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境界線

上辺を繕っている
そんな錯覚に、落ちてゆく。

最近の、自分の言葉を見返して、ふいにそう感じてしまった。
フェイクこそあっても、嘘を書くことはない。
でもなんだか、安っぽい気がする。

実際に安くなってしまったのかもしれない。
それはわたしの、気丈さやが招いた結果のような気がしている。
何があっても、それなりに自分を保ってゆける。
家の外ではきちんと笑っていられるし、毎日言葉を紡いでいる。
不穏な空気が漂えば、落下する前にベッドに潜り込む。

「しなやかさを手に入れたね」と、何年か前に母に言われた。
かつての幼さのような激情を少しずつ脱ぎ捨てて、ずいぶんと息がしやすくなったように思う。
「もう本当に何もできない」と思っても、何かしている、何かできるわたしになった。
台所に洗い物が溢れることも、部屋が埃だらけになることも、24時間以上食事を摂らないこともなくなった。
わたしは自身に対して、やさしく、人間らしくなったのかもしれない。

だいじょうぶだよ、と思えるようにも、言えるようにもなった。

「痛くないのか、痛みを感じなくなったのか」
電話口の声は、明るかった。

用事があって電話をしたついでの、近況報告の中の出来事だ。
第三者のわたしからすると「信じられない」というような出来事があったというのに、友達は気丈に話している。

「痛くないわけがない」
「気づいていないだけだ」
「だからあなたを心配している」なんて告げるだけで、わたしも精一杯だった。

他人の痛みそのものを救うことなんて、到底できない。
それは傲慢だと思う。あなたには、深く傷つく権利がある。
それでも友達として、外堀を埋めるように、労ってゆくことくらいは、電話口で許されるだろう。

「痛くならないような自分になれた。って、ちょっと思いたかった気もするんだけどね」と、友達はやっぱり笑って言った。

しなやかさのようなもの、は必要だと思う。
すべてに落ち込んでいるわけにはいかない。
おとなになって、関わる相手を自分で選べるようになって、だからこそ深く大切にしたい。
そしてそれは、心配をかけないようにすることだったり、自分を大切にすることだったりする。
わたしたちは、そういうふうに生きてる。

それでもさ、
心配くらいかけさせてくれよ。

わたしはわたしの友達の、
繊細に痛みを感じてしまったり、すぐに自分を責めてしまったりする儚さごと愛しているというのに。
あんまり寂しいことを、言わないでおくれよ。

だいじょうぶだよ、と思えることは確かに増えた。
耐えられないような痛みも、うまく中和することができるようになった気がしている。

その中でわたしはやっぱり気丈に振る舞い、「元気だよ」「悪くないよ」と思いながら、言葉を紡いでいる。

そんなふうにできるようになった自分を愛しながらも、いま少し立ち止まる。

触れずに過ごしてきてしまった、心の深いところ。
明るさと気丈さで覆い隠してしまった、その奥に眠る感情があるのではないか。
幼く、泣き喚き、許せないと唇を噛むわたしが、いるのではないか。

隠せてしまった感情も、傷も、なかったことにはならない。

深く煙草を吸い、換気扇に呑まれる紫煙を見送りながら、考えている。
わたしはいま、紡ぐべき言葉と、紡ぎたい言葉の境目を探している。



【photo】 amano yasuhiro
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