橋本治の初期雑文を読む5

橋本治は、デビューから1980年代に書いた雑文を、1989年末~1990年にかけて、『橋本治雑文集成パンセ』と題し全7冊刊行している。これまでに紹介したものから漏れたものを、パンセシリーズよりいくつかピックアップ。

『女性たちよ!』より「結婚なんかしたくない」
男の時代が終って女の時代が来たんだそうで、しかしそうなったらはっきりしてるっていうのは、その瞬間女の時代は終る宿命にあるってこと。
"女の時代"の前提にある"男の時代"というのは、支配者としての男の時代で、これが覆されて、"女の時代"になるんだったら、それは支配者である夫が死んだから、中継ぎの摂政として未亡人が立つっていう、それだけの話だ。
社会をゴミ溜めにして、自分の中の"個人"を未処理にして、そして"女"という"自然"に平気で規制されて、去勢状態を当然としている男の亡霊よ、さっさと責任を取って、その"女"という愚かな未処置物体を始末してくれ。モウロクジジイの"愛情"ほど、健全なる次代の妨げになるもんはないんだから。

おなじく『女性たちよ!』より「迷宮の中の家出少女」
僕は女がマイナー·セックスだとは全然思わない。しかし"女"という役割がマイナーな役割でしかないんだってことははっきり思う。じゃなけりゃ"男社会"なんていう言葉は登場しない。男社会というものは、女に二流の役割しか与えない社会だからだ。
男社会というのは、オジサンになった男が、家というものを自分のプライベートロッカーに変えてしまう世界だから、家の中にはゴタゴタと色んなものがあるが、家の外は理念だけでスッキリしている。という訳で、男社会の歴史というのは意外と新しい。
男社会というのは、実は近代社会の別称だ。それ以前は専制社会だから、権力者という別人格の下に、男と女は平等に支配されている。支配者が倒されて、支配者という概念を男全体で分担したから、共和制は基本的に男社会だ。理念は男のもんで、女は理念として祀り上げられたことはあっても、女として理念を生み出したことはない。理念を生み出す女は男だし、女の理念を生み出す女は女のオカマで、男をダメにする。
普通の女の子は、こんなことは分からない。全く理解しない。理解しないでいることを許されている。だからこそ、過激なまでにわがままのし放題だ。
だから理念を無効にしてしまった。
理念を無効にされた男社会の男達はただのオジサンだ。
という訳で、雑然たる家を出て来てしまった家出少女達は、家の外にあった男社会を、単なる"オジサン世界"に変えてしまった。つまり、瞬間的に"更正"が頭に浮かぶ家出少女達は、その機会を永遠に逃してしまった。

つづいても『女性たちよ!』より「みんな「男」になればいい」
トランス·セクシャルなんていう話になるんだとしたら、まず近代と前近代の違いというのを頭の中に叩き込んでおく必要があると思う。性の役割分担がはっきりしたのは近代においてのことだし、それ以前は単に、男の社会的な役割分担がはっきりしていただけで、性による分担というのはなかったと思う。
トランス·セクシャルということが近代以降の今になって問題になるということは、所詮近代自身の問題でしかない。
トランス·セクシャルと言うとき、「男が女になりたがる」というニュアンスで言われる。でも僕だったら「みんな男になれ」って言う。「男であれ」というか。
男が「女になろう」と思うのは、男が、自分の属する男という下層階級から抜け出したがっているだけである。男にはちゃんと「上層の男」っていうのもある。近代は、女という制度的位置づけを欠いたものを平気で呑み込んじゃったから、それが分かんなくなっている。

『女性たちよ!』より最後「時のすぎゆくままに」
ギャグマンガは最新流行のファッションのようなものなのかもしれないが、流行は繰り返しても、あんまりギャグマンガというものは再生しない。『つる姫じゃ~っ!』はその例外的作品である。
大体、男も女もなく、子供というものは本気で見当はずれの真実をかかえて生きているものなのだ。童心というのはそんなものだし、そういうものがないと、人間というのは大きくなってとんでもなくつまらない大人にしかならない。誰だってドジををやるし、誰だってドジを笑われるし、その中で子供というものは順調に成長して行くんだ。でも可哀想に、世の中にはあんまりそんな風に突出できない"フツーの子"というのだっている。今の時代なんかますますそうだ。今つる姫みたいな突出をしてしまったら、その子はたちまちいじめの対象になるだけだろうしね。極端も知らなければ和解のしかたも知らないということになると、これはただ陰湿な"いじめ"の世界にしかならない。
魅力的なヒーローというものは、いつだって人間離れのしているものだけれども、その人間離れの質というのは、いつだって「こうもあれたらいいなァ」という、そういう種類のものだ。時間とともに色褪せてしまうギャグマンガのヒロインつる姫がいつまでたっても魅力的であり続けるのは、彼女が「こうもあれたらいいなァ」という"自由"を体現しているからだろう。

『若者たちよ!』より「自我の統合」
私の現実検討というのは常に、"対話"である。"願望"と"現実"という二つの人格が同時に存在している。物事を考えるということはこういうことなのだから、"分裂"を否定したら物を考えられなくなる。"分裂"がうとまれるのは、その収拾がつかなくなったという結果だけをとらえてのことだが、私の場合、常にこの人格に収拾がついてしまうのは何故かというと、頭の中に出揃ったすべての人格は、結局のところ、自転車に乗って歌を歌っているという肉体の一部に収まっているようなものでしかないから、私が10kmばかり空を飛んでいる間に、頭の中に出揃った分裂人格は頭の中で盛大なる"秋期大運動会"をやって、終った後にはただ秋空に鰯雲が飛ぶばかりになるからである。収拾とは、このようにつくのである。
1980年で、人類の歴史は終ったのである。
80年代になって何かが突拍子もなくおかしくなって、それがどうおかしいのか皆目見当がつかないということになれば心当りというものはあるだろうが、詩的な表現をすれば"81年になって歴史というものは決潰した"からである。"これまでの歴史はもう役に立たない。これからの歴史は個々人が作って行かなければならない"というように、状況が個人を解き放ったのである。世の中も狂って、個々人も狂って、その狂い方がどれ一つとして同じではない---従って"あれは狂気である"と指示する指標がなくなったのが81年なのである。だから、個人の狂気と状況の狂気を見本にキチンとシンクロさせれば正気になるというのが、80年代のノウハウなのである。
人生にはやり直しというものがきかないのだという考えもあるが、実にこれは1980年以前の、歴史が閉じていた段階での"真理"であって、これがひっくり返ってしまったところから1981年は始まったのである。
人生はやり直しがきくのである。という訳で、私のこの三十年間は全部、自分が人生をはじめる為の"予行演習"だったのである。だから、この三十年間は、私があらかじめ見てしまった既視感なのである。
私はこの三十年をなくしてしまったのである。あったって構わないが、あるとその期間のことをアレコレ考えると、もうホントに、腹が立って腹が立ってどうしようもなくなるから、ない方がいいことにしてしまったのである。ホントにゴミの始末をキチンとつけるという、そのノウハウが確立されないと、人間はロクな大人になれないのではないかと思う。

つづく


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