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未熟な夏

 僕は急な坂道を歩いていた。
 頭の上には真夏の太陽があって、蝉がぐわんぐわんと鳴いていて、僕はアスファルトにぽたぽたと落ちる自分の汗を見ながら歩いていた。
 坂の上から何かが転がってきた。下を向いて歩いていた僕は、すぐにそれに気がついて、腰を屈めて手に取った。
 いちじくだった。紫と赤茶が混ざったような色の丸々とした実。僕の指先が、表面のハリと柔らかく熟した内部を敏感に感じ取った。
「それ、食べていいよ」
 声に驚いて顔を上げると、白いワンピースを着た女性が坂の上に立っていた。
「ウチの庭の木だから」
 彼女が右手で指した場所には、古い家があった。僕が手にしている実と同じものが、庭先の数本の木になっていた。

 僕は女性に近づいて、
「食べず嫌いなんです」
 手に持っていたいちじくを彼女に渡した。
「なぜ? 美味しいのに」
 女性は首を傾げて微笑み、そのいちじくの実を手で半分に割って、断面を僕に見せた。
「エロティックだと思わない? あ、もしかしてエロいから食べられないの?」
 声の半分が笑っている。
 からかわれていると分かって、僕はちょっとムッとしたけれど、
「いえ、なんだか、見た目が気持ち悪くて」
 と、正直に答えた。
「気持ち悪い?」
 白いワンピースの女性は、僕の言葉を繰り返してから、手にしているいちじくを見た。
「へぇ、気持ち悪いんだ。中身は綺麗なピンクなのに……。で、きみは高校生?」

「はい。高三です」
 女性は、半分に割ったいちじくを口の中に入れた。果汁が唇の端から垂れた。それを指先で拭い、僕を見ながら指を舐めた。
 僕は、急いで目を逸らした。太陽が眩しい。
「ねぇ、こんな暑い日に、どこに行くの?」
「川です。この山の中の」
 坂の向こうにある山を指差すと、彼女は少し考える仕草をして、
「じゃ、私も行く」
 と、坂を上り始めた。
 僕は、初めて会った人の言動に戸惑いながらも、ノースリーブの白いワンピースの背中を見ながら歩き始めた。
 道は舗装されていない山道となり、その山道を少し歩くと、水の音が聞こえた。

 白いワンピースの女性は、ナナと名乗った。
 ナナさんは、川に着くと、サンダルを脱いで足を水につけた。
 僕も同じようにした。川の水は冷たく、思わず身震いした。蝉の声が、ここでも聞こえる。
「高校を卒業したら、どうするの?」
「東京の大学に行く予定です」
「この街を出るんだね。うん、一度は、この狭い街から出た方がいいよね」
 ナナさんは、自分も東京で働き結婚をしたこと、そして、旦那さんと喧嘩して(理由は言わなかった)実家に帰ってきたところだと、川を見つめながら話してくれた。
「このまま、ずっと実家にいるかも」
 そう言って、川につけている足を動かしてバシャバシャと水を撥ねた。その足の爪は赤く塗られていて、小さな赤い魚に見えた。赤い魚は流れに逆らって泳いでいきそうだった。 

「夏休み中は、塾が終わった後、いつもこの川に来て、ぼんやりと座っているんです。涼しいし」
 僕はナナさんに言った。
 だからか、午後三時頃、いちじくの木のある家の前を通ると、ナナさんはそこに立っていた。いちじくを食べながら、いつも立っていた。そして僕と一緒に山の中の川に向かった。
 三度目に会ったとき、僕もいちじくを口に入れた。
「想像よりずっと甘い。食感が不思議だけど」
 そう言うと、ナナさんは笑った。
「ね、試してみるっていいでしょ。人生は初体験の積み重ねよ」
 僕はうなずいた。
「それからね、女も果物だと思ってね。雑に扱うとすぐに傷つく。食べると想像より甘い。食べずに放って置かれると腐る。覚えておいてね」
 僕は少し考えてまたうなずいた。
「素直ね」
 ナナさんはふんと笑った。

 夏休みの塾通い、その後にナナさんと会うことが習慣となっていった。僕たちは、いつも川の水に足先をつけて話をした。
「ねぇ、好きな子はいるの?」
「今は、いません。受験生だし」
「受験生だろうとなんだろうと、恋するときはするでしょう」
「しないように、気をつけてます」
 ナナさんは僕の目をじっと見た。
 川の水が流れる音が大きくなった。
 ナナさんは僕の首に手を回すと、僕の唇に自分の唇を押しつけてきた。
 数秒後、ナナさんが唇を離す。そして、僕の目の中の反応を確認するように見ると、また唇を押しつけてきて、今度は舌を入れてきた。
 川の水の音、蝉の鳴き声、全てが消えた。
 僕の神経の全てが、自分の口に集中した。生温かくて柔らかい生き物が口の中で動く。徹夜で勉強した朝のように頭がぼおっとして、身体の力が抜けた。
 いちじくの味が口の中で広がった。ナナさんの身体からもいちじくの匂いがした。僕の血に、いちじくが混ざって、どくどくと音を立てて全身を駆け巡った。僕は、ナナさんの身体に腕を回すことすら出来なかった。
 ナナさんが唇を離す。僕は酸欠の魚みたいに口をぱくぱくしそうで、全身に力を入れて我慢した。
「じゃ、帰ろう」
 ナナさんはいつものようにさっさと山道を歩き、後ろの僕を振り返ることさえしなかった。
 僕は眠れない夜を過ごすようになった。受験勉強のために机に向かっても、参考書の隅にナナさんを見つけた。

 もうすぐ夏休みが終わるという日。
 僕はいつものように、川に向かった。いつものように、ナナさんは坂の途中のいちじくの木の前で立っているだろうと思っていた。
 ナナさんの家の前には、黒いジープが停まっていた。東京ナンバーの車だった。
 家のドアが開いて、背の高い男とナナさんが出てきた。ナナさんは、男の顔を見て何かを一生懸命に話している。僕と話すときよりも、身振り手振りが大袈裟だ。
 僕には気づかない。坂道の途中に立っている僕には気づかない。
 二人は車に乗った。エンジンがかかる。ナナさんは、東京に帰るんだ。僕は一瞬で悟った。
 ナナさんは、僕に気づきすらしない。運転席に顔を向けて、男の横顔を見ながら喋っている。

 二人を乗せた車が、僕の前を通り過ぎる。
 僕はうつむいた。
 エンジン音が遠ざかり、聞こえなくなり、蝉の声がぐわんぐわんと僕にまとわりつく。
 うつむいていた僕の目に、アスファルトの上の潰れたいちじくが入る。あの車に潰されたのだろう。熱いアスファルトの上で無残に潰れたいちじくは、もう甘い顔をしていない。
 僕は、真夏の太陽の下で、いつまでも潰れたいちじくを見つめていた。


 
⭐︎過去作品を加筆訂正しました。2612文字

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