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弁解より非を認め自責化する

松下幸之助 一日一話
11月22日 弁解より反省

仕事でもなんでも、物事がうまくいかない場合、必ずそこに原因があるはずである。だからうまくいかなかったときに、その原因を考えることは、同じ失敗を重ねないためにも、きわめて大切である。

そのことは誰もが承知しているのであるが、人間というものは往々にしてうまくいかない原因を究明し反省するよりも、「こういう情況だったからうまくいかなかったのだ。あんな思いがけないことが起こって、それで失敗したのだ」というように弁解し、自分を納得させてしまう。原因は自分が招いたことである、という思いに徹してこそ、失敗の経験も生かされるのではないだろうか。

https://www.panasonic.com/jp/corporate/history/founders-quotes.html より

仕事でミスをした際や物事が上手くいかない時に、その原因として自分の非を認めずに弁解ばかりした上で、失敗の経験を次に生かせない人というのは、昨今では私たち一般人以上に、国を率いるような指導的立場にある人の中に目にすることが増えてきました。

では、なぜ自分の非を認めずに弁解ばかりするのだろうかと考えますと、大別して「知識詰め込み型の暗記教育を受けてきた弊害として、答えのない問いに対する思考耐力がなく自分で問題を解決する力がない」または「エリートコースの一本道を歩んできたために、失敗した経験がなく失敗を認めることを異常に恐れている」などが挙げられます。

前者の「問題を解決する力」をつけるためには、大別すると「思考耐力を養う」ことと、「問題解決技法を身に付ける」ことの2つが重要になると言えます。更に「思考耐力を養う」ためには、20~30年のスパンが必要になりますが「問題解決技法を身に付ける」ことは短期間でも可能であると言えます。

問題解決技法の一つに原因分析を行う「なぜなぜ分析」などがあります。「なぜなぜ分析」とは、簡単には問題の原因について「なぜ、なぜ、なぜ」と繰り返し深掘りをしていく分析の手法になります。

例えば、あなたが今転んだとします。あなたはなぜ転んだのでしょうか?先ず3つの原因を挙げていきます。

①床に出っ張りがあったために躓き転んだ。
②誰かとぶつかったり、誰かに押されたために転んだ。
③日頃の運動不足により体幹のバランスが崩れていたために転んだ。

この中で、先ず①の「床に出っ張りがあったために躓き転んだ」を更に、「なぜ、床に出っ張りがあり転んだのか」と3つの原因に分けていきます。

①床の素材の経年劣化により出っ張りが出来ていた。
②誰かのイタズラによる作為的なものだった。
③自分の注意力が欠落していた。

更に①の「床の素材の経年劣化により出っ張りが出来ていた」を更に、「なぜ、床の素材の経年劣化により出っ張りが出来ていたのか」と3つの原因に分けていきます。

①時間的変化なので出っ張りが出来ることは仕方がないことだった。
②担当者が床の保護剤を塗ることを怠っていたために経年劣化が進んでいた影響だった。
③自分を含めた多くの人が近道をするためにその場所ばかり歩いていた。

上記の例は、「なぜ、なぜ、なぜ」と3段階掘り下げ、全て①を選んだケースにおける3通りの原因を出した一例に過ぎません。本来は、最初に分けた①②③全てにおいて、それぞれの原因を3段階ずつ掘り下げる必要があります。つまりは「3^3」ですので結果としては27通りの原因が出てくることになります。この27通りの原因の中から真の原因を見つけるというのが、原因分析になります。

トヨタの場合は、このなぜを「なぜ、なぜ、なぜ、なぜ、なぜ」と5回繰り返すことを基本としているそうですので、真の原因を見つける前に「3^5」である243通りの原因を探すことが必要になります。

既にお気づきの方もいらっしゃるかもしれませんが、私が今回一例として行った「なぜ転んだ」に関する原因分析は、通常の手法に少し複雑なアレンジを加えたものになります。通常は、1つのなぜに対して思い浮かぶ3つの原因を挙げていけばいいものですが、今回は3つの原因に分ける過程において、

①外因の原因。
②他責の原因。
③自責の原因。

としました。「外因の原因」とは、一般的には外因化と言われるもので、物事の原因を外的な要因から導き出すことです。「他責の原因」とは、一般的には他責化と言われるもので、物事の原因を他人の責任の中から導き出すことです。「自責の原因」とは、一般的には自責化と言われるもので、物事の原因を自分の責任として導き出すことです。

基本的には、直面する問題に対して外因化や他責化を行ったとしても問題解決には繋がりません。全てを自責化することで問題解決を容易にすることが可能になります。

例えば、「あなたが電話連絡を待っていたのに、相手からの電話が無かった」とします。

これを外因化すると、「相手の電話の充電が切れてしまっていたため、電話をかけることが出来なかった」或いは「相手が電車に乗っていたため、電話をかけることができなかった」ということになります。

次に、これを他責化すると、「相手が電話をすることを怠ったため電話がなかった」或いは「相手の社会経験が少なく電話すらまともにできなかった」となります。

これを自責化をするならば、「電話連絡がきちんとくるように前日に確認メールを怠った自分が悪かった」または「自分から電話をかけなかったのが問題だった」或いは「相手が連絡を取りやすい方法でコミュニケーションを取ることを怠ったのが問題だった」ということになります。

外因化や他責化は、自分以外の外的要因や他人の行動が変わることでしか問題を解決することが出来ません。結局の所、他人に問題解決の権限を委ねることになり、解決までにどれくらいの時間がかかるのかすら分かりません。しかし、自責化は自分の行動や考え方を変えることで問題を即座に解決することが可能になります。自分が実行すれば、自分の権限のみで変えられるということです。つまりは、直面する問題に対して自責化できる人は、外因化や他責化ばかりしている人よりも、問題を解決できる確立が遥かに高いということです。少し広い視野で世の中に目を向けてみれば、それは一目瞭然です。外因化や他責化ばかりしている人の周りには、常に問題が蓄積されたままになっています。

物事の原因を他人のせいにし、他人に変わることを求めたところで、他人が変わってくれる保証などありませんし、変わってくれるまで待つ時間も無駄になります。ならば、可能な限り自責化を心掛け自分が変わること(行動を変えること)を実践した方が明らかに効率的であり、問題のない楽しい時間を過ごすことに繋がるのだとも言えます。


中国古典の一つであり孔子の言葉をまとめた論語には次のような言葉があります。

「君子は諸(こ)れを己に求む。小人は諸れを人に求む。」(論語)

君子は、何事も自分に求め、自分に責任を課す。小人は何でも人の責任にするという意味です。

「小人(しょうじん)の過(あやま)つや、必ず文(かざ)る」(論語)

品性の劣悪な人間が過ちを犯すと、必ず言訳をして表面をとりつくろうのだという意味です。

「過ちて改めざる。是を過ちという」(論語)

過ちをごまかして改めないことを、真の過ちと言うという意です。


最後に、「自分の非を認めること」の大切さについて松下翁は以下のように述べています。

  人間は神さまではないのだから、一点非のうちどころのない振舞などとうてい望めないことで、ときにあやまち、ときに失敗する。それはそれでいいのだが、大切なことは、いついかなるときでも、その自分の非を素直に自覚し、これにいつでも殉ずるだけの、強い覚悟を持っているということである。
 昔の武士がいさぎよかったというのも、自分の非をいたずらに抗弁することなく、非を非として認め、素直にわが身の出処進退をはかったからで、ここに、修業のできた一人前の人間としての立派さが、うかがえるのである。
 むつかしいといえばむつかしいことかもしれないが、それにしても、近ごろの人間はあまりにも脆すぎる。修練が足りないというのか、躾ができていないというのか、素直に自分の非を認めないどころか、逆に何かと抗弁をしたがる。そして出処進退を誤り、身のおきどころを失う。とどのつまりが自暴自棄になって、自分も傷つき他人も傷つけることになる。これでは繁栄も平和も幸福も望めるはずがない。
 自分の非を素直に認め、いつでもこれに殉ずる――この心がまえを、つねひごろからおたがいに充分に養っておきたいものである。
(松下幸之助著「道をひらく」より)

松下翁の仰るように、なまじ知識が先行するあまりに小賢しい弁解をする能力は身に付けているが、修練が足りずに自分の非を認めることが出来ない。そのために、出処進退を誤り、身のおきどころを失うような人間にならないためにも、原因は自分が招いたことであると素直な心で反省に徹し、失敗の経験を飛躍のチャンスとして生かすことを心掛けたいものであると私は考えます。


中山兮智是(なかやま・ともゆき) / nakayanさん
JDMRI 日本経営デザイン研究所CEO兼MBAデザイナー
1978年東京都生まれ。建築設計事務所にてデザインの基礎を学んだ後、05年からフリーランスデザイナーとして活動。大学には行かず16年大学院にてMBA取得。これまでに100社以上での実務経験を持つ。
お問合せ先 : nakayama@jdmri.jp

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