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私の中の怪物



 幸せな顔した人が憎いのはどう割り切ったらいいんだ
 満たされない頭の奥の化け物みたいな劣等感
              ー ヨルシカ/だから僕は音楽を辞めた


 私はこの曲をカラオケに行ってよく歌うのだけど、「満たされない頭の奥の化け物みたいな劣等感」というところだけ変に力が入ってしまっていつも声が裏返る。力が入るのがわかっているからちょっとフラットに歌おうとすると、ここは二度目のサビの直前で、その後Cメロに入る、歌に勢いが出てくる重要なところなので、力を抜くと肩透かししたみたいにフラットなままアウトロまで行ってしまって、正直、私には加減が難しい。「満たされない頭の奥の化け物みたいな劣等感」。咽喉の深いところで、息が詰まる。声にして吐き出すことを躊躇している私がいる。化け物みたいな劣等感。
 ずっと、夢見たようなきれいな私でいたかった。私が私の中の怪物に気づいたのは、いつのことだったろう。


 こんな青臭いことを考えるくせは、二十代に置いていこうと思っていた。あるいは、二十歳になったときも、私は私の中の怪物を十代に捨ててしまおうと思っていたはずだ。怪物。正しく人を愛する能力を持てない私。自分を愛することを斜に構えて拒んできた私。自分を愛せないから自分を通して出会うどんな人も真実愛することができない私。私の怪物。私の孤独。
 自分ですらも愛していないから、誰に対しても最初はきれいな顔をする。人の好さを取り繕ってどんなことにも「大丈夫」と笑う。大丈夫、平気、いいよ、私がやるよ。本音は一ミリも大丈夫ではないので、きれいな顔には次第に亀裂が入り始める。罅割れたところから、怪物が顔を覗かせる。
 そんな夢想を、一体どれほどの年月、私は胸の裡に抱いてきたんだっけ。

 こんな怪物が生きていていいはずがないと、二十歳になったら自殺しようと思っていた。人を愛する能力のない私が、人との絆を重んじる社会の中で生きていけるはずがない。私を好きだと言ってくれる人たちに返せるものが私には何もない。「満たされない頭の奥の化け物みたいな劣等感」。私の怪物の正体が劣等感だったのかどうかは定かではないけど、満たされていなかったのは確かだ。私はずっと愛がほしかった。愛がほしいと言っても、私の望みは愛されることではなく、愛することができる人間になりたいということだった。その欲望は、私が書いた私の物語が証明したと思う。私は、私の全部を賭けてでも、何かを、誰かを愛せる人間になりたかったのだ。
 愛を夢見る怪物。その夢こそが怪物だと気づかないまま怪物は夢を見た。



 ヨルシカ「だから僕は音楽を辞めた」の歌詞を追っているときの私は、いつもこの頃の自分を思い出している気がする。どうでもいいとかなんでもいいとか、本当は強い欲望があるのにそういう言葉で押し殺して、愛を他人任せにすることで自分の中の怪物を見ないふりしようとしていた私だ。今も怪物の影は時折脳裏をちらつくけど、愛することに餓えすぎて、どうでもいいまま死んでしまいたかったあの日ほどじゃない。誰かの望む方へ生きてゆくことが愛することだと無理矢理に言い聞かせた私を、二十二歳を迎えてすぐに出会った、アンリ・ルソーの一枚の絵画が打ち砕いた。もしかしたらルソーでなくともよかったのかもしれないが、人生で最後に自殺しようと決意していたあのとき、私の目の前に現れたのはルソーだった。
 国立新美術館で、人垣越しにルソーの「蛇使いの女」を見たあの瞬間を思い出すと、私は、何かを始めるのに遅すぎるときはないように、何かに気づくのに遅すぎるときもないと思う。真実の愛はいつも、自らを正視して自らを愛するところから始まる。私が私を愛する、それは、私を真実愛してくれている人を愛することでもある。そのことに気づかないよりはずっといい。

 やがて「だから僕は音楽を辞めた」のアウトロにたどり着く私は、歌詞とは裏腹に、やっぱり怪物だった季節の私だって、全然、何一つどうでもよくなんかなかったことに、改めて気づかされるのだ。




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