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クッキーはいかが?

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1200文字以下のエッセイ集。クッキーをつまむような気軽さで、かじっているうちに終わってしまう、短めの物語たち
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2021年1月の記事一覧

家賃3万円の部屋から

それは、とろりとした闇だった。 夜眠るとき、部屋を真っ暗にしなくなったのはいつ頃だろうか。 思い返せるのは、家賃3万円の家に住んでいた頃かもしれない。 駅から徒歩5分と少し、大学の近く。 オール電化と言えば聞こえがいいけれど、実際は「電気給湯器」と呼ばれる古めかしいシステムでお湯を沸かし、ガスコンロがない。 エアコンは窓枠にはめ込むタイプで、冷風しか出ない。 あの部屋の電気は、壁のスイッチでオンオフできるだけで、電気を消すと部屋は真っ暗になった。 6年近く住んでいたあの部

たくさん食べて、よく笑おう

まあいいや、と思い始めていた。 そして、本当に辞めてしまった。 ダイエット 痩せたいって、多くの人が思っていると思う。 太っちゃった、てよく思う。 20代の頃は、数日食事を抜けば体重が落ちたりしたけれど 30代は甘くない。 もともと筋肉なんか微塵もない身体は、エネルギーをちっとも燃やしてくれない。 それなのに、おなかは空く。 食べすぎてはいけないとか、 おやつはやめようとか、 夜中に食べるのはやめようとか ストレッチを頑張ろう、とか たくさん思ったけれど。 最近は

踏切

すごく久々に、踏切を渡った。 直前で遮断器が降りてしまうことに、昔ほど苛立たなくなった。 1秒の長さは変わらないのに、わたしは少しだけ、ゆるやかにやさしく生きられているような気がする。 * 大学時代は、踏切のある街に住んでいた。 踏切の記憶は、いつも夜。 松屋でごはんを食べたあと、 駅前の花壇に座って、延々とおしゃべりをしたあと。 すべての電車が去った踏切で、わたしは立ち止まる。 誰もいないホームを見つめて、昼間とはぜんぜん違う景色だ、と思ったことを覚えている。 誰

「誰か、煙草に火をつけて」

タイトル通り煙草の話なので、嫌いな方はごめんなさい * 煙草を吸っていたら、同居人が手を伸ばしてきた。 なに?と思ってそちらを見ると、わたしの手からすっと煙草を奪っていった。 ああ、一口だけ吸いたかったのか。 そういうこともあるよね、とわたしは頷く。 同居人は深く、一度だけ煙草を吸って、わたしに返してきた。 ああ、そういえば わたしは、知っている。 この、深くひとくちだけ吸う、その煙草のこと * もう、ずいぶん昔の話になる。 ふたつのバンドを掛け持ちして音楽活

ふつうの日、ちょっと特別な時間

気づいたら、母親と1時間半も電話してた。 外で ちょっとだけしゃべろう、なんてできるわけがなかった。 定期的に会っていた母親と会えなくなって、もうずいぶん経つ。 彼女が東京に遊びに来るたび、わたしは休みを取って、ごはんを食べたり散歩をしたりしていた。 会えないのを、寂しいと思う。 それでも、「会いたいな」と思えることを、わたしはひっそりと嬉しく思っている。 だから、久し振りの電話が「ちょっとだけ」なんて無理があった。 すっかり冷え切った身体で、バスルームに飛び込む。

別れに祈る

「割れちゃったの」と、友達は言った。 シンクには、真っ二つになった小さな土鍋が、そのまま落ちていた。 「上からものが落ちてね、割れちゃったの」 そういうこともあるよね、とわたしは頷いた。 割れると、悲しい。 いつもそうだ。 悲しみの度合いとか、向き合い方とか、 そういうのがちょっとずつ変わって、おとなになったような気がしても、悲しみは消えてくれない。 やっぱりちょっと、寂しい。そんな気持ちになる。 割れたものは、もとに戻らない。 すべてがそう、とは言わないけれど 友

わたしの絵の具は、いま静かに眠っている。

困ったな。 もう、30分以上パソコンの前に座っている。 「パソコンの前に座れない」ことが、かつてのわたしの悩みだった。 ソファーやベッドでうずくまって、気づいたら眠って何もしない。 そんな自分から、変わりたかった。 だから「毎日更新する」というルールを設けて、強制的にパソコンの前に座るわたしになった。 いまではすっかり慣れた。ような気がしている。 「書こうと思えばなんでも書ける」と信じていた。 どんなささいなことでも、物語になる、と。 タンブラーのお茶でも、デスクに置い

無敵のコーヒー

「コーヒー飲も!」 懐かしい、と思った。 自販機なんかどこでもあるのに、この青い自販機は いや、”この場所にある自販機”は、特別だった。 その青さに目を奪われ、記憶と感傷がさあっと通り抜ける。 ペットボトルを選んだあと、隣を見て少しだけ後悔した。 ボスの、白缶にすればよかった。 それは、無敵のコーヒーだった。 * 「コーヒーでも飲む?」というのは、その男の口癖だった。 なぜか、毎度おごってくれた。 何かを話したいとき、 話し足りないとき、 行き詰まってしまったとき

近くと、遠く

「これだ!」 君が力強く頷いて、かがんでシャッターを切る。 わたしは、その横顔を忘れない。 * すみだ水族館の大水槽の裏には、小さな窓がある。 大水槽の裏は順路から外れていて、通らなくても1周回れてしまう。 すべてを見終えて、大水槽の前でぼんやりしたあと、「あっち側も見なくちゃ」と、立ち上がるのがいつものコースだった。 他より少し細くて暗い道を、わたしたちは歩く。 そうして小さな窓から、大きな水槽を見つめる。 これはきっと、潜水艦の窓なのだと思う。 そんなふうに思わせ

わたしの日々

今日はもういいかな〜 なんて、思う。 ときどき、思う。 うそ。 ときどき、じゃないかもしれない。 ソファーに沈み込む。 たぶん、このソファーは150センチ。 148センチのわたしを、すっぽりと守ってくれる。 もういいかなあ。 なんて思いながら、ごろごろとスマホを握る。 * しばらくすると、気が済むのが不思議だ。 たぶん、「日課」がわたしを守ってくれている。 どうせ起きて、パソコンの前に座る時間が訪れるんだから。 うん、立ち上がってみようか。 なーんて、言うけれど