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【 エッセイ 】 阪神大震災の記憶

小学校の頃、当時神戸に住んでいた私たち家族は未曾有の大災害に見舞われた。阪神大震災である。友人や知人を亡くした人、転校を余儀なくされた子どもたちなど、神戸に住んでいた多くの人々の生活を一変させた大震災であった。

朝目覚めると家の中のありとあらゆるものが飛び交い、激しい揺れと家族の悲鳴でパニックになった。当時、私たち一家はJR駅前の14階立てマンションに住んでいた。

揺れが落ち着くと今度は兄の姿が見つからない。兄の部屋を開けようとしても自力では開かず、父が体ごとぶつかってこじ開けた。部屋の中ではピアノが倒れ、倒れたピアノと壁の隙間で兄が助けを呼んでいた。助かったのが奇跡的だった。

当時マンションは市から「半壊」認定。「全壊」認定よりも被害の評価は軽く、市から支給される支援金額も全壊認定の場合より少なかった。

階段は14階から1階まで抜け落ち、外から見ても明らかに傾いていたが、市の認定は覆らなかった。そこで全壊認定を市に働きかけるべく住民が定期的に集まって会合を開き、今後のことを話し合うことに決まった。

その頃、私たち家族は父の知り合いのいる隣の市に一時的に移り住み、私と兄も転校した。

当初は新しい学校に馴染めるか大きな不安に苛まれたが、実際に転校してみると明るく優しい先生や同級生ばかりで、私たちを温かく迎え入れてくれた。今思うと、被災地からやってきた私たちに対する深い思いやりの気持ちを学校全体で共有していてくれたのかもしれないと思う。

充実した学校生活だったが、週末になると私たち一家は約1ヶ月に1度、マンションの定期会合に参加するため「何もない」実家に帰った。会合に出席しない私と兄は毎回、真っ暗な実家の部屋で会合が終わるのを待っていた。

本音を言うと当時、私はその「里帰り」がとても苦痛だった。実家には何もなく真っ暗でやることもなかったことに加え、何より亡くなった友人や友人の家族のことを思い出してしまうからだった。すぐ近くに母校はあるにも関わらずまた隣の市に帰らないといけない切なさもあった。

結局、定期会合では具体的な方針をめぐって住民間で随分と揉めたあげく何とか結論がまとまり、ひとまず「里帰り」は終わったが、一度できた住民間の感情的な溝は埋まらず、人間関係を理由に出て行く住民が相次ぎ、私たち一家もついに念願の母校にはほんの少ししか復帰できず転校となってしまった。

しかしこの時、ほんの短い期間ではあったが母校で過ごした日々はかけがえのないものだった。私が隣の市から母校に帰ってくると、先生も元の友人たちも大喜びで迎えてくれた。校舎はまだ避難所としても使われていたため、仮設校舎で日々を過ごした。質素な学び舎ではあったが、震災前以上にみんな賑やかで元気で、私も最高に楽しい時期を過ごすことができた。

転校直前、担任の先生からみんなで書いた寄せ書きをもらった。「○○君ならきっとどこに行っても大丈夫」、「私たちのことを忘れないでね」、そんな言葉に思わず目頭が熱くなった。みんな、それぞれに辛い思いを経験した仲間なのだ。その言葉には心からの優しさが込められていた。

震災を経験したことで確かに辛いことも多かったが、そればかりではない。いいこともあった。転校先の先生や同級生が私を温かく迎え入れてくれたこと、元の小学校に戻れた時にみんなが喜んでくれたこと。避難所で救援物資が届かない中で貴重なおにぎりを私たち家族に分けてくださった方もいた。

日常の中にこれほどの愛が溢れていることを私は知らなかった。震災をきっかけにして、普段見えなかった大切なものがはっきりと認識できるようになったのだ。震災がなければ何一つ気づかなかっただろう。

以前、以下の投稿で「人生の価値や豊かさは『一生で触れる感動の量』で決まるのではないか」ということを書いたが、そのように考えるようになったのもこの時の出来事があった影響が強い。数多くの深い感動に触れる中で、自分の人生の奥行きが広がっていくような感覚を確かに味わったのだ。まさに振り返ると「大切な時期」だった。

長い人生、まだまだ色々なことが起こる。困難に直面することもあるだろう。そんな時はこの幼い頃の感動を思い出して前を向こう。たくさんの愛、友情、絆。間違いなく自分の人生の中の財産の一部。そしてターニングポイントだ。




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