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はじめまして、はなまるです。

はなまる

はじめまして、はなまるです。
はなまるは、実家の愛犬の名前です。
はなまるを思い出すたびに自分にも、はなまるをあげようってやさしくなれます。おかんさすが、素敵な名前。
初投稿ということで、自己紹介をしていきたいなと思います。
キャリアに迷う看護師や、今後留学に行かれる方、あたたかくておもしろい世界で過ごしたいなという方のお役に、少しでもたてるとしあわせです。

いろいろな活動はこちらにもまとめてます、よかったらぜひ。


大きくなったら看護師になりたいです

わたしは、北海道の帯広市という田舎で生まれ、自然に囲まれながら、秘密基地を作ったり、かくれんぼをしたりとのびのび育ちました。
中学生のころ、いつも大人に問われるのはひとつだった気がします。「大きくなったら何になりたいの?」・・・
まじめだった私は思いました。”何者かにならないといけないのだ。”と。そしてその何者かにおいて大事なのは職業で、天職を見つけて、仕事を生きがいにしなくてはならないと。
父は公務員で、家族との時間を大切にするひとでした。夏はキャンプ、冬は温泉と毎年家族旅行に連れて行ってくれて、家では仕事の話をほとんどしませんでした。だからなのか、家庭の時間があるのは当然、仕事は楽しんでいる人とそうでない人がいると思い込んでいました。本当は、堅実に家族を大切にする素敵な父だったのに大きな勘違い。そして、教員や幼稚園教諭などの仕事がとてもキラキラしてみえていたのを覚えています。
”人の役に立ちたい””一人暮らしできる金銭的余裕のある仕事がしたい”この2つを譲れない条件としていた頃、救命病棟24時をみて、看護師になると決めた時のことは今でも覚えています。
看護師になると決めると、ルートはひとつだと思っていました。地元の看護専門学校に行き、地元で看護師になること。そのためにやや視座を下げて看護学校への合格率が高い高校に行き、中学からはじめたバレーボール部に高校でも引き続き入りました。これが、わたしの人生ががらっと変わる運命の出会いです。部活の顧問は恩師です。愛と思いやりと情熱に溢れる素敵な方で、大尊敬。そんな恩師に「絶対にいつか看護師やめたくなるから大学に行った方がいい。努力すればいけるだろうし、がんばれ。」と助言をいただいた日があります。お恥ずかしながら、看護師になるために大学という選択肢があるということすら知りませんでした。パンフレットを取り寄せ、キャンパスを歩く自分を想像した瞬間にはもう大学に通っている未来しか見えなくなっていました。受験は簡単ではありませんでした。恩師以外の全教員に落ちるから専門学校を受けた方がいいと言われました。でも、「奇跡とは、起こるものではなく、その意志があるものが起こす必然である。」恩師はいつもこの言葉でわたしを鼓舞してくれました。そして、無事に合格し、札幌の大学に進学。【決めたらできる】と知ったのはこの時です。
大学生活は大きな変化のある4年間でした。バレーボール部の創部、よさこい部では100人の幹部、ともだちと行く道外旅行、ゲストハウスという存在、バックパック、世界一周をしている人との出会い・・・
たくさんの人と出会って、いろんなものを見て、経験させてもらいました。きっとたのしいに上限はなくて、もちろん悔しい悲しいもたくさんあって、人生には無限の可能性がある、そう感じました。
高校時代、一生懸命仕事して、なんとなく結婚、そしてなんとなく子育て、人生こんなもんなんだろうな、と思っていましたが、見ている世界が狭かっただけだったのです。
誰も語ってくれないので自分で言いますが、看護学生としてはわりと優秀だったと思います。(笑)実習がたのしくてたのしくて仕方なかったのです。患者さんのために一生懸命考えて、ありがとうをいただけて、元気に退院していく。なんて素敵な仕事なんだ、と。
”がんばれば幸せになれるよ”という作品を読んでから、小児がん看護に興味を持ち、「小児がんの子どもが少しでも楽しみながら闘病できるように取り組みたい」という熱い思いでいっぱい。小児ゼミに入り、小児がんの治療に強い横浜の病院に就職を決めました。
恋愛という点をのぞいて(笑)とにかく完璧な大学生活だったと思います。

憧れの港町へ

ついに、夢と希望を抱いて憧れの港町へ。働いたらどんな風に自分のビジョンを成し遂げていこうとそればかり。そして、私は小児科に配属されなかったのです。わたしの夢はいったんここで途切れました。家に帰って、古びた寮で泣いたような気もしますが、もはや思い出せません。
1週間ほど働き、実習は、看護師の仕事の素敵な部分1割を経験させてもらっていたに過ぎないことを知りました。先輩方は全然楽しそうではなくて不満でいっぱい。わたしの理想はどこにもないような気がして、もうどうしたらよいかわかりませんでした。そんな時、大学時代に出会った世界一周をしていたひとたちを思い出し、お金をためて海外に行こうと決めました。
ここまで読んでくださった方はわかると思いますが、端的にいうと目の前しか見えていないおばかなのです。(笑)
そう、3年で辞めると決めて働く日々のスタートです。
なんだかんだ、自分なりに楽しさは見出していました。退院支援がうまくいったり、患者さんと朝陽を眺めたり、同期とペア組んで定時あがりしてごはんに行ったり。それでもやはり、明日も仕事いやだなという思いは消えず、わくわくすることもなかったです。
後輩指導やリーダー業務、部署レイアウト変更やパンフレット改定とたくさんの経験を積ませてもらった職場には感謝でいっぱいです。
3年がたち、コロナ真っ只中で、海外には行けなくなってしまいましたが、このまま人生が終わってしまうのはもったいない!となにもわからないままにフリーランスナースの道がスタートしました。

正しいより楽しいを、スラッシュキャリアという選択

フリーランスナースになっていちばん思ったことは、「年を重ねていくのって素敵だな」と思える生き方をしたいということでした。
はじめはもちろん今後どうしていこうと不安でした。そんな時に、ライフデザイン講座に参加して、選択肢がない中で悩むなんて無駄だ、まずは選択肢を知る必要があると学びました。そして、正しいより楽しいを選んでいくべきだと。その後は、人生の食材集めが楽しく、1年間での新しい出会いは1000くらい、100人くらいの仕事や人生を知った気がします。
素敵な空間づくりがしたいという思いで、ナチュラルワイン×イタリア郷土料理の素敵なお店で1~2回/週勤務をし、サービス業のすばらしさ、そして過酷さを体感しました。未経験でも働かせてもらって、簡単にことばには表せないほどの多くの学びを得ることができました。
他にも、写真撮影の仕事、メーカーのPR活動、1日店長、1日cafeオーナー、コーチング(価値観ワーク)AIartist(今後のサムネイルは描いたもの使っていきます)と幅広く活動し、気づくといわゆるスラッシュキャリアになっていました。
さまざまなコミュニティがある分、情報が多く、よい環境では一流に触れられ、そこでさらに世界が広がっていく、そんな楽しさを感じていました。
フリーランスナースって、好きな時に旅行に行けるし、休みも自分で決められるし、あとはどこでも働けられるようになったら最高だな~いつか海外もいきたいな~なんて呑気なことを言っていると、「やりたいことは今やったほうがいいよ」「どうせいつか経験するのなら早い方が、その経験をもって生きられるからその後の人生が豊かになっていくと思うよ。」ありがたいことに、こんなお言葉をいただきました。改めてマインドマップを書き、タイムバケットを作成し、海外行くなら今しかないな、と思ったのが1か月半前です。

あたたかい心で、しあわせを広げあいたい

今後、どんな風に生きていこうかな。海外で得たいものってなにかな。そんな風に考えているときに、まず自分のビジョンってそもそもなんだっけ、と思いました。お気づきの通り、かなり遠回りの人生でした。それでも、今、とても楽しく、人生って素敵だなって思っています。だいすきな人たちとしあわせを共有する時間がいちばんすきです。その分、楽しみ切れていない人、可能性を開花していない人をみるとなんとも言えない苦しさがやってきます。
ぼんやりとSNSを見ているときに偶然…運命的にたどり着いた先で、素敵なリ・トリートを企画されてる方がいて、えいっと参加し、「あ、わたしってひととしてのやさしさや思いやり…あたたかさを大事にしていたんだなぁ」と思い出しました。そんなことから、【あたたかい心で、しあわせな世界を広げあえること】ビジョンはこれだ、と思いました。デンマークに行きたいってきもちは正しいに違いないと確信した瞬間でした。とはいえ、語学力が足りないので、フィリピンで語学留学をしてからデンマークに行きます。楽しみです。

まとめ

自分が遠回りしたからこそ、少しでもお役にたてたらなという思いで、主に3つのことをゆるゆるつづっていきます。

  1. フリーランスナースについて

  2. 海外留学について(フォルケホイスコーレ)

  3. BabylonTownProject(あたたかくておもしろい世界)

看護師については主にこちらでお話ししています。

海外留学については、こちらです。


そして、BabylonTownProjectについては、謎が多いですよね。全然語りきれていませんが、よければこちらを。


それでは、なが~い自己紹介読んでいただいてありがとうございました。無理せず、じわじわやっていきましょう。



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