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橋本治の初期雑文を読む4

『問題発言2』より「理性の時代に--解説·有吉佐和子『母子変容』」 有吉佐和子の小説『母子変容』が週刊読売誌上に連載されていた昭和四十八年は、有吉佐和子にとって実に重要な年だった。前年に『恍惚の人』、翌年に『複合汚染』を書いた"社会派"有吉佐和子が、実におもしろい小説を三本も並行させて書いていた年なのだ。問題意識の狭間に"おもしろい"ものがあるということは、実に重要なことで、この辺りが才女·有吉佐和子の大きさと言えよう。 "社会性"に挟まれて昭和四十八年のエンターテインメント

    • 橋本治の初期雑文を読む3

      『問題発言』より「サブカルチャーの不思議」 日本には社会学用語の"サブカルチャー=下位文化"に当たるようなものは江戸時代の"町人文化"にしかない。士農工商という身分制度の"下位"である"町人"によって成立させられていたのが"町人文化"なのであるから、正しい意味での"日本のサブカルチャー"なぞいうものはここにしかない。 現在だか現代の日本の"サブカルチャー"なるものは、明治以後のすべての日本文化の例にもれない、外国渡来文化の日本化--即ち、アメリカ製の"サブカルチャー"であるヒ

      • 橋本治の初期雑文を読む2

        『極楽迄ハ何哩』より「親爺の女」 僕は、伊東深水を"知っている"ばかりでなく、伊東深水をかなりに"好きだ"。 伊東深水は、画壇の"川口松太郎"だろう。どうしてかというと、川口松太郎は"小説家の川口松太郎"ではなく、"新派の川口松太郎"だからである。川口松太郎の功績は、残るのだとすれば、『愛染かつら』を書いたことではなく、昭和の新派を完成させたということで残るであろう。新派は"現代劇"だった。今後商業演劇から"現代劇"が消え去らなければ残るということである。 現在残っている"大

        • 橋本治の初期雑文を読む1

          とりわけおもしろいと思うものをいくつかピックアップ まずは『よくない文章ドク本』より 「顔の長い文学史」 戦前の江戸前の日本文化は顔が長いことを正統とした。 九代目団十郎、五代目菊五郎、十五代目羽左衛門、初代吉右衛門などなど。六代目菊五郎は丸顔だった。正統から外れた顔を持ったがゆえに自分の顔にあった様式を持たなければならなかった。それが彼のリアリズムだった。 顔の長い歌舞伎役者は、ひたすら修行をすれば、正統の歌舞伎役者になれる。顔の長くない歌舞伎役者は、オーソドックスな修行を

        橋本治の初期雑文を読む4

          橋本治と宗達、光琳

          橋本治は『ひらがな日本美術史』において、俵屋宗達のことを次のように言う。 「俵屋宗達は天才で、日本美術というものは、俵屋宗達を最高の画家とするような形で存在している」 その理由は、宗達の絵が「笑っている」から。だからこそ最高なのだと。 天才というものは、いくらクソ真面目に仕事をしたって、どっかで遊んでいたり笑ったりする余裕があるものだろう、と言う。 以下、橋本治による宗達の分析を続ける。 俵屋宗達の不思議は、「自分の描き方」を持っていながら、平気で「他人の描き方」をするところ

          橋本治と宗達、光琳

          橋本治『風雅の虎の巻』「風の音を知れ」を読む

          『風雅の虎の巻』は1988年9月に刊行された。 「花の名前は知らねども」「鳥のように」「風の音を知れ」「月見れば千々に心は乱れても」の4部構成となっている。今回はこの中の「風の音を知れ」を読む。 橋本治はここで、「人間のすることすべては最終的には娯楽(エンターテインメント)である」と言っている。なぜなら、どんなことでも、出来るまでは悪戦苦闘のつらい日々で、出来るようになったら後は楽、それをすることが楽しくなって遊んでいられるようになるから。 橋本治は"自分"というのは三人いる

          橋本治『風雅の虎の巻』「風の音を知れ」を読む

          橋本治とミュージカル4

          秦豊吉は昭和8年、宝塚入社以前に、小林一三に以下のような内容の手紙を送っている。 ·パリのレビュウは種ギレの感がある。踊りよりも歌に転じてきている。 ·レビュウに代わるものとして「オペレット」が圧倒的人気 ·ロンドンでは伝統的なヴァラエティが健在 ·将来日本の大衆に最も歓迎される芝居は、歌と舞踊とを多く含んでいるものであると確信している。今日ではそれは「オペレット」であり、映画に対抗し得る唯一である。 ·宝塚はこれまでのレビュウはそのまま継続的にやるとして、別種のオペレットに

          橋本治とミュージカル4

          橋本治とミュージカル3

          橋本治にとっての「"日本の"ミュージカル」の"終わり"ははっきりしている。昭和35年12月から5回ほど続いた東宝ミュージカル『雲の上団五郎一座』である。なぜこれが"終わり"なのかというと、これ以降、日本のミュージカルは、"本格"ミュージカルの方向に進み、昭和38年の『マイ・フェア・レディ』上演によってその方向が決定的なものとなったからである。 『雲の上団五郎一座』は菊田一夫作並び演出、エノケン、益田キートン、三木のり平、八波むと志、越路吹雪などが出演した爆笑哄笑公演である。俗

          橋本治とミュージカル3

          橋本治とミュージカル2

          橋本治の脚本で最初に上演されたものは、『月食』である。演出は宮本亜門。1994年1月に東京、3月に神戸で公演された。 この脚本執筆の経緯は、宮本亜門から橋本治へ、会いたいという話があったことによるらしい。それまで橋本治は宮本亜門の芝居は観たことがなかったようで、話があってから、出演していた『変身』を観に行ったそうな(週刊文春のインタビューでは『メアリー·スチュアート』の再演は観ているという記述あり)。 会って話をしてみると、宮本亜門が高校生の時にミュージカルやりたい、と思った

          橋本治とミュージカル2

          橋本治とミュージカル 1

          橋本治は『根性』収録「渋谷の歩行者天国'86」のなかで次のようなことを言っている。 "チャンバラ映画の本の中に、実は"日本のミュージカルの歴史"っていうのをキチンと入れないとマキノさんの位置っていうのは浮かび上がって来ないようなもんで、まだそこまではやれてない。" そう書いて、その後も日本のミュージカルの歴史についてはしっかりとは書かれていない。以前こちらのnoteでも触れた『川田晴久と美空ひばり』に寄稿した「日本式ザッツエンターテインメント」が最もしっかり書かれたものかもし

          橋本治とミュージカル 1

          橋本治とマキノ雅弘

          橋本治はかつて、(おそらく)一度だけマキノ雅弘(雅裕)と仕事をしている。時は1986年。 きっかけは、本木昭子に『完本チャンバラ時代劇講座』を送ったこと。本木昭子とは、モデルの山口小夜子のマネージャーでいろいろなイベントの企画やプロデュースなどもしていた方。橋本治とは、1984年に柏ローズタウン開店五周年記念に、橋本治の手編みニットファッションショーをやっていた。 1986年1月、本木昭子は、渋谷に新しくできる東急のファッションビルの開店イベントの準備をしていた。そこへチャン

          橋本治とマキノ雅弘

          精読『完本チャンバラ時代劇講座』終講

          全盛期の東映チャンバラ映画は"みんなおんなじ"だったが、それは、どんなものでも手を変え品を変えて結局みんなおんなじものにしてしまうという、非常に手のこんだ"みんなおんなじ"だった。 その一端を担っていたのが沢島忠監督である。この人の魅力を一言で言えば、みんなが走ることである。色んな人間の集団が、色んな方向から大クライマックスへ向けて走るのである。 色んなものが喚声を上げて走ってくる。その走ってくる為に、色んなものがキチンと"色んなもの"として描き分けられている。一緒くたにする

          精読『完本チャンバラ時代劇講座』終講

          精読『完本チャンバラ時代劇講座』第四講その八

          『大菩薩峠』が都新聞紙上に連載を開始したのは大正二年九月。そして大正二年は、"大衆小説"の誕生年と言われる年でもある。この大衆小説の誕生は『大菩薩峠』の連載開始とは直接の関係はない。"大衆小説"は講談との関係から浮かび上がってきたものなのである。 明治時代に全盛期を迎えていた講談には話したことを記録する速記があり、その速記本が大衆の読み物として広まっていた。速記術は舶来の技術ということもあってか、速記者という存在は講談師の存在より重要で、重要であればこそ威張っていたのである。

          精読『完本チャンバラ時代劇講座』第四講その八

          精読『完本チャンバラ時代劇講座』第四講その七

          内田吐夢は『宮本武蔵』以前、昭和三十二年に『大菩薩峠』三部作の第一作を撮っている。この第一作ではまだ一滴も血が流れない(殺しのシーンはあるものの)。しかし翌年の第二部では平然と血を飛ばしている。例の『用心棒』の三年前の作品である。それが必要ならそれは登場する、それが内田吐夢であるから、それまで血はなくとも、ここから血がいるとなれば平然と血を流すのである。 内田吐夢という人の頭の中には"矛盾"というような考え方がなかったのであろう、と橋本治は言う。だから平気で"なんでもアリ"な

          精読『完本チャンバラ時代劇講座』第四講その七

          精読『完本チャンバラ時代劇講座』第四講その六

          内田吐夢は、東映の誇る"巨匠"である。多くの日本映画の"巨匠"達と同じように現代劇と時代劇の両方を撮っているが、この人ほど現代劇と時代劇で徹底的違いを見せた人はいないと橋本治は言う。現代劇では、"社会派の巨匠"達がやるようなリアリズムをもって撮影するのに対して、時代劇では平気で陳腐な絵空事を出すのである。その例として橋本治は昭和三十六年から一年一作のペースで作られた『宮本武蔵』全五部作の三作目『宮本武蔵·二刀流開眼』のシーンを挙げる。 剣の道を志し、京にやって来て名門中の名門

          精読『完本チャンバラ時代劇講座』第四講その六

          精読『完本チャンバラ時代劇講座』第四講その五

          大正元年に日活が小さな個人商店の合同によって生まれたのと同じことが、昭和十七年にもう一遍繰り返される。 日活·新興キネマ·大都映画の三社が大映として生まれ変わるのである。この大映がチャンバラ映画関係の総結集という形で映画会社としてのスタートを切る。 昭和十七年に成立した大映の社長は、当時の国策に適した文藝春秋社長の菊池寛だったが、実質的采配は、新興キネマの撮影所長だった永田雅一だったと言われる。実際戦後になってこの人は大映の社長となるのだった。 永田雅一という人は大正十三年に

          精読『完本チャンバラ時代劇講座』第四講その五