橋本治の初期雑文を読む4

『問題発言2』より「理性の時代に--解説·有吉佐和子『母子変容』」
有吉佐和子の小説『母子変容』が週刊読売誌上に連載されていた昭和四十八年は、有吉佐和子にとって実に重要な年だった。前年に『恍惚の人』、翌年に『複合汚染』を書いた"社会派"有吉佐和子が、実におもしろい小説を三本も並行させて書いていた年なのだ。問題意識の狭間に"おもしろい"ものがあるということは、実に重要なことで、この辺りが才女·有吉佐和子の大きさと言えよう。
"社会性"に挟まれて昭和四十八年のエンターテインメントが存在するのが有吉佐和子で、文化文政の江戸時代を現在の日常と重ね合わせた『真砂屋お峰』という、一種寓話の域にまで高められた完成度の高い小説と、そして"元芸者の二人の老女による文明批評"というとてつもない視点を持った『木瓜の花』に挟まれて『母子変容』の"女"が存在するというのが、有吉佐和子の女性性なのだ。

同じく『問題発言2』より「男達がただ純情だった時代の物語」
この日本には美しい恋を模索する、その美しい行為が影をひそめてしまった。でも、日本にはそういう近代的な日常会話を立派に、しかも流暢にこなせる人間達の集団がある。しかもそれは"異常な集団"ではなくして"美しい集団"で。
それはただ一つ、女達の作る宝塚という歌劇団だ。日本の近代文学が作り上げた、肩肘張ってそしてただただ美しい情熱だけがとりえの"青年"という特殊な人間は、今や宝塚の男役にしか残されてはいない。
だから私は、加藤道夫の『なよたけ』を宝塚の舞台で見たい。あれは肉体がなくて、観念だけで「美しい恋というものがみたい!それはあるはずだ!」と叫んだ芝居なんだから、宝塚がいい。"美しい"という様式を持った近代青年というのは今ここにしかいないんだから、男は恥ずかしがらずにこういうものを見るべきなんだ。うろたえながらも"美しい自分"というものを探す、情熱の持つ美しさを。

つついても『問題発言2』より「さよなら皆様」
私は浜木綿子の歌う『さよなら皆様』という歌がとてつもなく好きです。
この世には『宝塚大全集』という十五枚組のレコードがあって、私はそれを全部聞いたのだった。日本が世界に誇る宝塚を私が好きかといえば、サァ、よく分からない。
私の場合、"好き"ということの中には"おもしろがる"という客観性がいつだって常に含まれているのだが、熱心な宝塚ファンは、おもしろがる人間を怒るというところがあるので、あんまりそういうことは言いたくない。
私ははっきり言って、宝塚の男役が好きではない。言えば怒られることを承知で言うと、ああいう男は、大昔のゲイバーにしかいなかったのであろう、というようなもんである。今や消えてなくなってしまおうとする、近代日本文学に出てくるような"男の会話"というものは、宝塚にしか残っていないのである。
宝塚には春日野八千代以前以後という区分もある筈だが、しかし那智わたる以前以後というのもあるんじゃないかという話を書こうと思ったのだが、恥ずかしいからやめる。要するに、昔の宝塚は娘役人気でもっていたのだけれども、その後宝塚は男役人気の世界に変わったという、そういう話なのである。八千草薫とか、筑紫まりとか、鳳八千代とか加茂さくらとか、そういうそうそうたる娘役の時代に浜木綿子もつながるのである。

さらに『問題発言2』より「そしてみんな引っくり返って--私とアガサ・クリスティー--」
私の"読書"というのは、筒井康隆と鶴屋南北で始まる。この二人に出合わなかったら、私は多分作家になんかなってなかったし、本なんか読んでもいなかっただろう。その頃の筒井康隆とは、たとえていえばほとんど神技に近い今川焼の名人で、片端から目にも止まらぬ早業で"既成"という名の今川焼を引っくり返して焼いていた。一方の鶴屋南北はオドロオドロしさとドタバタの絶妙なるミクスチャアで、結局私の推理小説観が"オドロオドロしい"と"引っくり返し"だけになるのは、この時の原体験が多分、尾を引いているのである。
筒井康隆と鶴屋南北の間を埋めたのが国枝史郎、江戸川乱歩である。こうして前近代のオドロオドロしさは近代理性と結びついて推理小説となり、やがて横溝正史にたどり着く。この横溝正史の見事さといったらたまらないもので、前近代と理性の葛藤をここまでうまく料理したものを、私はあまり知らない。
本格推理は、ある意味で"型物"の芝居に等しい。能や文楽や歌舞伎のように、"心理を解釈する"という形で頭から入って演じるのではなく、"型"を演じることによってそこに心理を現出させる、という、そういうものである。
だから本格に心理はいらない。もっと明確に言えば、心理を排除しなければ本格ではない、ということである。
アガサ・クリスティーにとって、推理小説を書くことは完全に"遊び"であった筈だ。これほど一切の人間心理を排除して、オドロオドロしさも排除して、それで完璧に「人が殺されている」という状態が平然無事に登場する作品群は、そうとしか理解されない。人間心理につながる一切を排除しきれた時、彼女は「さァ、始めるか」で、作品の根幹をなすトリックを組み立て始めるのである。
私は「全部ひっくり返ってしまえば、些細な人間心理なんかどうでもいいじゃないよ」ということを、アガサ・クリスティーから学習したというだけなのだ。アガサ・クリスティーとは、そういうことを孕んだ、もっとも危険な思想家の一人でもありえたのだ。そして、私は様々な"読書"の結果、一貫して引っくり返すことしか考えていないというだけの話だった。

『問題発言2』より最後に「孤島の小林少年」
『孤島の鬼』は"通俗冒険小説"のその"通俗"の二文字にはどういう"実質"があるのかをとことん突きつめて、その一歩手前まで行った小説である。"通俗"--それを平気で享受する膨大なる"大衆"という人間がどれほどのこわさを秘めているのかということを理解しなければこんな言葉にはなんの意味もない。
近代において、"通俗"とは猟奇的ということであった。まともな教養に眉をひそめられながらもついうっかり大衆が"通俗"に惹かれてしまうのは、そこに猟奇的なるものがちゃんと"裏打ち"の形で存在していたからであった。
猟奇と通俗の関係はそしてまた、"量的"なものでもある。猟奇が過剰になれば、その"通俗"は"耽美"と化す。大衆とは、知的であることに憧れながらも、決して自ら進んで知的になんかはなろうとしないものである。知性のからんだ猟奇は"耽美"で、こういうものは少数派のものだ。一般性がないし、一般性のない通俗などはありようがない。江戸川乱歩と谷崎潤一郎の差はここであろう。
猟奇の本質、それは"隠れていること"である。これこそが猟奇の真実なのだ。猟奇がその本質として"隠れている"ものであったら、隠すのがもっとも正しいあり方である。だから隠す。
『孤島の鬼』というのは、あまりにもグロテスクな世界を描こうとして「もうこうなったら隠すしかない」というところまで行った----だからしたがって猟奇はちゃんと"隠れている"という形で存在している小説、ということになるのである。
作者とは、妄想の継ぎ足しをすることによって、読者に新たなる妄想を喚起させるもので、作者の"隠す"は"見せる"である。江戸川乱歩とは、ある意味で"際限なく見せる"という通俗に拠りながら、そのことによって自動的に"隠す"ことを達成して行った"生きた文学"の見本のようなものなのである。

つづく



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