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未知への不安を蹴飛ばして

(……やっちまった)

気づいたのは、退勤間際だった。
社内チャットの「松永さんお願いします」のメッセージを、見落としていた。
昼休憩から戻ったあと、わたしはその手前のメッセージまでしか読めていなかったみたいだ。
早めに気づいたなら、今日中に終わらせられたのに…
初めての業務、期限は明日の15時まで。
仕方がない、明日に持ち越しだ。

そうしてわたしは、眠る前に思い出す。
(あした、頼まれてた仕事…はやめに、やらなきゃ…)

また、思い出す。
仕事を始めたばかりの頃のこと。

いまだって仕事を始めたばかりなんだけど、いまよりもっと前
入社後、数日の話だ。

会社のドアを開けるのも、デスクに座るのも緊張していた。
溢れてくる不慣れな言葉
次々と説明される業務
必死にメモを取ってはみるものの、自分が何を書いているのかわからない。
言われたままの単語たちは、みんなよそゆきの顔をしていた。
そうして、昼休憩のときには頭がパンクして、帰る頃にはどっと疲れている。

8ヶ月間の無職期間を経て社会復帰をしたわたしは、「仕事って疲れるんだ」と思い出す。
久し振りに感じた”負荷”。
自分ですべてをコントロールしていた無職の頃とは違う。
それは、「自分で想像できる世界の中でしか生きていなかった」ということだったのかもしれない。

「わからないこと」がストレスになる、ということをわたしは思い出した。

よそゆき顔の言葉たち
通し番号のないプレゼンを聞いているみたいに、終わりのない物語。
それは、ボロボロの船で「どれだけ先にあるかわからない島にたどり着いて」と言われることに似ていた。

入社間もない人間に、乗っている船の名前だとか、島までの距離を説明するにはまた言葉が必要で
降り注ぐ言葉は、きっとわたしをさらなる混乱へと誘っただろう。
それはもう、仕方のないことだった。

わからないと不安、
先が見えないと不安
それを、ストレスと呼ぶ。

そんな当たり前のことを、ひしひしと噛み締めていた。

もちろん、船が出てしまえば、航海に慣れるしかない。
不安だけど進んで、進んで
だいたい、最初よりはマシになる。
だいたい、そういうふうにできている。
人間は学習する。
学習は、作業時間を短縮させてくれる。
それを、慣れと呼ぶ。

そしてまた、新しい業務が降り掛かってくる。
「未知への不安」が、わたしの肩を叩く。
そいつはたくさんのトゲや角を持っていて、頭の中でゴロゴロと鳴り、跳ね回り、すべての壁と床にガツガツとぶつかってゆく。

わたしは不安のひとつを手に取り、気をつけながら撫でてゆく。

「不安だよね」と、声をかける。
知らないこと、初めてのことが不安なのは、当然だよ。
年間50本近くライブをやっていたあの日々だって、初めてのライブハウスは緊張したじゃないか。
ライブをやることは変わらないし、準備もしてきた。
でも、楽屋の明るさや暗さ、広さ、喫煙所やトイレの場所を確認して、そうしてほんの少しだけ、心を落ち着かせる。
不安は、最後まで消えなかった。
もう一度この場所にきて「今日はよろしくおねがいします〜!」と挨拶をする、その瞬間まで。

だから、やってみなくちゃわからない。
そうしてやってみると、だいたいなんとかなる。
「たいしたことなかったじゃん」と、思う。
でもそのセリフは、「やってみる」まだ絶対に吐けない。
そして「やってみる」まで、不安のトゲやストレスは、決して消え去らない。

あしたの15時までずっと不安でいるのか?
それはやっぱり、疲れてしまう。
不安でいても何も解決しないし、体力や気力を奪われるばっかりだ。
新入りのアルバイトでもできるような仕事だから、頼まれているんだ。
そうだ、”きっと”やってみればすぐに終わる。
明日の朝、なるべく早いタイミングで取り組めるようにしよう。

言葉を連ねて、わたしはもう一度だけ、不安を撫でる。
少し丸くなった不安を、今度は足で、ポーンと蹴飛ばす。
そうそう、わたしはこれくらい行儀が悪いくらいがちょうどいい。
サッカーボールみたいに転がった不安が戻ってきたら、蹴飛ばそう。
そうするうちに、トゲも角も、もう少しマシになるでしょう。

そんなことを思いながら、わたしは眠ってしまった。

翌朝、メモ帳を持って「昨日頼まれていた件ですが」と声を掛けた。
「ここに座って」と、いつもと違うデスクを指示されて緊張した。
「これをこうして」と言われて、手が震える。
「これを繰り返して」と言われたところで、ようやく安堵する。
なるほど、これをやるのね。
理解した、大丈夫。
わたしにもできる。

頼まれていた仕事は、すぐに終わる単純作業だった。
「やっぱりね」と、自慢げな顔で、昨日のわたしが微笑んでいた。




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