橋本治の初期雑文を読む3

『問題発言』より「サブカルチャーの不思議」
日本には社会学用語の"サブカルチャー=下位文化"に当たるようなものは江戸時代の"町人文化"にしかない。士農工商という身分制度の"下位"である"町人"によって成立させられていたのが"町人文化"なのであるから、正しい意味での"日本のサブカルチャー"なぞいうものはここにしかない。
現在だか現代の日本の"サブカルチャー"なるものは、明治以後のすべての日本文化の例にもれない、外国渡来文化の日本化--即ち、アメリカ製の"サブカルチャー"であるヒッピー風俗の日本化でしかない。"向こうの写しが日本化して独特の発展を遂げたもの"が近代の日本文化で、最近現代に於ける"本物志向"というのがその"日本化"という手間暇の回避--金をもってして努力に代えるという不精の産物でしかない以上、日本の"サブカルチャー"とは"下位文化"でも"副次文化"でもなく、英語のsubcultureの意味を喪失してカタカナ表記の記号と化した"サブカルチャー文化"というようなものでしかない。
日本には"下位文化"などというものは存在しない。それは勿論、日本には""上位文化というものが存在しないからである。だから明治以降の日本のアカデミズムは、西洋に匹敵する上位文化を成立させようとしてやっきになったのである。
日本では、"文化と儀式"という二分法で、"文化"は存在していた。この"文化"とは、かつての意味では"娯楽"として存在していたものである。したがって日本にあったのは、"儀式と娯楽"と、ただそれだけだったのである。前代の富裕なる階層が"遊び"として蓄えたものが、次代においては"教養"となる、それが日本文化の蓄積発展だった。
例えば和歌である。和歌は純然たるエンターテインメント(娯楽)だった。日本で最初の勅撰和歌集は『古今集』である。勅撰とは国家による儀式化のようなものである。その百年前に漢詩の勅撰集『凌雲集』がある。その五十年前には最初の漢詩集『懐風藻』があり、ほぼ同時期に最初の和歌集『万葉集』がある。スタートラインがほぼ同じの漢詩と和歌であるが、勅撰という"儀式"には差が生じている。それは当時の支配者層が漢詩が好きだった=漢詩が和歌の"上位"にあった、ということの表れである。"儀式"としての位置を獲得する以前の和歌はサブカルチャーだったのである。"儀式"となった後は、その後の人間達が"国文学"という範疇に入れて"教養"となったのだった。
近代になって、ここに"正規"という概念が入り込む。"正規の教養"なるものが生まれ、この"教養"に合致するものが"上位"、合致しないものが"下位"という"別の文化"が生まれたのだ。"正規の文化"という考えが"別の文化"という枠を外側に生み出したのである。つまり日本の近代は文化の排除から始まったのだ。

つぎも『問題発言』より「斜陽---太宰じゃなくて」
写真週刊誌の登場は"一流出版社"に象徴される知性と教養の斜陽現象に由来する。
出版なんて、そもそもが選別と啓蒙で成り立っていた筈のものを、「選別してたら利潤が危ない」「こっちに啓蒙するもんなんかない」っていう逃避に時間を費やして、その挙句平気で迎合をしたのである。
大出版社が、自分達の存在基盤を失って、組織だけ巨大になって、機構を維持存続させて行かなければならないという種族保存の本能が、"現在"という実にとんでもない愚劣を作り出してるだけ(別に出版に限ったことではない)。
活字に対するコンプレックスだけを育てる為に、日本人てのはみんな大学に行ったのだ。それで、それをヤユするという、特権的な方法だけを、知的社会の新大衆は獲得したんだ。
そこそこ以上に豊かになって、人をおちょくる快感だけ覚えて、そのやましさに対する保証だけを求めてる---だから、人をおちょくるのは決して恥ずかしいことじゃない、立派な知的な行為だっていう錯覚を売っているんだ、ロジックと称して。一流のやってることはそういうこと。

『問題発言』よりもう1つ、あとがき「---「だってゼッッッッタイにわかってくんないんだもんッ」病患者の告白」
私の理性を支える唯一の言葉---「ま、いいんだけど」
結局そういう人間だということが分かってしまった今となっては笑うしかないのであるが、そういう人間が「ひょっとしたら俺、このまんまナシクズシ的にメジャーになっちゃうのかな?」的な状況にブチ当たってみると、「やっぱりやだ、そんなの!」と言うのである。理由はモチロンおさだまりの----だってゼーッッッッタイに僕のことなんかわかってくんないんだもんッ!である。

つづいて『問題発言2』より「人は何を娯楽とするか---最近娯楽映画考」
私にとってそれが"娯楽映画である"かどうかは、作り方のセオリーの問題である。セオリーに合致していれば娯楽映画だし、合致していなければ違う。面白い·面白くない、あるいは出来の良し悪しはその後の問題である。
私のいう娯楽映画とは、認識の徹底を前提とするものである。それあって初めて"娯楽にする"という作業は可能な筈だから、それがなければ娯楽映画は出来ない。別の言い方をすれば、娯楽映画に於ける志とは「娯楽にする!」以外ありえない、ということである。
娯楽化とは、一種の洗練作業なのであって、「よく考えればウックツなのかもしれないが、そういう詮索なんかお客さんにさせない!」というのが、娯楽映画を作る側の基本セオリーである筈である。
問題は表現の質である。別の言い方をすれば、表現に必要な量の技術をそこに導入しているかどうかということである。"余分なイデオロギーを導入しない"という、頭の技術も含めて。

つつく

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