いんじゃない?」
 彼女は声をあげて笑った。街灯が彼女の顔を照らす。まるで絵画に描かれた少女のように、心からの笑みだった。


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