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自分探しの旅 英語力0の20代看護師が仕事を辞めて留学にいった話

 北海道帯広出身の田舎娘。中学からはじめたバレーボールに夢中で、部活一筋。大学で札幌に行き、最後の春休みにバックパックに行って出会った世界一周中の旅人に憧れて、いつか世界一周をすると決める。看護師になって、仕事のすばらしさ、楽しさも感じながらも残業、夜勤、疲れて眠る休日。理想のライフスタイルが手に入らない絶望と、理想とする先輩がいないことへの不安・・・。人生を変えたいと思っているときに思い出したあの日の旅人・・・「そうだ、ワーホリに行って、たくさんの人と出会って、人生のリスタートをきろう。」これが、留学を決断した理由。3年間で150万円をためて念願の留学、と思いきやコロナ。そしてコロナが明けた2023年3月にフィリピンに留学。帰国して事業を開始、今後はデンマークのフォルケホイスコーレに留学予定。社会人での留学、そして看護師からのキャリアチェンジ、なぜ北欧留学なのか、英語力0の20代看護師の自分探しの旅がはじまります。

生い立ち

 北海道帯広出身の田舎娘。中学からはじめたバレーボールに夢中で、部活一筋。特に夢を抱いたこともなかったけれど、大人たちからの「大きくなったら何になるの?」という質問に、夢を決めなくては!と考え抜いて決めた将来の夢は看護師。それ以外とくにビジョンも趣味もない高校生。地元の専門学校に行く予定だったが、部活の恩師に「絶対に看護師を辞めたくなる日がくるから大学に行け!大学の方がいろんな経験ができるし、学歴が残る。」と言われ、大学受験を決意。模擬試験Dランクから果てしなく努力してなんとか札幌の公立大学に合格。そこで出会った友人に連れられるがままに、はじめてゲストハウスに泊まった際に、香港人と出会って、世界のおもしろさに魅了される。それ以降、兎にも角にも旅行がすき。一人旅、バックパックと世界が広がっていく。最後の春休みにバックパックに行って出会った世界一周中の旅人に憧れて、いつか世界一周をしようと決める。

夢がかなったけれど、

 旅行がすきという理由で決めた横浜への就職。小児がんの子どもたちの看護をするという夢をかかえながら、小児がん看護の有名な病院に行ったものの、配属は小児科ではないと知った日、私は泣いて眠れなかった。看護師の仕事は楽しかったし、患者さんが元気に退院する喜びも感じた。その反面、残業、夜勤、疲れて眠る休日、少ない基本給。くわえて理想のライフスタイルが手に入らない絶望と、理想とする先輩がいないことへの漠然とした将来への不安。このまま看護師をしていていいのだろうか?何になるのだろう?人生を変えたいと思っているときに思い出したのは、あの日キラキラしていた旅人であった。「そうだ、ワーホリに行って、たくさんの人と出会って、人生のリスタートをきろう。」これが、留学を決断した理由。看護師にはなれたけれど、夢はかなうと苦しくなってしまったりする大事なのは職業ではなくて、どんな人生を歩みたいかであるということを、社会人になってはじめて気づいた。3年間で150万円をためて念願の留学、と思いきやコロナ。病棟での看護師は辞め、フリーランスナースへ。コロナバブルにあやかりながら、看護師は週に3日。残りの4日間は人生を広げる時間に使い始めた。そうこうしていると、27歳。20代後半で、同級生はみんな結婚。結婚もしたいし、子どもも欲しい。海外生活には憧れるし、英語も話せるようになりたいけれど、20代後半で、今から海外に行っていいのだろうか?そんな不安を話していると「いつか経験するなら、今すぐしたほうが、その経験を持って生きることができる分、そのあとの人生がより豊かになる。」「今やりたいことは後回しにせず今やるのがいいよ。」という言葉をもらい、翌日には3か月後のセブ留学を予約。もともとはオーストラリアワーキングホリデーの予定であったが、「人生の学校」「ウェルビーイング」「教育」などのことばに惹かれ、デンマークのフォルケホイスコーレに行くことに決める。フォルケホイスコーレは自身で出願しなくてはならず、英語がわからない中で、Google翻訳を使いながら学校を調べ、学校のウェブサイトを読み、入学条件、VISA等を調べ一連の手続きをするのは大変だった。でも、新たな道が開ける気がしてとにかく必死だった。

 ちなみにこの時点で、英語はほとんど話せなかった。東京で英会話カフェに行ってみたものの、楽しむこともできず、まったくコミュニケーションをとれずに帰宅。

留学の延期。

 3か月後の留学を決断し、家族に報告。電話越しに、母親の反対を受けながら、最後には父親の「無理しすぎず、応援している。」に背中を押された。わたしは、「またお正月にね、一緒にお酒飲もうね。」と電話を切った。留学3週間ほど前、突然の母親からの電話。「パパが倒れた。」・・・一緒にお酒を飲む約束を果たすことはできず、永遠の別れとなった。母親は「パパとの夢は、退職したらみんなで黒部ダムに行くことだった。キャンピングカーで北海道を旅することだった。なんで一緒にできないの。」と泣いていた。母親も心配だし、留学を辞めようかとも思った。だけど、父親のがんばれが耳に残っていた。そして、父の後悔を繰り返さない、2人分の人生を生きると決めた。今を、生きると決めた。ここから先は、もっと努力して、もっと人生を楽しむ。そうして、2か月後の留学を再度予約した。


 

社会人での留学は、キャリアやライフステージなど、悩む点が多く存在する。それでも行くと決めたわたしのセブ留学は2023年3月に開始。初日、英語力0。英語が聞き取れず、ゆえに何も伝えることができない。年下の先生方のやさしさに、悔しくて泣くのをこらえきれなかった。わたしの留学は10週間であった。(10週間は推奨しない)わたしは、何も残せず帰るわけにはいかないと必死だった。平日はとにかく勉強して、休日はとにかく遊んだ。A2の底辺レベルから8週間でB1レベルまでは上り詰めた。ここまで成長できたのは、無駄なく成長できる勉強法を知れたこと、先生方や留学生、現地の友達との会話が楽しかったこと、授業の多さが理由である。卒業式では、スピーチをした。初日に、英語が聞こえず泣いていたわたしが、英語でスピーチができるようになったことが、嬉しかった。

 留学中にいちばん悩んだのはキャリアであった。看護師を辞めたいと思った日からの思いはずっと変わらず、「何かしたいけど何がしたいのかわからないし、何ができるのかがわからない。」ということ。たくさん副業はした。5万円/月程度であれば稼ぐことは可能であった。でも、思いつくものはどれも現場に行かなくてはならないものばかりで、時間や場所問わず自由に生きたいというわたしの目標は達成できなかった。もともとは、デンマークのフォルケホイスコーレに行くのに英語力が必要で、そのためのセブ留学であった。しかし、留学中に、「もっと英語力が伸ばしたいからやっぱりワーキングホリデーに行こうかな。ワーキングホリデーに行ってからデンマークに行こうかな。」と思うこともあった。不安で眠れなくなる夜もあった。日本の友人に相談しながら深夜まで号泣した日もあった。しかし、「大事なのは人生であって、留学はその一部分。あくまでも人生を豊かにするためのイベントである。大事なのはどのような人生にするか、そのために今なにをするか。」そんな風に考え直せた。また、2024年上旬にはデンマークに行きたく、半年間のワーキングホリデーを検討していたが、現在のオーストラリアでのワーキングホリデー事情はなかなかに厳しく、家や仕事を見つけるのに時間がかかる状況であることを知った。半年のワーキングホリデーでは赤字になりかねないと思った。幸いなことに、日常英会話ができるくらい成長できたので、日本でも英語力を伸ばすことは可能であると考え、わたしはワーキングホリデーに行かなかった。これは、留学に行く前にしっかり考えておくべきであったと反省した。どんな決断をするのかは、その人の描くキャリア次第である。大事なのはゴールを明確にしてステップを踏むことである。

 英語力はもちろん、留学中のいちばんの変化は自信がついたことであった。社会人になると大きな成功体験をするような機会は少なく、大きな挑戦がしにくくなると思う。成功体験について尋ねると、たいていは学生中のエピソードとなるのがその証拠だろう。留学中、先生方は毎日「You can do it.」「I 'm proud of you.」をくれた。わたしの成長のフィードバックも絶やさなかった。先生方は本当に素敵で、先生であり、ともだち。毎日笑わせてくれて、楽しませてくれる。ある先生は「Be a star everyplace that you've wanted to stay. You're unique and specutacular.」ということばをくれた。最初の2週間は「本当に話せる日が来るんだろうか。」と何度も不安になったが、努力すればなんでもできると知り、かなりの自信につながった。正しい努力をすれば、夢は実現すると思い出した。


留学支援をする思い

 そして今、わたしは留学支援事業(留学相談+退職時の給付金サポート)、看護師の転職支援(フリーランスナース・転職)を開始している。「変化・挑戦したい人を応援したい」というビジョンに忠実に生きている。帰国して、シェアハウスに住んで、ある日やった「やりたいことの見つけ方ワーク」。そこで自分の価値観・才能・情熱が明確化してやりたいことがわかってしまった。もう逃げない、恐れないと思った。覚悟を決めた。
わたしの使用させてもらった留学エージェントでは、渡航日を間違っていたり、日付変更したかった際に連絡がつながらなかったり、渡航後に留学期間の変更が可能と聞いていたが不可能であったり、日本人比率3割と聞いていたが6割程度であったりということが起きた。学校内には同じエージェントを使っている学生が多く、ほとんどの人が不満を持っていた。逆にいいエージェントがあることも知った。せっかくの留学経験、どうせならよい会社で、よい経験にしてほしいと思った。何社もの留学エージェントに連絡し、面談をして、真面目で素敵な歴史ある大手の会社や斬新なベンチャー会社と提携できることになった。
看護師の転職も同じで、転職エージェントは営業感が強かったり、カウンセラーは看護師ではないため、情報理解には限界があるように感じていた。何社か転職を相談したこともあったが、転職したいとおもうことはなかった。「看護師の立場で、自分の理想にあった求人を紹介してくれる会社があったらいいのに、給料交渉もしてくれたらいいのに。」と思っているタイミングで、そんな会社の方と出会え、提携できることとなった。はじめは、会社に紹介してくださいという流れであったが、【自身でカウンセリングをしたい】と訴え、学び、現在はわたし自身でキャリアカウンセリング・ヒアリング・転職先の提案をしている。大事にしているのは求職者の方がどのような人生にしたいのか、という点。思ったよりも楽しくて、この仕事にハマりつつある。
社会人では、親からの支援を受けにくく、仕事をしながら留学費用の貯金をするのは容易ではない。退職時の国からの給付金の制度を知り、「お金を理由に留学をあきらめている人がいるのであればサポートしたい。」と思い、給付金サポートを開始した。

今後の人生計画

 2024年には、デンマークのフォルケホイスコーレに行くのが目標。今、エントリーをして結果待ちである。北欧教育の魅力を、現地で感じたい。わたしの海外への挑戦はここからも続く。


最後に…

 自分自身、はじめは何者でもなかったし、看護師からキャリアチェンジをするなんて、できるなんて、海外に行くなんて予想もしていなかった。しかし、たくさんの人との出会いのおかげで海外に挑戦することができ、キャリアにも満足しながら今楽しく過ごすことができているとわかっている。逆に言うと、出会いがなければ絶対に今の自分はいない。だからこそ、挑戦・変化したい人の応援をこれからはわたしがしていきたいし、そんな人たちが増えて、海外で挑戦できる人や人生を楽しめる人、理想のキャリアを歩めるひとが増えていったらいいなと思う。何事も自分次第。自分がやると決めたら絶対に目標達成できます。一緒に挑戦できるとうれしいです。応援させ
長くなりましたが、読んでいただきありがとうございました。
これからもがんばっていきます。
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