未知への不安を蹴飛ばして
(……やっちまった)
気づいたのは、退勤間際だった。
社内チャットの「松永さんお願いします」のメッセージを、見落としていた。
昼休憩から戻ったあと、わたしはその手前のメッセージまでしか読めていなかったみたいだ。
早めに気づいたなら、今日中に終わらせられたのに…
初めての業務、期限は明日の15時まで。
仕方がない、明日に持ち越しだ。
そうしてわたしは、眠る前に思い出す。
(あした、頼まれてた仕事…はやめに、やらなきゃ…)
また、思い出す。
仕事を始めたばかりの頃のこと。
*
いまだって仕事を始めたばかりなんだけど、いまよりもっと前
入社後、数日の話だ。
会社のドアを開けるのも、デスクに座るのも緊張していた。
溢れてくる不慣れな言葉
次々と説明される業務
必死にメモを取ってはみるものの、自分が何を書いているのかわからない。
言われたままの単語たちは、みんなよそゆきの顔をしていた。
そうして、昼休憩のときには頭がパンクして、帰る頃にはどっと疲れている。
8ヶ月間の無職期間を経て社会復帰をしたわたしは、「仕事って疲れるんだ」と思い出す。
久し振りに感じた”負荷”。
自分ですべてをコントロールしていた無職の頃とは違う。
それは、「自分で想像できる世界の中でしか生きていなかった」ということだったのかもしれない。
「わからないこと」がストレスになる、ということをわたしは思い出した。
よそゆき顔の言葉たち
通し番号のないプレゼンを聞いているみたいに、終わりのない物語。
それは、ボロボロの船で「どれだけ先にあるかわからない島にたどり着いて」と言われることに似ていた。
入社間もない人間に、乗っている船の名前だとか、島までの距離を説明するにはまた言葉が必要で
降り注ぐ言葉は、きっとわたしをさらなる混乱へと誘っただろう。
それはもう、仕方のないことだった。
わからないと不安、
先が見えないと不安
それを、ストレスと呼ぶ。
そんな当たり前のことを、ひしひしと噛み締めていた。
*
もちろん、船が出てしまえば、航海に慣れるしかない。
不安だけど進んで、進んで
だいたい、最初よりはマシになる。
だいたい、そういうふうにできている。
人間は学習する。
学習は、作業時間を短縮させてくれる。
それを、慣れと呼ぶ。
そしてまた、新しい業務が降り掛かってくる。
「未知への不安」が、わたしの肩を叩く。
そいつはたくさんのトゲや角を持っていて、頭の中でゴロゴロと鳴り、跳ね回り、すべての壁と床にガツガツとぶつかってゆく。
わたしは不安のひとつを手に取り、気をつけながら撫でてゆく。
「不安だよね」と、声をかける。
知らないこと、初めてのことが不安なのは、当然だよ。
年間50本近くライブをやっていたあの日々だって、初めてのライブハウスは緊張したじゃないか。
ライブをやることは変わらないし、準備もしてきた。
でも、楽屋の明るさや暗さ、広さ、喫煙所やトイレの場所を確認して、そうしてほんの少しだけ、心を落ち着かせる。
不安は、最後まで消えなかった。
もう一度この場所にきて「今日はよろしくおねがいします〜!」と挨拶をする、その瞬間まで。
だから、やってみなくちゃわからない。
そうしてやってみると、だいたいなんとかなる。
「たいしたことなかったじゃん」と、思う。
でもそのセリフは、「やってみる」まだ絶対に吐けない。
そして「やってみる」まで、不安のトゲやストレスは、決して消え去らない。
あしたの15時までずっと不安でいるのか?
それはやっぱり、疲れてしまう。
不安でいても何も解決しないし、体力や気力を奪われるばっかりだ。
新入りのアルバイトでもできるような仕事だから、頼まれているんだ。
そうだ、”きっと”やってみればすぐに終わる。
明日の朝、なるべく早いタイミングで取り組めるようにしよう。
言葉を連ねて、わたしはもう一度だけ、不安を撫でる。
少し丸くなった不安を、今度は足で、ポーンと蹴飛ばす。
そうそう、わたしはこれくらい行儀が悪いくらいがちょうどいい。
サッカーボールみたいに転がった不安が戻ってきたら、蹴飛ばそう。
そうするうちに、トゲも角も、もう少しマシになるでしょう。
そんなことを思いながら、わたしは眠ってしまった。
*
翌朝、メモ帳を持って「昨日頼まれていた件ですが」と声を掛けた。
「ここに座って」と、いつもと違うデスクを指示されて緊張した。
「これをこうして」と言われて、手が震える。
「これを繰り返して」と言われたところで、ようやく安堵する。
なるほど、これをやるのね。
理解した、大丈夫。
わたしにもできる。
頼まれていた仕事は、すぐに終わる単純作業だった。
「やっぱりね」と、自慢げな顔で、昨日のわたしが微笑んでいた。
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