2月3日

 病気療養には家族の理解が必要…だから初診の時は、家族同伴でなければならない。休職するための診断書を求めて、やっとこさ診てもらえることになった病院への問い合わせ時に、担当者から言われた。生憎親戚の不幸が重なり、同伴なしで私は病院へ行った。それが拙かったと思わないのは、一番の理解者である筈の母親が、私とほぼ共倒れ状態だからだ。
 診断書など必要にならなければ、私は通院加療を要さなかった。診断されるような病気に罹っているなどと思わなかったのは、こんなこと、過去には何度もあったからだ。それは私だけでなく母親にとっても同じこと。子ども心に、自分の母親の精神状態が普通ではないとわかるような子ども時代を、私はずっと過ごしてきた。鬱やノイローゼなどの言葉を知らないから、それが病院に行ったら何とかなるかも知れないものだとも思わなかった。唯、生きていくということは、とてもしんどいのだとずっと思って成長した。
 自力で治した…というより、多忙によってうやむやになった…というのが正しい。母にしても私にしても…。生きていくことはしんどいことで、ごくたまにあるちょっと楽しいことや心地良い感情に背中を押され、生きていれば良いことだってある…そう思えるようになっていったのだと思う。
 ネット社会になって、自己診断なるものを受けることが簡単になったのも理由である。あまりの生き辛さに、自分で何をどうすればいいのかわからなかった時、ネットで調べまくった結果、あぁ…自分は今、健常な状態ではないのだな…と自覚したのだ。
 病院に…行こうとは思わなかった。行ってどうなる?と思ったからだ。大量の薬を処方され、副作用に苦しむ。治療が長引いて、社会復帰が遅れていくばかり…。仕事がないのに治療費はかさみ、何も良いことなどない。今でもそう思っているのは、この件に関して医者を信用していないだけでなく、本当に医療を必要としている患者に比べると、症状が軽いのかも知れないからだ。
 診察してもらうために掛け捲った電話は十件を超えるが、すべて予約がいっぱいだと断られた。近場にあっても、『予約していても3時間は待たされる』などという口コミを読むと、断られなくても受診する気力が萎える。遠方の医者も視野に入れたが、通院による精神的負担に耐えられる自信はなかった。
 診断書が出て、休職手続きが済んだことを伝えた時、母は言った。
「また人が居る癖ついていしまうな…。どうなら…」
 本心以外の何物でもなかろう。
 私が終日家に居ることによって、我が犬はストーカーと化す。トイレに立っただけでついて回る。待たせたものの一分後、べったり引っ付いて甘えた…という話をしたことを後悔した。
 外で働いていなければならない人間が、家で一日さしたる動きもせずに居続ける。
 数年前、座っているだけで涙が止まらなくなった私を見て、母が溜息をついた。
「そんなんやったら仕事なんて何も出来へん」
 結局その仕事からは離れたが、【石の上にも三年】という考え方が当たり前で生きて来た世代の人間に、現代病を理解しろという方が土台無理な話なのだろう。そもそも、自分自身が受診していれば、診断が下ったであろうような人生を送ってきた人だ。現在も私が抱える物以上のものを抱え、年明け以降、溜息をつくかしんどいと呟くか、その両方で日々を過ごしている。それに重ねて娘が体を壊したのである。生活が面白おかしいはずがない。診断なんて望んでもいなかったであろうし、知りたくもなかったであろう。そもそも今回に関しては、私の自業自得でしかなく、誰のせいにも出来ないから尚更だ。
 病気療養には家族の理解が必要…。家族も人間である。自分がしんどければ、家族であっても気遣ったり配慮したりする余裕などない。それがわかるから、私もそれを求める気はない。
 間違っても理解の出来る家族ではない父に関しては、仕事に行っていないことをいつ咎められるか知れない。起爆スイッチが何処にあるのか判断できないような人間。気配を感じるだけでトイレにさえ行けない私は、家に居たって休まらないのである。
 一日でも早く仕事を決めたい。身の振り方さえ定まれば、あとは入職日を指折り待つだけで、それまではぐっすり眠れるように思う。

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