橋本治の初期雑文を読む6

『文學たちよ!』より「遁走詞章」
久生十蘭は、知識を"メロディー"して把握してしまう人である。
歌を覚える人間は、まずメロディーを覚える。メロディーがあれば、そこに言葉はいくらでものっかるし、メロディーぐるみで記憶された歌詞は、今度は逆に、メロディーを作る。歌詞は容易に"替え歌"を生むし、メロディーは容易にハーモニーを生む。そして人は、歌詞の細部を、その時その時の気まぐれによって、覚えまちがえる。
久生十蘭が特殊な文体を持っている、あるいは、文体から離れられないぐらい特殊に文体にこだわっているのは、そういう久生十蘭内部の構造によるものと思う。
一人であればこそ歌うのだ。歌あればこそ広がるのだ。久生十蘭の文体の持つスピードの異質は、それ自体が"歌"であるからこそだと思う。ある意味で久生十蘭は、近代国語による浄瑠璃作家なのだ。だから、リズムから離れない。そして、私は久生十蘭そっくりの質を持つ作家を、彼以前に一人だけ知っている。
そのスピード、その博識、その冷静、そしてその容赦ない激しさ。近松門左衛門である。

おなじく『文學たちよ!』より「講談とはなにか」
講談はかつて"物語"の王者だった。
まず第一に、文章にリズムがある。あって当たり前、これは口から出てきて語られる言葉だからである。早い話、講談速記録ほどにリズムを持った文章というものはなかったのである。あったかもしれないが、トントンと、情報を叩き込んでしまうような文体は、講談以外になかったのである。
心理がないのが近世で、心理が出てくるのが近代だが、講談だとて近代の産物だから心理はある。心理が野放しにされた結果孤独に陥るのが近代から現代へと至る袋小路だが、講談における心理とは、道理という"世間"の中で作用するもの。心理と道理の葛藤を克服すると立派な人になれるという、ほとんど普遍の心理のようなものを、物を知らない人間にわかりいいように語っていく大衆文化が講談であった。
リズムに乗せられると、なんとなくわかった気になって、ちゃんと知らなかったエピソードをいつの間にか知っている。すなわち勉強になっている。講談はその昔"教養"なるものを身につけさせてくれるメディアだったのである。

『映画たちよ!』より「ビデオの話」
ビデオで映画見てさ、「あ、この映画昔淀川さんどう言ってたかな」とかさ、そういうのって知りたい時があるじゃない?そういう本てどうして作らないのかな?別に淀川さんだけじゃなくたっていいんだけどさ、何人かの映画評論家の集成でもいいんだけど、昔の映画だったら、やっぱりその時のシュンの声っていうのが知りたい時ってあるんだ。今の時点での解説がほとんど今風という色で貫かれちゃってる時にね、その時代の持っていた固有色によって点検する作業だってあったっていいと思うんだけどね。

次も『映画たちよ!』より「双葉十三郎さんのぼくの採点表」
今の評価なんていうものは、今という時代に生きてさえいれば、誰だって出来る。でもその"今"という時代の基準は、その"今"に至る一連の時代の流れの中で生まれているものだから、"当時"という必然性を抜きにしたら、評価ということ自体が無意味になってしまうんだ。映画のような大衆娯楽では特に。
映画の類型であるステロタイプを押さえて、その上で"典型"という頂点があって、映画の名作主義というのは、その頂点ばっかりを集めたもので、なんの役にも立ちゃしない。辞書として必要なのは、"類型"という名の全貌なんだ。この本は、すべての映画を一遍"類型"というその他大勢に還元してしまった。それあればこそ、この本は正しく辞書になっている。必携ですね。

『その他たちよ!』より「『バットマン』」
実は、映画の『バットマン』は、それ自体がマンガなのである。だからこそ、マンガ本の『バットマン』はマンガ化ではなく、そのダイジェスト版の別バージョンなのである。
よく考えたらはっきり分かったが、日本人のマンガに該当するものは、アメリカ人にとっての映画なのである。
『バットマン』はそのことを徹底させている映画だったのだ。映画の『スーパーマン』がつまんなかった理由がやっと分かった。『スーパーマン』は、マンガを映画にしようとして、ニューヨークにロケなんかしたからいけないんだ。『ウィズ』だってそうだな。
「映画はマンガなんだから、ちゃんとマンガにしよう」ってところで、『バットマン』はとってもエラかったなと思う。

同じく『その他たちよ!』より「私は"ビデオマニア"に走ってしまったのだった」
私は大体マニア少年で、60年代に封切られた映画のことごとくすべてを(見てもいないのに)内容からスタッフ·キャストまで全部諳じていた時期もあったのだ。
『ベンハー』買って『十戒』買って『北京の55日』買って、『クレオパトラ』買って、『スーパーマン』全部買って、『007』全部買って、しかしなおかつ私は『スター・ウォーズ』と『2001年』を買わないというのは何故なのかというと、"マニアの必修アイテム"だからなのだった。私はやっぱりひねくれている。ミュージカルが好きなんだけど、MGMの50年代ミュージカルは買わない。しかし私は、宮城千賀子の『唄ふ狸御殿』とか市川雷蔵·若尾文子の『初春狸御殿』『花くらべ狸道中』などという誰も知らないミュージカルは狂喜して買うのだ。あと、京マチ子が好きなので『赤線地帯』と『女系家族』。

つづいても『その他たちよ!』より「言訳、それは愛(嘘だよ)」
正義は冗談が分からないから困る、これから先、失敗をどれくらい許せるかですべては決って来るような気もする。
私は今や、一人で自分の言訳をして、「あ、うまい!」とか言って一人で喜んでいたりはするのである。困ったもんだが、しかしこういうシミュレーションを通じて、人は頭がよくなって行くのである。
鉄壁の言訳なんかを案出しちゃった時、人は公然と悪に走れるのである。それが嬉しいから、それを見て人は手を叩くのである。という訳でみんな、頭がよくなる練習をすればいいのである。そうすりゃもう少し、世の中というものは自由なものに変わるであろう。

『その他たちよ!』より最後に「『嵐が丘』を今のヒースクリフとキャサリンで読ませろ!」
近代の日本語って、通りのいい書式だけになって、言葉が本来はリズムを持った、音楽に近いようなもにであるってことが、忘れられたような気がします。どの単語にどういう漢字をあてるかっていうのも視覚的なリズムの問題だし、黙読してる頭の中でいちいち言葉がリズムになって動いていくってことだってあるんだから。視覚と聴覚のX軸·Y軸両方の側から、日本語をもう一度考え直した方がいいと思う。俺は、朗読できない言葉は嫌いなの。ただ目で追ってて、書いてある主張に肯けるか肯けないかだけしか問題にしなくて、リズムなんか全くわかんないっていう人はすごくいっぱいいると思うけど、そういう"主張"って、もう時代遅れだと思う。





                                                                               

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