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【漫画原作】Darker Banker 第一話


あらすじ

銀行員の立花は取引先の区役所の職員から、小学校で起きている怪奇事件を解決するよう依頼を受ける。かつての在校生である部下の水瀬と向かうが、水瀬はデートの約束があり、途中で帰ってしまう。立花一人で捜査を続けていると、かつて小学校で起きた事件にたどり着く。しかし何者かに頭を殴られ、気が付くと給食室にいた。目の前にはシリアルキラーである『人肉寿司職人』が待ち構えていた。小学校から生きて脱出して、事件を解決することができるのか?! 令和の闇をサスペンスフルでホラータッチに描く、お仕事ダークミステリー!

第一話

一(立花視点)

【広尾小学校 地下二階 給食室】

私の人生において、悪いことはだいたい金曜日に起こった。

 八菱銀行に就職して五年が経ち、ここ渋谷支店に異動を命じられたのも金曜日だった。着任して二か月後に、大口運用先である渋谷区から「悪いんだけど、預金口座を他行にさせてもらうよ」と 言われたのも金曜日だった。すべては前任のせいなのだが、銀行でそんな言い訳は通用しない。他に大口運用ができる体力のある取引先もない。そしてまた、忌々しい金曜日がやってきた。私は首から広尾小学校PTAのネームホルダーを下げ( PTAのお母様から「名前が記入されていませんよ」と叱られ、立花と名前を記入した)、小学校地下二階で、悪魔と対峙していた。

 場所は給食室のはずだ。記憶の最後、廊下で注射をされた時に目に入った文字が『給食室』だったからだ。調理実習に来ているわけではない。小学校は十五年前に卒業して以来、足を踏み入れていなかった。私は調理される側だった。今こうして、まな板の上に置かれている。

「さて。どう、さばこうか?」

板前の恰好をした女性が、片手で包丁をくるくるとまわしている。包丁は牛を一頭さばけそうな程の大きさだった。人間も易々と切れるだろう。私は叫ぼうとした。しかし口が動かない。全身も動かない。首元にされた注射のせいだろう。目も自由に動かすことができず、私はただ女性を見つめるしかできなかった。

「今まで愚直に働いてきて良かったよ。出てくるもんだ、都会には。昔は十年皿洗いをしないと厨房に立てなかったけど、時代は変わったね。変化が一番先に起こる東京ってのは、やっぱり良い街だよ」

確かに彼女は素敵だった。切れ長の目、艶やかで白い肌、高身長で、すらっと伸びた手足。薄暗い給食室で寿司職人の格好をしているのは、何かの間違いだと思いたい。彼女は幸運の女神が残した後ろ髪をしっかり掴んだらしい。彼女の爪を垢を煎じて、住宅ローンの返済に追われている銀行員たちに飲ませてやりたい。 唯一いただけないのは『人肉寿司』というメニューを看板料理にしようとしていることだった。

「もうあんたに言ってもしょうがないか。死んでるもんね」

生きている、と声に出したかった。しかし全身が動かない今、彼女にとっては死んでいるように見えるのだろう。取引先の葬儀業者から聞いた話を思い出した。人は死んだときに目を閉じると思われている。しかし実際は目を開けたまま亡くなることの方が多い。だから七万円という高価な死化粧のオプションが追加される。葬式の時に目を開けた故人と対面するのが恐ろしいからだ。まったくもって不愉快だった。こうして調理台で横になり、寿司職人のネタになるきっかけである、数日前の区役所に入って行った。

・・・
【渋谷区役所】

 あの日も雨が降っていた。梅雨特有の嫌な天気で、降ったり止んだりを繰り返す日が続いていた。天気予報の『〇時から雨』は当てにならず、区庁舎に到着した時も、パンツスーツの裾が濡れていることに不快感を覚えていた。私は第一庁舎に入り、受付の女性に名前を告げた。

「しばらくお待ちください」

表情のない声で言い、内線で会話を始めた。彼女は人形のような冷たい美しさを放っていた。肩につくかつかないかの茶髪、事務職の制服、何がそうさせているか分からないが、どこか機械と話しているような印象を与える娘だった。

案内された八階の会議室に入ると、不快指数はいくぶんか和らいだ。冷房が効いていたこともあるが、中に座っていたのが好青年だったのだ。

「あ、立花さんですか。八菱銀行の担当者さんですね」

 彼は立ち上がった。ぱりっとした白いワイシャツの上からは、細いが程よく鍛え上げられた身体が見て取れる。大きな茶色い目が、眼鏡の奥で輝いていた。興味津々といった表情だ。何者にもこの手の表情を向ける種類の人間がいる。相手の懐に飛び込むことに長けた性格、は、それだけで人生がイージーモードになる。目の前の爽やかイケメンも、その類のようだ。

「はい。黒崎の後任です。ご挨拶が遅れて、すみません」

 名刺を渡しながら、もっと早く引継ぎの挨拶に来ればよかったな、と心で思った。しかし着任後にトラブルが発生し、後回しになっていたのだ。法人営業は結婚生活と似ている。相手が静かにしている時は安泰だと思っていたら、陰でとんでもないことをしていたりする。

「いえいえ。僕は高宮です。課長も同席をと思ったのですが、不在にしておりまして」
「構いませんよ。急にお伺いしたのは、こちらですから」

 私は椅子に座り、彼から受け取った名刺を机に置いた。そうして、すぐさま本題に入った。

「他行さんに乗り換えされるという話ですが」
「ずいぶんと性急ですね」

 向かいに座る彼は、驚いた表情をした。通常の銀行員は雑談から入るからだろう。九割が雑談、最後の一割で取引の話、回答は後日というのが定石だった。これを覆したのは、こちらも本気で交渉をしようとしているという決意を示すつもりでもあった。

「はい。お電話では、東京信金が書類の手続きをすべてやってくれる、と仰っていましたね」

「そんなものは建前ですよ。課長が前から愚痴っていたんです。八菱さんは支店長代理を担当者につけてくれるけど、全く来ない。信金さんの担当は新入行員だけど、一生懸命で健気だって。しかもその子、新垣結衣に似ているんですよ。課長のお気に入りです」

「私のような二十七歳は減価償却が進んでいますからね。指導を担当している水瀬を連れてきましょうか? 二十二歳ですよ。男だけど」

 彼は軽く笑った。しかし瞳は、冷ややかな光を宿したままだった。

「立花さんもクールビューティで、素敵ですよ」
「でも他行の付け替えを防ぐまでには至らないってわけだ」

 控えめなノックの音がして、先程の受付の女性が入って来た。彼女はペットボトルのお茶をテーブルに二つ置き、彼にメモ用紙を見せた。彼はため息を付き、「後でかけなおすって言っておいて」と彼女に言った。彼女は無言でうなずいた。口を開くのは一日に四回と決めているのかもしれない。扉から消えていく彼女の姿を見つめながら、彼は言った。

「広尾小学校で、怪奇事件が起きているんです」

私はアホかと思った。信金に接待漬けにされて脳みそがふやけているんですか、と舌の先まで出かかったが、なんとか別の言葉を引き出すことに成功した。

「広尾? あの高級住宅街の」
「ええ。渋谷区の住民税にもっとも貢献している地域ですよ。我が区の給料はご存知だと思いますが、うちの職員でそんなところに住んでいる人はいません」

彼は微笑んだ。柔和で心安らぐ笑みだ。しかし紡がれる言葉は穏やかではなかった。

「先生が次々と辞めていってしまうんです。担任がころころ変わると、小学生のクラスって荒れるんです。五年生なんて、親が交替でクラスを見張っているくらいですよ。渋谷の共働き世帯は七割を越える。仕事にならないって苦情が、親から殺到しているんです」

先生は人手不足だと聞く。かつてなりたい職業にランクインしていたが 今ではユーチューバーや プロゲーマーなどがランキングランクインしているらしい。私はお茶を飲んだ。よく冷えている。それは蒸し暑さで乾いた喉を潤し、交渉への活力を与えてくれた。

「その事件とやらを解決すれば、乗り換えをしないでくれるんですか」
「考えてあげても良い。あ、課長の言葉ですよ」

太い声は、課長の物まねだろうか。心が優しい彼に、悪役は似合わない。

「これでもだいぶ食い止めているんですよ。いくら何でも担当が変わったばかりにかわいそうだ、って。でも東京信金さんは、記入まで全部やってくれるって言うから」

メガバンクと違い、地銀や信金は手続きがゆるい。それは金融庁にとっては敵であるが、顧客にとっては利益でしかない。私はまだ、お客様サービス課のパートのおばちゃんたちとは人間関係が出来ていない。その中でこんな無茶を言っては、今後の銀行員人生に差し支えるだろう。私は言った。

「分かりました。でも日中は仕事があるから、動けるのは夕方から閉門までですよ」
「広尾小学校のPTAの方に伝えておきますね。詳細は、現地で教えてもらえると思います」

 天使のように見事な笑みが、彼の顔に浮かんだ。目じりは下がり、歯並びは端正で、鼻のかたちも良い。この笑顔を見られたなら、怪奇事件でもなんでも解決できる気がした。

「あ。行かれるのって立花さん一人ですか?」
「指導担の水瀬も連れて行こうと思います。どうしてそんなことを聞くんですか」
「警察の方は、必ず二人一組で行動しますから」

 彼はそれが当然とばかりに言った。高級住宅街の小学校に似つかわしくない物騒な単語が出てきて、私は驚いた。

彼は何かを知っている顔つきをしていた。役所の人間が黙るときは二パターンしかない 。何も考えていない時か( 今日の夜ご飯どうしようとか、洗濯物を取り入れたかなとか、LINEを返信したかな)、 やばい人種だからあまり関わらないでおこうというときか。彼の沈黙は、間違いなく後者だった

「前任の方が言っていたのですよ」

彼は沈黙になれていなかったらしく、口を開いた

「後任の立花って奴はやばいから。不動産屋に見せかけてアダルトビデオの店をやっていた取引先に乗り込んで、監禁されたけど、無傷で帰ってきたって。あと引きが強いから気をつけなって。何かあったら絶対彼女に言え。そうすれば絶対に解決するからって」

私は鼻を鳴らした 美少年に褒められて悪い気分にはならない。しかし、だからと言って「最後なのでお願いします」と言って仕組債を買わせたこと、その値下がりがすごいこと、「付け替えは僕が異動してからにしてください」と言っていたことは、許せたわけではない。

二(水瀬視点)

【八菱銀行 目黒支社】

指導担当者の立花さんが十八時ちょうどに退勤すると聞いて、俺は耳を疑った。

「誰か死んだんですか?」
「ここは東京だよ。コロンビアじゃない」

彼女の鋭い目つきは「葬式でもない限り、私が定時に退勤しないとでも?」と言いたげだった。その声は冷ややかで、まさに人を始末してきたような色を帯びていた。

「小学校に行くんだよ」

彼女はため息まじりに言った。黒く、長い髪をかきあげる。この場面だけ切り取れば、悩めるクールビューティ、セクシーな女上司だ。しかし切り抜きが真実であったことなどない。俺も始め、彼女が指導担当者と聞いた時、電話帳の写真を見て胸が躍った。年下の女の子が好みだったけど、年上も悪くないんじゃないか、とさえ思った しかし前場所の同期から彼女の評判を聞いたところ「上司としては最高だけど、絶対に恋人にしたくないタイプ」と言われた意味も理解した。仕事が好きすぎるのだ。そんな彼女が小学校に行くなんて、俺は二十の意味で理解に苦しんだ。

「え。お子さんいたんですか」
「そんなに驚かなくても。私はもう二十七歳だから、子供がいてもおかしくないでしょう。違うよ。バーター取引を持ちかけられたんだ」
「バーター取引?」
「預金付け替えの話。うちの大口預金先に、渋谷区役所があるだろ。あそこの銀行担当者から、小学校の怪奇事件を解決しろって言われたんだ。そうすれば再検討してくれるみたい」
「へー。でもいいじゃないですか。付け替えされたって」
「バカ言え。金だけじゃない。うちの大口取引先もあそこでしょ。運用実績が下がるんだよ」
「あ、そっか。預金担保にして、枠ギリギリまで運用させてるんでしたね」

俺の言葉は、彼女の頭上を通り過ぎて行った。彼女は百六十近く身長があるため、俺と十センチほどしか変わらないが。てきぱきと退勤の準備を進める彼女を見つめた。無駄のない動き、しなやかな身体つき。それはサバンナで生きる動物を思わせた。ゆっくり動くと死んでしまう類の、誇り高い肉食動物だ。

「じゃあね。お疲れ様」

彼女は立ち上がり、課長の席を見た。挨拶しようとしたのだろう。しかし支店長と臨時の会議をしており、不在だった。

「課長には先に帰って伝えといて」
「あの」

俺は声を上げた。どうしてそんなことをしたのか、今でも分からない。

「俺もついて行っていいですか?」

彼女は珍しい虫を見るような目つきで俺を見た。

「なんで? 小学生もナンパするつもり?」
「違います。年下は好きですが、犯罪者になるつもりはありません」

彼女の目に、俺はどんな獣に見えているのだろうか。この傾向は彼女のように女きょうだいに囲まれ、進学校の女子校で育った者によく見られる。男はバカな小学生のままで記憶が止まっているのだ。あながち間違いでもない。大人になるにつれ、モラルや外見で取り繕うことがうまくなっただけだ。

「僕、昔その小学校に通ってたんですよ。一年生までですけどね」
「へえ、都会っ子だね。横浜出身じゃなかった?」

ま、横浜も都会だけど。自虐気味に付け加えることを忘れない、会津若松出身の彼女だ。

「親父がまだいた頃、あの辺に住んでたんです」

沈黙。彼女の好きなところを挙げるとすれば、こちらが話したくないことを一切聞いてこないところだろう。営業を長年やっている人間は、この手のスキルを身につける。相手の心の動きを読み、この先は踏み込んではいけないとブレーキをかけることができる。

「分かった。じゃあ道案内を頼もうかな。終わったら渋谷で美味しいものでも食べよう」
「無理ですね。俺、今日デートあるんで」
「はいはい。じゃあ私はサウナにでも行くから。ご自由に」

俺は締め業務の引き継ぎを、別の課の一つ上の先輩に頼んだ。俺の店に俺の同期はいない 。お客様サービス課にはいるけど、ここ法人営業課にはいない。研修中に考えが変わって、銀行に入ることを辞めてしまったらしい。彼女は大学生の頃に起こしたビジネスで成功し、ちょっとしたインフルエンサーになっている。俺はその様子を、よせば良いのについSNSで見てしまう。その度に嫌な気持ちになる。自分の判断が正しかったのかそうでないのか、分からなくさせるからだ。

店を出た。六月の夕方にしては、奇妙なほど温かかった。風が強く吹いている。その強さは少しすれば暴風に変わり、雨をもたらすらしい。そろそろ梅雨入りすると食堂のテレビが言っていた。十七時に出ることなんてあまりないから、外は奇妙に明るく感じた。 俺たちが山手線に乗って 渋谷で降りた。小学校に 到着したとき、ちょうど雨が降ってきた。 この時は幸運だと思った。 しかし そんなことで喜んでいる場合ではなかった。おそらくここで運を使い果たしたのだ。その日一日分の運を。

・・・
【広尾小学校】

校門に近づくと、守衛さんが訝しげな顔で近づいてきた。用件を告げると、無線で何かをやり取りし始めた。待っている間に、校門から小学生が二人出てきた。どちらも後ろからそれぞれの親がついてきている。「お迎え、大変だよね」「あの事件のせいで」と話している。仕事の合間に迎えに来たようで、うんざりした顔をしていた。子供たちは対照的に、嬉しそうに校門を駆けていく。彼らの背中を見送っていると、守衛さんに話しかけられた。

「PTA室に行ってください。入ってすぐ右の校舎、一階職員室の向かいです」

小学校は校舎が二つ、 プールが一つという小ぶりなサイズだった。運動場は人工芝で、辺りは低層マンションで囲まれている。まるで箱庭のようだ。綺麗にラッピングされて、箱に入れられて、百貨店に並ぶのだろう。都会ではこれが限界なのかもしれない。しかし小学生、彼らにとってはこの世界が全てなのだ。

PTA室にはすぐ到着した。無機質なパイプ椅子とテーブルが並ぶ、質素な部屋だ。小学校のマークが描かれたTシャツや、行事で使うであろうダンボールが山積みになっていた。壁には歴代PTA会長の写真が並んでいる。俺たちの姿を見て、テーブルで何か作業をしていた女性が微笑んだ。

「あぁ、銀行の方ね」

感じの良い女性だった。ファッションモデルとまではいかないけれど、年齢の割に華がある。ふんわりと広がるスカートに、薄手のニットのカーディガンを着ている。ていねいにカールされた髪が揺れて、小ぶりなネックレスが光った。首には『広尾小学校PTA葉月』いうネックホルダーもかかっていた。

「困ったことになってるのよ」

彼女ほど、本当に困ったような声を出せる人種も難しいだろう。俺は彼女の発言にあわせて上下する、なだらかな双丘を見つめていた。

「給食室の廊下に、お化けが出るのよ」
「お化けね」

立花さんは明らかに馬鹿にしたような声を出した。葉月さんは少なからずその態度が気に障ったようだが、気にしないふりをして続けた。

「授業が終わる十五時までは学校側の問題なんだけど、放課後は私たちPTAの管轄なの」

その声には何処か誇らしげな色が窺えた。

「校舎前に自転車は一台置かれていないでしょ? 歩道橋の下にも。今まではそこに生徒達が自転車を止めていたのよ。私たちPTA、校外委員がパトロールしたお陰なのよ」

 彼女は段ボールの中から、ネックホルダーを取り出した。『▼▼小学校PTA』と書かれた紙も入っている。彼女はそれを見せた。桃色とラメのグラデーションがかかったジェルネイルが、美しく輝いていた。

「そして今日からあなたたちも、そのPTAの一員となってもらうってわけ」

綺麗な指先が、ネックホルダーをこちらによこした。とがった爪は凶器にも見える。

「名前を書いてもらえる? 首からかければ、次から守衛さんに止められずに入れるわ」
「次から?」

机の上に転がっていた油性ペンで名前を書き終えた立花さんが、腹立たしげに吐き捨てた。今にも机を叩きそうだ。どうやら彼女の我慢の限界を超えてしまったらしい。

「今日で解決してみせますよ。私たちはそんな暇はない。学校の前に止められた自転車? どうでもいい。自転車を使えば早く学校に来れるなら、その方がいいでしょう。利便性を考えるべきです」

沈黙。葉月さんは穏やかに微笑んだ この手の非難には慣れているのだろう。猛獣を手なずけるように、ゆっくりと口を開いた。

「貴女はまだ子供がいないから分からないのよ。子供は地域が育てるものなの。歩いていれば、誰かしら声をかけてもらえる。一見、不自由に見えても、長い目で見れば分からない。人は運動会をするために生まれてきたわけじゃない。走ってばかりだと、疲れるでしょ」

立花さんはどこか打ちのめされたような顔をしていた。毎日を短距離走のように走り続けていた彼女にとって、どこか思うところがあったのだろう。彼女は無言で立ち上がった。彼女の生き方を否定された苛立ちが、置き去りにされた椅子に残されていた。

「行くよ、水瀬。 デートの時間に遅れるぞ」

俺は慌てて立ち上がり、葉月さんに軽く会釈をした。彼女はやれやれと言った様子で、微かに笑みを浮かべた。俺は彼女の豊満な胸に飛び込み、そのままずっと包まれていたい衝動に襲われた。「大丈夫よ、すぐに良くなるからね」など優しい言葉をかけてもらいながら、頭を撫でてもらいたかった。親父が他の女の人と一緒に家を出て行って、母さんが自分のことで精一杯になって以来、ずっとそんな幻想に取りつかれていた。母さんにもお兄さんにも言ったことがない。言ったところで「精神科を受診しろ」と言われるだけだろう。何かにつけて精神科の受診を勧めてくる家族のことを思い出した。彼らを頭から追い出し、立花さんの跡を追った。彼女は既に歩を進め、地下への階段を降りようとしていた。俺は走った。そうしないと、ぱっくりと口を開けた深淵に飲み込まれて、永遠に立花さんどころか、現世と別れを告げてしまう気がした。

・・・

地下二階には、不気味な光景が広がっていた。ぼんやりと蛍光灯に照らされる古びた廊下は、まるでお化け屋敷のようだ。小学校に到着した時に降り始めた雨は、次第に強さを増して来たようだ。窓ガラスに叩きつけられる雨音を聞きながら、そんなことを考えていると、 背後から視線を感じた。俺は勢いよく振り返った。

「どうしたの?」
「なんか、誰かに見られてる気がするんです」
「生徒だろ。さ、行くよ」

 ずんずん進んでいく彼女についていくも、やはり違和感は消えない。

「俺、ちょっと見てきます」

 正体を確かめたくて、俺は引き止める彼女を振り払い、元来た階段へ走った。そこには冷ややかな目をした女の子が立っていた。

「お兄ちゃん、そこで何してるの?」
「お化け退治だよ」

怪訝そうな顔をする彼女に、俺はネックホルダーを見せた。それは彼女をいくぶんか安心させたようだ。葉月さんが言っていたことは本当だった。このネックホルダーがなければ、随分面倒なことになっていたに違いない。

「銀行から来たんだ。上司と来たけど、はぐれちゃったんだ」
「そう。あんまりこの辺、うろつかないほうがいいよ」

 彼女はご丁寧にも忠告を与えてくれた。先ほどの凍てつくような視線は、いくぶんか和らいでいた。口元には笑みすら浮かんでいる。しかし目は全く笑っていない。完全に信用を寄せていない者から向けられる、典型的な表情だ。 彼女はまた階段を上がっていった。何かが引っかかる。違和感の正体を確かめようと小さくなる背中を見つめていると、背中に手が置かれた。

第二話


第三話


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