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役に立つってなんの役?ーMrs. GREEN APPLEの炎上から考える


0.初めに

 普段は世間の関心事からできるだけ離れたことを書きたい(消費的というよりは人間一般的なことを書きたい)、というつもりで記述するのですが、今回のMrs. GREEN APPLEの炎上から何か概して学べることがあるような気もしますので、今回拙論を述べさせていただきます。初めに断っておきますと、私は彼らの曲をたまに聴く程度で、ファンでもアンチでもありません。ですので、彼らの曲風やそこから受ける歌の印象については触れますが、「この表現は悪意を持ってやった(から謝れ)!」だとか「この人の性格からして悪意なんてない(から気にするな)!」だとかの「意図」の是非には触れません。ただし、彼らの言い分というのもやはり認識しておかなければ、「悪意がある」とも言えてしまいますので、それをまずは参照したいと思います。

Mrs. GREEN APPLE 「コロンブス」ミュージックビデオについて
2024.06.13
「コロンブス」のMusic Videoを制作するにあたり、
・年代別の歴史上の人物
・類人猿
・ホームパーティー
・楽しげなMV
という主なキーワードを、初期構想として提案しました。
類人猿が登場することに関しては、差別的な表現に見えてしまう恐れがあるという懸念を当初から感じておりましたが、類人猿を人に見立てたなどの意図は全く無く、ただただ年代の異なる生命がホームパーティーをするというイメージをしておりました。
 
しかしながら、意図とは異なる伝わり方もするかもしれないと思い、スタッフと確認し合い、事前に特殊メイクのニュアンス、衣装、演じ方のフォロー、監修をしていたつもりではおりましたが、そもそもの大きな題材として不快な思いをされた方に深くお詫び申し上げます。
 
決して差別的な内容にしたい、悲惨な歴史を肯定するものにしたいという意図はありませんでしたが、上記のキーワードが意図と異なる形で線で繋がった時に何を連想させるのか、あらゆる可能性を指摘して別軸の案まで至らなかった我々の配慮不足が何よりの原因です。
 
「コロンブスの卵」というキーワードから制作に取り掛かり、前向きにワクワクできる映像にしたいという気持ちが、リスクへの配慮をあやふやにし、影響を及ぼしてしまったと認識しております。
 
こちらの意図する物語の展開としては、歴史的時間軸は存在せず、類人猿も人の祖先として描きたかった。そして時間の垣根を越えてホームパーティーをする。
これはあり得ない話であり、あくまでフィクションとしての映像作品であると。
ただ、ある事象を、歴史を彷彿とさせてしまうMVであったというご指摘を真摯に受け止め猛省しております。
 
この度は本当に申し訳ございませんでした。
以後このようなことが無いよう、細心の注意を払い、表現することに対して誠実に、精進してまいりたいと存じます。
 
Mrs. GREEN APPLE 大森元貴

https://mrsgreenapple.com/news/detail/20374


1. 彼らが伝えたかったこととその構造

これを見た時、私はレヴィ・ストロース以来の構造主義を思い浮かべました。歴史というのは発展史観的に発展してきたのではなくて、つまり、どんどんと良くなっていくために昔よりも今が良いというものではなくて、どの時代どの地域においても同じような知の枠組みがあり、それがその共同体の中で発展してきた、というものです。(例えば昔であれば神理解を、今は科学を正統的根拠として色々なものを実証する、あるいは、昔であれば人の働き方は神をベースとして決められ、今は科学的思考をベースとして決められる、というようなもの。)

例えばざっくりした例ですが、私たちは「夏草や兵どもが夢の跡」という芭蕉の俳句を知っています。あるいは、廃墟というものに惹かれたりもします。そういった眼差しの根底にあるのは、「もう証拠が残ってなくて断絶してしまったけれど、そこに生きていた人がどんな人だったかも、それを知っている人すらもいなくなってしまったけれど、確かに存在していた、人の痕跡のようなもの」を感じることだと思います。つまり同じ儚い存在として同じ人間という型をはめることで、そこに芸術的感傷が起こるのです。
儚い存在としての私、そしてそれを人類が過去からずっと人類史学的に繰り返してきたということ、なんだか、彼らの言い分と重なるところがあると思います。

「こちらの意図する物語の展開としては、歴史的時間軸は存在せず、類人猿も人の祖先として描きたかった。そして時間の垣根を越えてホームパーティーをする。」
ここに、それが現れていると思います。

 ただ、同時に彼らの作品と彼ら自身がバンド名につけた由来(後付けだそうですが「いつまでも熟さずに青りんごのような気持ちでやっていきたい」とのこと)について考えるならば、ここでキーワードになってくるのが「カタルシス」だとも思います。彼らの曲の歌詞は、何かしらの(炭酸やオーロラといった視覚的まなざしとしてシンボリックな)イメージと、ぼんやりとしたままで独白的に紡がれる感情と、そしてそれらを結びつけるような印象を受けます。そしてそこから、未熟な自分の苦しみとそこからの解放の相剋を歌っている印象を受けます。この結び付けはまさしく、廃墟鑑賞に見られるような、因果関係のない過去的事象を結びつけることで生じる、物語化された自己解釈的カタルシスに他なりません。


2. 自己の持つカタルシスと「発展的な」社会の歴史観

 断っておきますが、私は彼らを貶すつもりはありませんし、第一私自身そうしたカタルシス的な作品を好みますし、私自身が書くものもその気があります。書き出すことでそれまで理解できなかった自己自身について理解できた気がすることもあります。ただ、あくまでも自己解釈に過ぎない、ものすごく意地悪な言い方をすれば自己陶酔的であるということは否めません。

 問題は、その自己物語化にあります。物語というのは読者がいて初めて成り立つのであって、それは自己物語も例外ではありません。物語化された自己の苦難というものを、例えばおじさんの説教のようなものでもいいですが、私たちはごく自然に他人に伝えてしまいます。そして時にそれはアドバイスという形で他人に強制する力になりえます。これの厄介な点は、本人は決してそれを強制力だとは思っておらず、ごく自然なものであると考える点です。

 自らの理性によって導かれたものは正しい、そしてその理性の光を持たぬ人は導いてあげなければならない、そのような思想を知っていますか。西欧の歴史を見れば、それは時に「スチュワードシップ」、時に「ノブレス・オブリージュ」、時に「啓蒙主義」、時に「マニフェストディスティニー」という形で現れることがわかると思います。なんだか、あの「地獄への道は善意で舗装されている」という有名な言葉を思い出します。

「我々が啓蒙してあげなければ」「我々が統治者として責務を果たさなければ」という思想、それがまさしく現れたのが、「文明国」「未開国」という対立とその歪な力関係です。そのように見てみると、「コロンブス」とそれが持つ先進性、「前向きさ」というのはものすごくこの枠組み的な見方です。しかし、彼らがもともと目指していたレヴィ・ストロース的な歴史観というのは、まさしくこの「文明国が未開国を導く」というような歪な力関係を否定したものです。つまり、今回の炎上というのは、視覚的なMVが何かしらの悪意によって制作されたために起こったというよりは、そもそもの発展史観的かパラダイム的かという歴史構造認識の根本的な認識齟齬のために生じたと考えるべきだと思います。(例えるなら、すでに積み上がっているレゴブロックの上からさらに積み上げていくという認識か、それとも一度そのレゴブロックをパージして組み直すかという感じです。)そして、まさしく近代の人々が「オリエンタリズム」という名のもとに事前統治的に持っていた東洋世界への認識と同じように、「コロンブス」や「類人猿」に対しても彼らがオリエンタリズム的眼差しをもっていて、それを繰り返していることが逆になんとも皮肉めいているのですが。


3. 「教養って大事なんだなって思いました」という言葉に現れる「教養」とは

 ところでこうした一連に関して、彼らは「教養がない」とか言われていたりします。最近私にはこの「教養」という言葉の違和感がひしひしとあります。こうした時の「教養」とは、「常識」のように言われますが、実際は異なるように思われます。教養とは、あるのが好ましい、といったような判断における「水準」的なものであり、決して「平均」ではないからです。

「普通に年収は600万くらいで、身長は170くらいで、顔は星野源くらいでいい」というような投稿?に「「普通」の基準高すぎ」というコメント?を前に見たことがありますが、そこで用いられている「普通」とは「水準」であって、平均よりは高いはずです。そして教養と同じくして、「教育って大事なんだと思いました」というコメントをよく見かけるような気がします。他人事のような、憐れみのような、何かそこに引かれた一線というのは、決して平均では起こりえない愉悦としての一線のように見えます。はっきりいって、「教養があるもの」が愉悦のために「教養がない」といっているように感じてしまいます。

 人というのを、時間というポイントがあってそれをどこに割り振るかというゲームの主人公と捉えれば、その人の伸長度は一義的に定まらないと思います。声楽のパラメータが高い人もいれば、ゲームのパラメータが高い人もいて、教養のパラメータが高い人もいる、といった具合です。その各パラメータの「水準値」というのは、そこに同じレベルでポイントを割り振る人がどれ程いるか、によると思います。つまり餅は餅屋です。彼らが歴史に疎いのであれば、あるいは情勢に疎いのであれば、それを確認する人に任せるべきです。

 少なくとも彼らの場合は、倫理だとか道徳だとか被害者感情だとかの内面規律的問題ではなくて、ただただ根本の歴史構造認識の齟齬の問題(≠歴史認識、つまり「本当はコロンブスは悪い奴だったんだ!」みたいな個別具体的な歴史認識に対する無知から生じた問題ではなく、)であって、言うなればつけていたメガネが違うだけなので、その二つのメガネがあることを知って、それを付け替えればいいだけの話です。

4. 「歴史教育」の問題:「歴史構造」の変化としての歴史教育

 しかし、歴史教育というのはその性質上、メガネの相違という形で教えることが難しいです。なぜなら、(少なくとも、よく使われる「教養」や「教育」が指すであろう義務教育範囲においては)一連の流れとして因果的に結びつけた方が覚えやすくまた教えやすいからです。もちろん、歴史というものがある意味で因果的であることは否定できません。ただ、少なくとも人文的歴史認識においては因果律的ではなく、すなわち原因によって結果の必然性が導かれるのではなく、結果として起きたことに対して原因が導かれるのです。つまり、起こった結果によって、過去的であり原因的である歴史というものが組み換えられるのです。そしてそれを歴史構造認識の相違としてのメガネに例えているのです。

 もちろん歴史的考証には科学的知見が用いられますが、それを「我々人類の歴史」として語る際には人文的歴史な言葉において、適切な言葉で言えば、廃墟論に見られるような経年価値の主観的まなざしにおいて書かれるため、注意が必要です。(例えば紙に書かれた文章と石に書かれた碑文とを見比べたとき、経年劣化というものを私たちは紙の方によりみると思いますが、科学的に考証してみないと、少なくとも現代においては歴史的には断定されないでしょう。)

5. 役に立つってなんの役?

 学校で教えるものの区分とは一体いかにして分かれるのでしょう。一つは文系/理系、もう一つは五教科/副教科ないし実技教科でしょう。これらについてよく役に立つ、役に立たないという議論が取り交わされます。そしてしばしば文系/理系の対立がこれに当てはめられます。しかし思うに、それは「何の役に立つか」という視点の違い、メガネの違いに他ならないのではないでしょうか。そもそも発見や発明とそれがいかに用いられるか、どのように役立つかというのに齟齬があるというのは、例えばダイナマイトやスマートフォン、あるいは宇宙戦略の歴史などについて考えればわかるでしょう。しかし便宜上、何の役に立つかというのを結果から原因的に措定することが必要になることはあります。では、どのように捉えるべきでしょうか。

 思うに、私は文系科目を「人の役に立つ(正確には、個人が実存として生きる上で役に立つ)」、理系科目を「社会の役に立つ(正確には、人間の総体としての社会を資本主義的システムにおいて循環させる上で役に立つ)」と実技科目を「社会生活の役に立つ(正確には、人が社会的存在として社会に順応する上で役に立つ)」といった具合に捉えるべきであると考えます。ですので、歴史認識の齟齬だけでなく軋轢が生じるのはそれが人をめぐる問題であるからであり、歴史認識が科学的考証ではなく経年価値というある種芸術的価値において人々の結びつきを強めるのは、美術が社会生活の上のものとして存在するからです。

 例えば、何か人生において実存的に行き詰まった時、普段できていていた実技的な日常行為ができなくなるのは、自身が社会から疎外されているように感じるためであり、過去の先人たちの知恵に倣おうとするのは、それが経年的歴史観において、「昔の人も同じ悩みを持っていたんだ」という人格的共通性を見出すからです。だからこそ文系科目は「人の役に立つ」というべきでしょう。

 昔でいえば、あらゆる学問の上に神学が来ていたんだ、というのは一見馬鹿馬鹿しく思えるでしょう。しかしながら昔の教会というのは村ごとにあって、そこの神父や牧師というのは、悩み事の相談から行政まで行っていました。だからこそ、あらゆる学問を学んだ人のみが神学を学ぶことができました。また、神というのはこの世界のすべてです。現代風にいえば、神について知るということは宇宙法則について知る、というような感じです。ですので算術や天文術といった法則的学問についても神学を学ぶ前には重要でした。このようにみてみると、決して前時代的とはいえず、さらにはこのような認識が「人」という存在の理解、根源的通底に役立つことがわかるでしょう。
 翻って考えてみると、大学の文系というのは左寄りの人が多いように思われます。それは、法学部であれ社会学部であれ、社会というものの根幹に人を見ていて、その「人」の実存理解が根底にあるからのように思われます。(もっといえば文学部なんかは社会の外れものや問題提起をする人の集まりのようです。)

 

おわりに. 歴史を背景とした国内の政治的対立にふれて

 国内政治における対立というのは、概して実存としての人とシステムとしての社会の対立に換言できると思います。そしてそのような対立構造である以上、後者の方が多数派になります。ここでは、少数者にとっては多数者が機械論的なエイリアンに見え、多数者にとっては侵略者的なエイリアンに見えるために政治は「闘争」になりがちです。しかし実際には、文科省によると高校3年のうちのその比率は文系7:理系3であるようです。なぜ文系が多数者であるにも関わらずこのような闘争があるかといえば、結局のところ歴史というものが発展史観のうちに弁証法的な闘争とその正統性の文脈で捉えられがちだからであるように思われます。なぜなら、私たちは歴史というものを私たちからは切り離されたものとして捉えますが、それは歴史を弁証法的な客観性から見ていると誤認し、まるでスクリーンに映し出されたものを見ているかのように、ある種戯画的に捉えているからです。そこには人間の、そして自分自身の「知を組み換える」という特徴が映し出されず、主観的な経年価値的判断に伴う同一的視点もありません。まあ要するに、「同じ人間同士仲良くしようぜ」というMrs. GREEN APPLEと同じようなことを言いたいわけでして、そのためには歴史構造の認識を学ぶ必要がある、ということも併せて言いたいわけです。今回の彼らの炎上を一言で言えば、歴史構造認識の変化の歴史を認識しているか、していないか、ただそれだけの問題です。人間としての教養だとか倫理だとか性格だとかに敷衍されるべき話でもありません。


追記:コカコーラ社の対応について

 個人的な意見ですが、コカコーラ社の締約破棄は妥当だと個人的には思います。契約という性質上それは、「曲を使わせていただいた」だとか「広告の宣伝効果にあやかった」などの恩恵的な関係ではなく対等な関係です。そして「広告」とは、企業の企業らしさ、つまり社会的影響があり、それが健全であることをアピールするものです。自分が悪かろうがそうでなかろうが代表を担うものが頭を下げることが社会的な決まり事であり、それを緩衝として溜飲を下げてもらうまでが一連です。「いかなる差別も容認してはいません」ということで問題について「スポンサーとして叱責した」という形を取るのです。見方を変えればもちろんトカゲの尻尾切りのようにも思われますが、そういった感情論はおいておくとして、少なくとも体裁としてはそうなっている、というだけです。良くも悪くも企業というのはでかくなるほど形式的になるものです。ですので企業の形式としての問題は(少なくとも今回に関しては)特にないと思います。また、(例えば今回見られた「イスラエルを支援しているのに『差別を許さない』とはダブルスタンダードだ!」みたいな、また別の歴史構造認識の相違などの)コカコーラ社の別問題に関しては、問題が複雑化するので、Mrs. GREEN APPLEを主軸とした今回の件とは別の場所で提起すれば良いと思います。


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