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もしもこの俺が失敗作なら

こんにちは。真実の旗を振りかざす半顔です。

正しい反抗期


少し古いものですが、久々にグサリと刺さるブログを見つけたのでご紹介。
作者はYSCCの中の人です。


サッカー論~育成と強化への考え~

この時期に反抗期を迎えない優等生、または弱気な生徒は大人になって壁にぶち当たります。
良い、悪い判断が出来ないし、相手の心がわからないままになってしまうからです。

はい、大正解です!


冒頭でオブラートに語りたいなんて言ってますが、どうしてどうして、ド直球投げてきてますよ。

ということは、本音ではもっととどめを刺すようなことを言いたかったのかなあ…

ブログの主はもちろん悪気なんてなくて、教育に関する一般論を述べているだけです。
ちゃんとそういう勉強をされてきている方だから説得力もあります。

「お気持ちヤクザ」でも述べたように、自分が勝手な受け取り方をして勝手に落ち込んでいるだけです。

自分なりに受け止めて、プラスになるように消化しなければならない。

相手の心が分からないというのは「挫折を知らない優等生は挫折を経験する者の心が分からない」というニュアンスなんだろうと解釈します。

ならば私は優等生ではない。

サッカーという共同体の入口に立たせてもらえなかったという、人生最大の挫折を早いうちに経験している。

世間一般が持っている「勉強の出来る子=挫折を知らない」というステレオタイプな見方には、強く抵抗を覚えます。

もちろん、体育も含めてオール5なら話は別ですが。

弱気は損気

私はどちらかといえば「弱気な生徒」に該当するのでしょう。

強い心を育むチャンスを、半ば強制的に剥奪されています。

「何もサッカー(スポーツ)でなくとも、強い心を育む方法はいくらでもある!」との反論もありましょう。

でも当時小学三年生だった私が、果たしてそれに独力で気付くことが出来たものなのでしょうか?

反抗期、本来なら親に向けるべきだった反抗心を、同級生であるサッカー部員に向けてしまっていたのかも知れません。

本当にサッカーが好きなら、家出でも何でもして実力行使に出るべきではなかったのか。
それが反抗期における正しい態度ではなかったのか。

身寄りのない子としてサッカーを始めるのは現実的に厳しいかもしれないけど、アクションを起こすことで何か変化が生じたかもしれない
少なくとも、半顔家でくすぶっているよりはよほどましだったでしょう。

今更悔やんでも手遅れですが。

いずれにせよ、弱気な生徒は将来ろくな大人にならないという共通認識が教育界一般にあることが分かりました。

学校とかでいじめ問題が起きたとき、教師がいじめ被害者をどういう目で見ているのか、何となく分かったような気がします。


もうすでに完全じゃないことを認めたら?

楽に生きる方法が三つあります。

ひとつは自分がサッカー経験者と思い込めるように過去の記憶を改竄すること。

科学的に可能かどうかは分かりません。
が、多分人権問題になる。
為政者に悪用されやすい技術だからです。


もうひとつはサッカーそのものを忘れてしまうこと。

子供の頃、これは何度も試みました。

でも出来なかった。
それが原因で体壊しそうになった。

よってこれも却下。
後に残るのは、寂しさだけです。

しかし、まさかこの歳になってこの方法を検討しなきゃならなくなるなんて夢にも思わなかった


最後は、この人生が失敗だったことを認めること。

今の私は、これからでも足掻けばまだ悔いなきサッカー人生だったと思える日が来る、と勝手に信じています。
だから苦しいのではないか。

ならばいっそこの人生は失敗だったと認めてしまえば良い。
これから先は、淡々と敗戦処理の余生を送る。

まだ若い人が私と同じ人生の轍を踏まないよう、
教訓となるものを残して伝えていく。
それが私に残された使命であり、生きる意義なのだと思います。

そしてこの教訓は、来世サッカー少年に生まれ変わる私に対しての贈り物でもあります。


この3つの中では、人生が失敗だったことを認めるのが、一番現実的に取りうる道だと思っています。
楽に生きるならば、です。


でも今の私は楽に生きる方法を選択しようとは思っておりません。


弱気な生徒がぶち当たった壁を、何とか超えていきたいと思います。


いずれにしても、教訓だけは残していこうと思っています。
このnoteを立ち上げた最大の目的でもあるからです。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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