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真夜中の白い箱

真夜中、ベッドの中。
思い出すのは、いつもそんなときだ。

わたしだけの悲しみがある、と思う。
苦しみとか、痛みとか、時々そういう類の感情を”わたしだけのもの”だと思って、抱きしめる。
苛烈な苦味を伴いながら、それでもわたしは安堵する。

いま、この瞬間
わたしの悲しみは、誰にも侵略されない。
わたしだけは、この悲しみを、「悲しみのまま」享受していい、と受け止める。



ずいぶん昔のことになるけれど、女友達から相談をされたことがある。
本当は、相談でも愚痴でもなかったのかもしれない。
居所のない感情を、彼女は吐き出してくれた。

詳細は覚えていないけれど、恋人の鞄を開けてしまったときの話だ、と言っていた。
結構正当だと思われる理由があったと話していた。なくしたものを一緒に探しているとき、だっただろうか。

恋人の鞄には、昔の恋人の思い出の品が入っていた。それを見つけてしまった。

聡明なわたしの女友達は、そういうことがあっても仕方がない、と理解していた。
女友達とその恋人は、かつて友人同士だったし、昔の恋人の存在を知っていた。
でも、見つけてしまった。
心に刺さる、小さなトゲ。
「昔の恋人の存在を知っているなら、別にいいじゃないか」とか、「傷つく必要はないのではないか」と、言ってしまうこともできる。
でもわたしは、そんなふうには言えなかった。

彼女は、「こんなのが入っていたよ」と、恋人に告げた。
きっと、心のトゲを少しでも軽くしたかったのだと思う。
女心って、こういうときに使う言葉かもしれない。わたしは、彼女の気持ちがわかるような気がする。
笑い話にしてほしかった。「もういらないよ」って捨てて欲しかった。馬鹿みたいだと笑ってくれてて構わないけど、「いまは君がいちばんだよ」なんて言われたら、気が済んだかもしれない。

「どうして鞄を勝手に開けたの?」
女友達の恋人は、悲しい顔でそう告げたと言う。

人が、何に怒ったり傷ついたりするか。当たり前だけど、ひとりずつ違う。
わたしが人生で、たったふたり”恋人”と呼んでいた男のことを思い出してみると、最初に付き合っていた男の鞄を開けたらきっと怒るし、ふたりめの男はまったく気にしないタイプだと思う。
女友達自身も、「鞄を開けられても気にしないタイプ」だったのかもしれないし、「捜し物してるときにそんなこと言う?」と思ったかもしれない。
でもそんなのはただの言い訳で、鞄を勝手に開けたことは確かに悪かった。女友達も、それは理解していた。

「そんなことがあったんだ」と苦笑いで話してくれた。

聡明な彼女は、もう理解していたのだ。
彼女は「昔の恋人との品を見つけてショック」という悲しみを抱え
恋人は「鞄を開けられてしまったことへのショック」を抱え
このふたつは、決して交わらない。
先行する悲しみは、会話を放棄させるには充分だった。
どれだけ気をつけよう、と思っていても、目の前の苦しみは脳内を占拠し、「相手の悲しみに向き合おう」とするよりも、「わたしはこんなに悲しいのに」と思ってしまう。そんな自分がいる。きっと、誰の中にも。少なからず。

並行通行、という曲を歌っていた人のことを思い出す。
線路みたいな真っ直ぐなふたつの線は、決して交わらない。と
やさしい歌をうたうその人は、「それでもいつか交わるといいね」と話してから、この曲を歌う。


並行通行の悲しみ、というのはどうしても存在してしまう。
もう、わかっている。わたしが「それは恋人のほうが悪いね」と言っても、女友達の心は晴れやかにはならない。女友達は「自分も悪いことをした」と理解している。
でもそれと、「昔の恋人の品を見つけたショック」はぜんぜん違う次元にある。

悲しみは相殺されない。
どっちも痛かったから、じゃあ「ナシにしましょう」とはならない。
どちらも痛い。

底なし沼のようなこの物語を、わたしは「そっか」と言いながら頷き、受け止めることしかできなかった。
「たいへんだったね」と言って、わたしは熱いお茶を淹れた。



ある夜わたしは、「なんでも話していいよ」と言われたので、
「こんなふうに思っている」と勇気を出して感情を吐き出した。

返ってきたのは、「そんなふうに思われていると、ショックだよ」という言葉だったので、もう仕方なく、どうしようもなくなったわたしは「そんなふうに思ってごめんなさい」と告げて、ベッドに潜り込んだ。
並行通行の痛みが、襲いかかってくる。

ショックだよ、という言葉に「ショックだよ」と返すのは、ナンセンスな気がしていた。
少なくとも、そのときもわたしは。
「目には目を、歯には歯を」というハンムラビ法典が発布されたのは紀元前の話で、現代人にはちょっと合わないんじゃないか。
「ショックだよ」という言葉で味わった痛みを、わたしは相手に与えることができなかった。もちろん、相手の「ショック」という悲しみを、否定することもできずにいる。

それじゃあ、わたしの感情はどこにいくんだろう?

「こんなふうに思ってる」ことが相手を傷つけてしまうということは理解したけれど、わたしの感情は悪なのだろうか?
生まれてきては、いけないものだったのだろうか。
ぎゅっと押しつぶして、宇宙の彼方へ放り投げなければ、いけないのだろうか。


だから夜、わたしは考える。
「この悲しみは、わたしだけのものだ」と、しっかりと抱きしめる。

そうして暗闇の中、真っ白な箱を想像する。

それは、ゲームの敵キャラの”ミミック”に似ている。
宝箱そっくりな形、姿をしていて、それを開けると、ぬめりとした舌が出てくる。
その、ぬめりとした舌のような、どろりとした黒い感情が、箱の中から溢れ出してくる。
わたしはそれを、見つめる。

それは箱から出る「舌」なのだ。

舌は箱と繋がっていて、いずれ箱に戻る。
時間が経てば、朝日が昇れば、いつか、きっと。箱に戻る。
わたしはそのことを理解している。

だから夜のうちは、遊ばせておく。
好きなだけわたしの感情を、わたしの中だけで放り出して、苦しんだり怒ったり、少しでも整理してラクになろうとしたりする。
決して、否定したりせず。
わたしだけの苦しみ、誰にも侵略されない「確かな痛み」を、わたしだけは許す。



目が覚めると、箱は静かに閉じていた。
舌はもう、どこにもない。
たぶん、箱に戻ったのだと思う。

わたしは同じ苦しみに打たれ続けることもなく、
また、生まれてきた感情を否定することなく
白いその箱を抱えながら、静かに夜を乗り越えたのだ。




【photo】 amano yasuhiro
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