見出し画像

健屋花那さんと文学(②日本古典文学編)



はじめに

 この記事は、「文学」を通じて「健屋さんの活動」を振り返ろう!という試みで書かれたものです。今回は、日本の古典文学から。
 なお、「文学」というと「小説」等を想像しがちかもしれませんが、ここでは和歌などの詩歌や歴史的に重要な書物なども含めた、広い意味で「書かれたもの」「テクストとして成り立っているもの」を主に「文学」として扱います。

小倉百人一首


 「百人一首」とはいわゆる和歌アンソロジーの1ジャンルで、その先駆たる「小倉百人一首」は、平安時代末期から鎌倉時代にかけての時代を生きた公家・藤原定家が100人の歌人から1首ずつ撰び、それを色紙に書き京都小倉山にある山荘の障子に貼ったと伝わる「小倉色紙」が始まり。これがカルタの形態となって定着したと伝わります。後代になると室町幕府第9代将軍足利義尚(よしひさ)による『新百人一首』(1483(文明2)年成立)や、戦時中に撰ばれた『愛国百人一首』など様々な「百人一首」が登場しています。しかし、「百人一首」といえばこの藤原定家による小倉百人一首を指すことが殆どです。

蝉丸(10番):これやこの〜

これやこの行くも帰るも別れては知るも知らぬもの関

現代語訳:これがまああの、都を旅立つ人も帰ってくる人も、知っている人も知らない人も、遭っては別れていく逢坂の関なのだなぁ

【マイクラ】にじ鯖に診療所を建てる!#1【健屋花那/にじさんじ】
配信日:2020年7月28日

 外見は手塚治虫の『ブラック・ジャック』に登場する診療所、中身は健屋さんのセンスがいたる所で息づいている猫カフェとして存在感を放っている建築物。診療所兼猫カフェ造りは休止期間も挟みつつ年単位の長きにわたる仕事となるのですが、この配信はその取り組みの記念すべき第1回目の配信です。
1:20:45あたりから、百人一首に撰ばれている蝉丸(せみまる、生没年未詳)の和歌について触れています。健屋さんが中学生の時に、同じ学級の女の子が好きだった歌だといいます。この配信内で健屋さんが仰っているとおり、蝉丸の歌は百人一首で唯一、濁音(゙)・半濁音(゚)がない歌として知られています。
 蝉丸平安時代初期の伝説的な歌人。目が不自由琵琶に長じていたと伝わります。彼を題材とした
の謡曲(=脚本)にもなっています。こちらは、『風姿花伝』の作者でもある世阿弥(生没年不詳)作。

中納言行平(16番):たち別れ〜

たち別れ いなばの山の 峰に生ふる
まつとし聞かば 今帰り来む

現代語訳:お別れです(因幡国へ赴任します)。因幡国の稲葉山の峰に生えている松のように、私のことを待っていると聞いたならば、今すぐにでも帰ってきましょう。

 
 中納言行平の歌です。健屋さんが同配信にて、後に挙げる左京大夫道雅の歌のほかに好きな歌として挙げた歌です。中納言行平、すなわち在原行平(ありわらのゆきひら)は、平城天皇(へいぜいてんのう)の第一皇子・阿保親王(あぼしんのう)の次男。平安時代初期を生きた人物です。『伊勢物語』で知られる六歌仙の一人・在原業平(ありわらのなりひら)のにあたります。

 配信内で健屋さんも紹介したように、この歌は因幡守として因幡国(いなばのくに。現在の鳥取県)に赴任しなければならなかった行平が、別れの歌として詠んだものです。
いなば」が地名の「因幡」と「往なば」(=行ってしまったならば)の、「まつ」が「」と「待つ」の掛詞になっています。
 いなくなってしまった無事に戻ってくるよう願掛けをするためにこの歌が使われることもあります。『冥途』などを書いた作家・内田百閒(うちだひゃっけん)も、行方が分からなくなってしまった愛猫ノラを探す広告を出した際に、「オマジナヒ」として広告文の周りをこの和歌で囲んだことで知られています。

ぐるりの枠に猫が帰るおまじなひの「たちわかれいなばの山のみねにおふる、まつとしきかばいまかへり来む」の歌を、赤色の凸版で刷り込んだ。

内田百閒(1997年)『ノラや』(中央公論新社)p.51(kindle版)

菅家(24番):このたびは〜

このたびは 幣も取りあへず 手向山  紅葉のにしき 神のまにまに

現代語訳:この度は急な旅で、道祖神に捧げる幣が用意できませんでした。その代わりに、手向山の錦のような紅葉をお受け取りください。

 菅家とは「学問の神様」こと菅原 道真(すがわらのみちざね、845~903)のこと。政治的にも大きな影響力を持った道真ですが、歌人としても数多の作品を残した人物です。彼は893年に成立した『新撰万葉集』の撰者とされることもあります(正式には未詳である)。それまで中国の詩の形態「漢詩」を日本の「大和言葉」に「換骨奪胎」していたのが当時は普通でした。それが『新撰万葉集』ではこれまでの「漢→和」という道筋を逆転させ、「和→漢」という試みを実践しており、こうした営みに道真の「うつしの美学」があると大岡信は述べています(※1)。

【ラジオ】すこやか放送第十八回 ゲスト:フミ【健屋花那/にじさんじ】
配信日:2020年3月21日

健屋さんによるラジオ番組「すこやか放送」。この第18回では、健屋さんがにじさんじの神様ことフミ様に、視聴者から募ったクイズを出題します。その中で14:45より、百人一首に関する出題がありました。和歌にある「神のまにまに」繋がりで、健屋さんと早瀬 走さん、そしてシェリン・バーガンディさんから成るチューリップ組による、「神のまにまに」の歌ってみたにも言及がありました。

【チューリップ組】神のまにまに歌ってみた【半年記念】
公開日:2020年3月19日

 これはチューリップ組デビュー半年を記念して公開された動画で、YouTubeに投稿されたものとしては、健屋さんにとって初めての「歌ってみた」動画でした。
この歌は菅原道真というよりも、実際には日本神話の「天の岩戸」伝説がモチーフになっているようですが、元気が貰えるような素晴らしい歌なので、こちらで紹介させていただきます。あと、個人的に巫女服が性癖なので、この歌の健屋さんの衣装が“癖”です。
 さて、菅原道真は901(延喜元)年、天皇の「心を欺いた(※2)」という罪でに左遷され、903(延喜3)年に死去します。この昌泰(しょうたい)の変と呼ばれる出来事の後、皇太子が相次いで薨去し、落雷で大納言藤原清貫らが死亡する等の事件が相次ぎます。そしてこれが菅原道真の怨霊による祟りであるとされるように。道真は人神(ひとがみ)となり、福岡県太宰府市太宰府天満宮京都府京都市北野天満宮などでいわゆる「学問の神様」としての信仰を集めるようになりました。
 彼の嫡流の末裔には『更級日記』の作者であり、古典文学における私の推しである菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ)がいます。彼女が作者とされることもある夜の寝覚』の解説書が「ビギナーズ・クラシックス日本の古典」シリーズから出ているので、ここで宣伝させてください……

菅家:脚注
(※1)大岡信(2020年)『詩人・菅原道真―うつしの美学』(岩波書店)p. 63。
(※2)佐々木恵介(2018年)『天皇の歴史3 天皇と摂政・関白』(講談社)p. 78。しかし、この左遷を仕組んだのは菅原道真とライバル関係にあった藤原時平サイドです。

左京大夫道雅(63番):今はただ〜

今はただ 思ひ絶えなむ とばかりを
人づてならで 言ふよしもがな

現代語訳:今となっては、『想いを諦めてしまおう』ということだけを、人づてではなくて、自分で言う方法があればなあ。

左京大夫道雅(さきょうのだいふみちまさ)の和歌。2023年12月13日の雑談配信にて、健屋さんが「推し百人一首」として挙げました。「もうあなたに直接逢うことはできない」ということを直接表現せずに、「人づてではなく言う方法があれば」と切に願う、切なくて綺麗な和歌です。斎宮(いつきのみや
)として伊勢神宮に奉仕していた女性・当子に密かに会っていた道雅ですが、そのことが当子の父である三条天皇の怒りを買い、道雅と当子は引き剥がされてしまいます。そんな境遇に際して道雅が詠んだのが、この和歌でした。

 左京大夫道雅、すなわち藤原道雅(ふじわらのみちまさ)は平安時代中期を生きた公卿で、藤原道長との政権争いに敗れた藤原伊周にあたります。……と書くと、この歌も相まって悲劇の貴公子、といった印象が強そうですが、実際には道雅は乱暴な言動が目立ち、「荒三位」とあだ名されました。「荒三位」として最も有名なエピソードと思われるのが、1024年に発生した殺害事件。これについては、2024年の大河ドラマ『光る君へ』にも登場する公卿・藤原実資(ふじわらのさねすけ)の日記『小右記(しょうゆうき)』にも記録されています。

彰子に伺候していた女性が、強盗に殺害されて路頭に引き出され、夜中に犬に喰われたという痛ましい事件が起こった。
 犯人は翌万寿二年(一〇二五)三月に逮捕されたが、それは隆範という僧であった。しかも七月に自白した結果によると、「荒三位」藤原道雅が行なわせたものとのことであった。実資は、「やはりあの一家(中関白家)の悪事の報いか」と嘆いている。

藤原実資 原著、倉本一宏 編(2023年)『ビギナーズ・クラシックス日本の古典 小右記』(KADOKAWA)(p. 592)

彰子藤原道長の長女であり、道雅の属する中関白家にとっては政敵となるわけですが、時にはこのようにショッキングな事件を起こした彼が、「今はただ〜」と儚げで美しい和歌を詠んだというのは、歌道の魔性と言えましょう。 

崇徳院(77番):瀬を速み~


江戸時代の浮世絵師歌川国芳が描いた崇徳上皇。

瀬を早み 岩にせかるる 滝川の
われても末に あはむとぞ思ふ

現代語訳:川の瀬の流れが速いので、岩に堰き止められる滝川の水が2つに分かれる。その水が再び1つの流れになるように、今あなたと別れても、きっと最後には再び会おうと思う

 健屋さんのマシュマロ雑談配信(配信日:2023年6月20日)にて、「どんな職業にでも就けるとしたら何になりたい?」という話題になった際、「もし健屋さんが古典の教師だったら」な流れに。リスナーさんから「瀬を早み」というフレーズのみ与えられた健屋さんは、これをしっかり拾い、歌の続きを諳んじました。

 崇徳院すなわち崇徳天皇は鳥羽天皇の第一皇子で、平安時代末期の人物です。1156(保元元)年の京都にて、上皇になった崇徳院と当時の天皇であった後白河天皇による皇位継承争いと、「悪左府」の藤原頼長(よりなが)と、百人一首における「法性寺入道前関白太政大臣」こと藤原忠通(ただみち)による摂関家の争いから戦乱が勃発。これが「保元の乱」です。崇徳上皇・藤原頼長側は源為義(みなもとのためよし)・平忠正(たいらのただまさ)らの武士団を、後白河天皇・藤原忠通側は源義朝(みなもとのよしとも、源頼朝の父)・平清盛らの武士団をぶつけます。戦いの結果は後白河法皇側の勝利。頼長は戦傷がもとで死去し、崇徳院は隠岐に配流されてしまいます。結局、崇徳院は二度と京の土を踏むことはなく、1164年に崩御します。
 崇徳院も怨霊伝説が残っており、菅原道真平将門と共に日本三大怨霊とされることも。また、崇徳院の怨霊は、江戸時代に活躍した上田秋成の『雨月物語』や、次に紹介する曲亭馬琴が書いた『椿説弓張月にも登場しています。


滝沢 馬琴/曲亭 馬琴

 滝沢 馬琴(たきざわ ばきん)、あるいは曲亭 馬琴(1767(明和4年) – 1848(嘉永元年))は、江戸時代後期の江戸に生きた小説家で、本名は。代表作は『椿説弓張月(ちんせつゆみはりづき)』や後述する『南総里見八犬伝(なんそうさとみはっけんでん)』。若い頃からを志し、戯作者の山東 京伝(さんとう きょうでん)(※1)に弟子入りをしていました。作者としてはすぐに成功したというわけではありませんでしたが、執筆活動や現地取材といった長年の努力が実り、大作家としてその名を史に刻むことになります。芥川 龍之介は1917(大正6)年に馬琴主人公とした歴史小説戯作三昧(げさくざんまい)』を発表しています。

『南総里見八犬伝』

いと明かりける月の光りに、さしかざしつつまた見れば、玉の中に一丁の文字あり。まさにこれ「孝」の字なり。

曲亭馬琴 原著、石川 博 編(2007)『ビギナーズ・クラシックス南総里見八犬伝』(角川学芸出版)p.30 


 本作は1814(文化11)年から1842(天保13)年という28年間の歳月をかけて刊行された長編小説で、全106冊の超大作。それぞれ仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌の珠を持った8人の武士「八犬士」が活躍し、千葉県の房総半島(チーバくんでいう足のほう)を治めた戦国大名・里見氏を救う勧善懲悪の物語です。


【マイクラ】二礼二拍手一礼!にじ鯖初詣!【健屋花那/にじさんじ】 

配信日:2021年1月7日


 Minecraftの「にじ鯖」にある神社に向かい、初詣をする配信。その際に心の臓が飛び出るほどの大事件が起きるのですが、それはまた別の物語。機会があればいつかまた、別の時に話すことにしましょう。

13:55あたりから話題は『南総里見八犬伝』に。健屋さん曰く「『オタク』の元祖」。が可愛くて、の屋根の上でと戦うシーンが印象に残っているとのこと。ここは名シーンで、浮世絵師のも絵に描いています。
 これは全く関係のない個人的な余談ですが、健屋さんの口から『八犬伝』と聞くと、凜々しい八犬士のイメージと共に「すこポメ」が浮かびます。


曲亭馬琴:脚注

(※1)山東京伝(1761~1816)
江戸後期の戯作者・浮世絵師。売れっ子の作者でしたが、老中松平定信(まつだいら さだのぶ)が行なった寛政の改革での出版統制によって洒落本が軒並み潰滅させられた際、彼の洒落本も発禁に。
 その後も、曲亭馬琴と双璧をなす作家として一時代を彩りました。
 ユーモアセンスが抜群で、例えばよく一昔前の漫画のカラスは「アホー、アホー」と鳴くものですが、山東京伝の『繁千話』という洒落本でも「アホウ、アホウ」と、「馬骨」という名前の登場人物を罵っています。代表作は洒落本の『仕懸文庫(しかけぶんこ)』など。
 余談ですが、「割り勘」を考えた人物として紹介されることもあるようですね。

杉田 玄白

 杉田玄白(すぎた げんぱく、1733-1817)も、江戸時代を代表する医師のひとりであり、言わずと知れた蘭学者です。彼の作ったものといえば、回顧録『蘭学事始』と、この翻訳書ではないでしょうか。

国立科学博物館の展示。Wikipediaより。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89%E7%94%B0%E7%8E%84%E7%99%BD#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:First_Japanese_treatise_on_Western_anatomy.jpg


解体新書

 2024年3月現在、リスナーからにじさんじライバーさんへ、現物のプレゼントを行うことはできません(ファンレターは可)。しかし、かつて、まだプレゼントが許されていた時代がありました。その際に、健屋さんに贈られたもののひとつが、杉田玄白の『解体新書』でした。「文学」かどうかに疑問符を投げかける方も多そうではありますが、「本」つながりでここに挙げていきます。

 『解体新書』は、ドイツの医師ヨハン・アーダム・クルムス(Johann Adam Kulmus、1689-1745)が『Anatomische Tabellen(アナトミッシェ・タベレン=『解剖学の図表』の意)』のオランダ語訳本『Ontleedkundige Tafelen(オントレートクンディヘ・ターフェレン)』を杉田玄白前野良沢らが日本語訳した本です。発行は1774年。このオランダ語訳本が日本では「ターヘル・アナトミア」と呼ばれているわけですが、この呼び方は昔の人が外国語を頑張ってカタカナに直した努力の跡であるので、ドイツ人やオランダ人に『ターヘル・アナトミア』と言っても伝わらないのですね。
 3年半の歳月をかけて完成した本書は、ヨーロッパの言葉で書かれた本を本格的に訳した本としては日本初のものであり、「『日本の医学界』と『日本の翻訳界』の足跡」というべき結晶であるといえます。

【医療従事者が】乙女解剖歌ってみた【健屋花那/にじさんじ】 

 そうそう、健屋さんが歌った「乙女解剖」のMVの中に、『解体新書』の扉絵が表紙になっている本が登場しています。どこに登場するか探してみてください。


おわりに

 ここまで、江戸時代以前の日本古典文学健屋さんの活動を振り返って参りました。色々な方面へ脱線した話もしてみましたが、結局は「百人一首」『南総里見八犬伝』『解体新書』の3点のみしか取り上げることができませんでした。ただ、健屋さんが百人一首に詳しいこともあって、百人一首からは複数の歌を紹介できました。
 もし、健屋さんと古典文学に関するあれこれを見つけたら、情報提供願います!この投稿、あるいは別の投稿に反映させて参ります……!

 さて、古典というと、「教育現場で教える必要がない」という不要論が叫ばれることも多い分野です。しかし、別の記事でも書かせて頂いた通り、古典に親しむことは、自分のいる国を生きた人びとの『息づかい』を感じるいとなみであると思います。原題と異なる時代を生き、異なる文化・社会のもとに身を置き、異なる価値観を持つ古人たちのテクストに触れる。「古人が生きた足跡」を学び、知識を噛み砕き、自分のものにすることは、自分の世界観を自らの中に作っていくひとつの柱となるのではないでしょうか。
 次回は海外文学をピックアップし、健屋さんの活動を振り返っていこうと思います。それでは、皆さんも素敵な古典ライフを。






この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?