橋本治の後期雑文を読む4

引き続き『中央公論』の連載
2010年12月号より「日本人の「間」がおかしい」
韓国人の動きはキレがいい。今年の初めにソウルへ行ってパフォーマンスショーを見て改めて思った。日本人の動きは、もっとキレが悪い。動きと動きの間に「余分なもの」が入っている。
1960年代くらいから、日本人の動きのキレは、そんなによくない。「本場(つまりアメリカ)のようなミュージカルをやりたい」と言って精進をして、でも結果はあまり面白くない。日本人の動きは、ある程度「雑味」があった方が面白いのだと思う。
日本人の動きのベースには、江戸時代の三味線音楽があったと思う。そして三味線の音に合わせて行進をすることは出来ない。日本本土の三味線は、歩くことに対して、テンポもリズムも与えてくれない。だから日本舞踊では、三味線の音に合わせて動くのではなく、三味線の音を掻いくぐるように、自分でテンポを決定しながら動く。それが日本人の動きの「間」で、そこに各人の「余分なもの」が入り込むのは当然だ。
日本ではいささか下手な----雑味を残したあまりキレのない動きをする方が大衆的な人気を得る。そして、「自分も踊りたい」と思う大衆の方は、ひたすらにキレのある動きを目指す。「ワン、ツー、スリー!」でカウントの出来る動きで、揃っていることを第一にする。
真面目なシロートはひたすらレッスンに精進して雑味を消す。でも、人気を集めるプロ集団は、雑味だらけのシロートでもある。雑味を表現に変えてしまうのが日本人の「間」というものだったはずだが、なんだかおかしい。先行き不安だ。

2011年2月号より「伝統的な揉め事の収め方」
先月は私事で失礼いたしました。先先月号の原稿を書き上げて、そのまま入院をしてしまいました。
することもなく病室のテレビを見ておりますと、成田屋の若旦那の事件であります。西麻布の会員制の店で、顔を殴られて大怪我をしたという。次の日からテレビは海老蔵ニュースのオンパレード。なんかへんだなと私は思いました。
昔の話ならいざ知らず、歌舞伎役者のスキャンダルなんてそうそう大騒ぎにはならない。歌舞伎役者はマイナージャンルのスターだ。歌舞伎を見たことがない人間なんかいくらでもいる。
歌舞伎役者のスキャンダルがそうそう表沙汰にならないのは、松竹という興行会社がこれを抑えてしまうからだ。歌舞伎を見ない世間はともかく、松竹にとってなによりも大切なのは歌舞伎だから、揉め事の火種は消してしまう。だから私は、「会社はなにやってるんだろう?」と思った。
松竹という興行会社は江戸幕府みたいなあり方をして、松竹将軍家の下に大名小名の歌舞伎役者が顔を並べている。全体の管轄をするのは松竹だから、松竹の権限は絶対である。だからこそ「歌舞伎のあり方を歪めたのは松竹だ」と言う人もいる。しかし松竹将軍家に今やそれだけの力があるのだろうか?事態収拾に松竹がなかなか乗り出して来ないから、私なんかは「歌舞伎座がなくなると松竹もやる気をなくしちゃうのかな」なんてことを思ったが、でもやっぱりやってくれました。
金屏風のまえで社長が「無期限謹慎」を言いわたす。本当に歌舞伎みたいでよかったな。その記者会見の様子を見て、「芝居がかっている」とか「嘘臭い」と言う人もいるが、はっきり言って、そう思う人は黙っているべきだ。あの会見は「無期限謹慎」という処分を受けた歌舞伎役者のもので、真実を探るものじゃない。鑑賞するものだ。
金屏風のまえに海老蔵が座っているのを見て、私は『仮名手本忠臣蔵』四段目の判官切腹を思った。神妙で伏目がちで、一時間以上もあの海老蔵がそうした態度を崩さずにいることに感心した。
事の筋目を正すために、塩谷判官は塩谷判官になっていてほしい。海老蔵の芝居はラフで野性的で生煮えのところがある。荒事だけやってりゃいいという訳ではない。しかし、金屏風の前に出て来た海老蔵は、無期限謹慎ショックで内省的になる能力を身につけたらしい。
今回の騒ぎで一番重要なことは、市川海老蔵という才能のある役者の将来を守ることで、それ以外はない。松竹はそうやって歌舞伎を守って来た。歌舞伎役者のスキャンダルに、真実も事実もない。スキャンダルが起こったら、嘘をついてでもないことにしてしまえばいい。例の尖閣諸島の問題で、菅内閣に国家管理の能力があるかと言われたけれど、組織の力や組織の役割を無視して、個人にすべての責任を押し付けるのは愚かだと思う。国家や会社の権力は、守るべきものを守る責任と裏腹になっているべきだ。

2011年4月号より「八百長に目くじらを立てても」
去年、相撲取りの野球賭博が問題になった時、「どうせまた、この先になにかあるな」と思っていたらやっぱりで、八百長騒動の大揺れで、下手をすれば大相撲存続の危機ということになってしまった。
相撲の八百長は「心の問題」である。
「"お願い頼む"と手を合わされて、したくはないけれど情にほだされて負けてやった」という種類の八百長がないとは、言い切れない。というよりも、「すべての八百長はいけない」になると、そういう「情のある話」がなくなってしまう。「情のない大相撲」というのは、なんだか哀しいもののような気がする。
八百長相撲が「心の問題」だというのは、その勝負が賭博の対象になっていなければ、「勝ち負けをどうするか」は、当事者二人の問題にしかならないからである。「どうすれば八百長相撲がなくなるか」は、「どうすれば日本人全員がルールを守り、美しく正しい社会を維持していくことが出来るか」と同じ、難しい問題なのだ。
果して大相撲は「スポーツ」なのか?スポーツと重なる部分もあるが、スポーツなんかよりもずっと大昔から続いているものだから、「スポーツ」であることを大きくはみ出している。平安時代までは、相撲節会という宮廷行事の一つだった。江戸時代になったら、人を集める興行になった。明治になったら、いつの間にか「国技」というようになった。はっきりしているのは、大相撲が日本にいくつもある「近代的合理性で割り切れないもの」の一つで、その扱いに注意しないと、角を矯めて牛を殺すになりかねない。厄介だ。

2011年8月号より「携帯電話が変えたもの」
携帯電話がない時代にそんなに不便だったのかというとそうとも思えない。固定電話に於ける「相手がいないとつながらない」という特性は、そう悪いものとも思えない。いつも「どこからか電話がかかって来るかもしれない」と思って携帯電話の電源を入れておくのは、便利というより、微妙に精神状態によろしくないような気がする。
私が不思議に思うのは、携帯電話の電磁波よりも、携帯電話を使う人の声の大きさだ。ある種の人々は、固定電話の時よりも、携帯電話の時の方が大声を出す。
その昔、天下の公道で大声を出して歩いているのは、酔っ払いだけだった。今はそういう酔っ払いが減って、そこにはいない人間と大声で話している人間の数が増えた。ある意味で、自分丸出しである。その一方、道の傍らに坐り込んだり、立ったまま道に背を向けて、口許を手で押さえながら携帯電話を使っている「昔ながらの電話派」もいる。携帯電話の利用者は増えて、当たり前になって、でもその「当たり前性」が定着しているかどうかは、分からない。

つづく



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