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姥捨山    第7章  全17章



 古木に背中を預け、玲子は意識の遠のきを感じた。遠のく世界は、白い靄が薄っすらと揺曳する。見たことのない白い靄へ、若干の恐怖を感じたが、憔悴した身体は少しも動かず、意識を引き戻すことが出来ない。焦燥はなく、諦念に至る。いや、安堵かも知れない。すると、手先の感覚が鈍り始め、迫り来る死を直ぐそばに感じた。これまでだと。

 草原を駆け抜ける風が玲子の髪を靡かせ、古木の葉を散らせた。

 その時だ。

「やあ、こんにちは」

 突然、玲子の耳に人の声が届いた。瞼を開ける力は消え失せて、聞こえてくる声へ耳を欹てた。声は前後左右のどこからか聞こえてくる。幻聴ではなく肉声だ。声の主は近い。

「目を閉じたまま、動かないで。あなたはとても疲れている」

 玲子の頬に柔らかい布が触れ、頬についた泥を拭いながら、赤児の頬を撫でるよう繊細に滑らかに動いた。深林からの脱出で憔悴した身体は、頬を撫でる布によって生気を取り戻し始めた。数日以来の人の声に安堵したからか、それとも死の恐怖から生還する喜びの力なのかは分からないが、瞼は暗示がとれたように自然と開き、眩しい光を取り込んだ。光の下には、年老いた男が独り座っていた。

「あなたは?」

「声を出すと疲れる。先ずは、これを飲みなさい」

 老人は持っていた竹筒の蓋を外し、弱々しく開いた玲子の口に竹筒を傾け、中の液体をゆっくりと流した。液体は乾き切った口内に広がり、喉を通り、腸内に流れ込み、砂地に液体を垂らすように染み渡った。

「よしよし」     

 老人は目尻に皺を作り微笑んだ。玲子の視力は少しずつ回復し始め、意識が散漫とする中、ようやく老人の顔を捉えた。老人は鼻が高く、彫りが深く、壮年期には眉目秀麗を匂わすような、気品溢れる顔立ちだった。

「ありがとう」

 玲子はお礼を述べた。老人は玲子の言葉に頷き、再び竹筒の液体を玲子の口に流した。玲子は先ほど同様に、口に含んだ液体を飲み込んだ。すると、古木の幹の凹凸が背中に伝わる。生命力に満ちた雑草の刺々しい感触が指先に伝わる。五感と意識が正常に戻ってきた。手を動かし、片眼にかかった髪の毛を払った。

「ありがとうございます。ようやく、身体が動かせるようになりました」

「それは良かった」

「ここはどこでしょうか?」

「敬語はいらんよ。この場所は姥捨山」

「姥捨山・・・。では、あなたも姥捨山プロジェクトで、こんな何もない草原に捨てられたの?」

「わしは違う。この場所に自ら踏み込んだ」

「自ら?」

「その通り。ここで会ったのも何かの縁。わしらが暮らしている村に来るかな?」

「村? 見渡す限り草原しか見えないけれど、どこにあるの?」

「まあ着いてきな。あなたの名前は?」

「玲子」

「わしは和義。よろしく」

 和義は軽やかな身のこなしで立ち上がり、歩き出した。深林に飲み込まれながら死の味を舐めた玲子は、藁にもすがる思いで和義の後に続いた。

 正円を描き大空を飛んでいた一羽の鷹は、暮れゆく夕日を目指し西の空へ羽ばたいてゆく。玲子の肉体を食せずに悔やみ、耳を擘くような甲高い鳴き声を発した。その鳴き声は遠くの山々にこだまし、草原の静けさに掻き消された。玲子は飛び去る鷹の姿を一心に眺め、鷹の餌になれなかった自分の運命へ罪を感じ、そして感覚の戻った自分の肉体へ愛着心を感じながら和義の後を懸命に歩いた。  

 連日眠っておらず憔悴しきった玲子だったが、不思議にも他人の身体を操っているかのように軽かった。竹筒内の液体が玲子の体内を流れる疲労、怠惰、不安などを昇華させたのだろうか。

「和義さん。竹筒に入った液体は何?」

 玲子は和義の背中に向かって問いかけた。和義は足を止めた。

「身体の疲れが綺麗に無くなるから、不思議だろう。我々の村で作っている液体じゃ。わしは、その液体だけで生活しておる」

 和義は歩き始め、玲子も後に続いた。

「不思議だわ。今まで味わったことがない不思議な味」

「村に着けば、沢山飲むことが出来る。素晴らしい村だ」

「ありがとう」

「礼はいらんよ」

「私って、生きていて良いのかな?」

「それは、玲子さんが決めること、わしには分からん」

 和義は静かに答えた。 

 いつしか太陽が山間に隠れ始め、精巧に闇を彫り込むように草原の影が濃くなり、夜の訪れを二人へ伝えていた。風が止み、静けさが増していた。玲子は、どんな村に行けるのだろうか、と期待と不安が錯綜していた。

 一時間程歩き、突然和義は足を止めた。

「ここが我々の村だ」

 和義の声を聞き、玲子は足元から目線を上げた。目の前に人家やビル、街灯や白熱灯などは一切見当たらない。そこには、人が一人がやっと通れる程の間隔を空け、二本のクヌギの樹が立っているだけだ。

「村はどこ?」

 玲子は眼を見開き、問いかけた。和義は真っ直ぐ前方を見ていた。

「クヌギの木の先。着いてきな」

 玲子は素早くまばたきをした。だが、玲子の目の前には、二本のクヌグの木が生えているものの、単調な草原が広がるのみで、村らし景色はどこにもない。疑念を抑えつつ、足を進めた。

 二人はクヌギの樹の間を潜った。

 すると二人の前に、古風な町家が建ち並ぶ村が、草原を掻き消し一面に広がった。玲子は足を止め、首を左右に振りながら辺りを見渡した。どこか懐かしい記憶が玲子の脳裏を掠める。それは、熱心に覚えた歴史の教科書だったかも知れない。婚前に行った京都旅行の時かも知れない。ソファに座り呑気に見入った時代劇の放映だったかも知れない。いずれも、記憶との擦り合わせだった。幻想を見ているのではないかと疑心暗鬼になり、頬を抓るが、痛みを感じた。目の前に、村は確かに存在していた。

 柔らかい灯りが町家の出窓格子から漏れ、正面に伸びる通りを淡く照らしている。

「なぜ、こんな場所に、こんな村があるの? 間違った世界に潜り込んだのかしら」

 玲子は目を擦り、目の前に広がる情緒溢れる光景を何度も見返した。

「ここは特別な村。わしの家に来て話しをするかい?」

「うん。行きたい」

 玲子の弾んだ返事を聞き、和義は鷹揚に足を進めた。玲子は通りの両側に建ち並ぶ町家を、一軒ずつ眺めながら和義の後に続いた。

 並ぶ簡素な家々は、古色を帯びた木造平屋の町家で、瓦で屋根を葺く佇まいだ。一軒一軒に人が在住し、笑い声や話し声が出窓格子から、淡い光と共に二人の歩く通りへ漏れた。玲子は、賑わった声から湖畔の温泉街で過ごした幼少期を懐古し、胸元が熱くなった。

 クヌギの樹から十軒程進んだ所で和義は足を止め、右側を振り向いた

「ここがわしの家じゃ」

 和義は引き戸を開けた。引き戸から乾いた木の音が鳴った。

「灯りを点けるから待っていな」

 和義は暗闇に消えて、数分後に奥から和蝋燭に灯りを点け、玲子の前に戻ってきた。玲子の前には、木と土の香りが漂う土間が広がった。土間の天井は低く、威厳のある大きな梁が頭上に走る。土間へ足を踏み入れ、物珍しそうに辺りを眺めた。工業製品は一つもなく、草鞋や壺、釣竿が隅に置いてあった。

「玲子さん。先に、泥濘みで汚れた身体を流すと良い。疲れただろう」

「ありがとう」

 和義は玄関の正面にある木製の引き戸を開け、奥に進んだ。玲子も続いく。

 屋外に作られた檜風呂からの湯気が立ち昇る。蝋燭と月の灯りが檜風呂を淡く照らしていた。

「着替えはこれを。タオルはこれを。石鹸はこれを。この村にはシャンプー等はないから、申し訳ないが石鹸を使って。まあ、この石鹸は品質が良く、十分だと思うがね。お湯は掛け流しだから、気にすることなく使って良い。それから、汚れている洋服はそこの竹編に入れて」

 和義は着替え等の一式を玲子に渡した。

「ありがとう」

「では。わしは家の中にいるから、何か分からないことがあったら呼んでくれ」

「わかったわ。色々とありがとう」

 玲子は深く頭を下げ、和義が土間に戻ったのを見送り、汚れた衣服を丁寧に脱いだ。深林の泥濘みで何度も滑りこけ、衣服に染み込んだ泥は乾き切り、音を立てながら剥がれ落ちた。

 洋服を脱ぎ終り、木製の風呂椅子に座った。檜風呂から流れ出るお湯が脚を伝って流れ、脚に付いた汚れがお湯に溶け出し消えてゆく。桶でお湯を掬い、頭から被った。お湯が髪の毛、肩、乳房、お腹、お尻へと流れてゆく。お湯の温もりが身体に宿していた死の気配を薄め、深林で染み付いた泥と恐怖を流し去る。再び、桶でお湯を掬い、頭から被る。この動作を数回繰り返し、石鹸で全身を洗った。全身の汚れを綺麗に洗い流し、檜風呂の湯船に浸かった。

 玲子は濡れた髪を掻き分け空を眺めた。空には月が浮かんでいた。星々は月の光に遮られ輝きを失っていた。

「はー。生きている。私は生きている」

 湯船から右手を出し、左手で右腕を撫でるように触った。お湯が腕の表面を流れ、水滴となり湯船に落ちて波紋を作る。疲労から顔を出していた鮫肌が、湯水を浴び瑞々しく新緑のように生まれ変わる。自我が芽生え、人体へ興味を持った少女のように、老年を迎えた身体を隅々まで触った。指先に伝わる皮膚の感触が、刻み込んだ死の恐怖から生還した事実を再認識させた。

 玲子の目に涙が浮かび、頬を流れ、雫となり湯船に滴った。

 檜風呂の湯船にはお湯が止めどなく流れる。お風呂場を照らす蝋燭の火がそよ風に揺れ、陽炎のように縦横無尽に動く。玲子の瞳に火が写り込み、まばたきの後に、涙で消え去ってゆく。

 身体が火照り出したため、湯船から上がり、陽の香りを含んだタオルで拭いた。そして、和義が準備した麻生地のワンピースを着た。

 下駄を履き、土間を抜け居間へ上がった。居間は十畳程と広々とし、中央には囲炉裏がある。

「いい湯加減だったかな?」

 囲炉裏脇に正座し古書を読む和義は、玲子へ問いかけた。玲子は和義と対面で座った。

「ありがとう。心身共に生き返った気がする」

「それは、なにより。ゆっくりすると良い」

 和義は微笑み、玲子の表情を眺めた。囲炉裏内の火花が囁くような音を立て弾けた。

「湯船に浸かり、死の足音が遠くへ去っていったみたい。私を助けてくれて本当にありがとう。なんとお礼したら良いのか」

「いえいえ、お礼なんて要らない。通りすがりの、老いぼれ爺さんだからね。散歩中に落し物を拾い上げたくらいのもの」

「謙遜しなくても」

「謙遜。なぜだか懐かしい言葉だな」

「和義さんは、この村にはいつ着たの?」

「かなり前になる。村に来て何年か、又わしが何歳なのか、いちいち数えるのも面倒だから忘れてしまったよ」

「必要ない?」

「そう。玲子さんが、村のこと知れば少しずつ分かると思う」

「村についてもっと教えて欲しい」

「分かった。しかし、わしの話だけで理解出来ないだろうから、少しずつ村民と話をし、自身の目で村を見ると理解が深まるだろう。時間はたっぷりある。周りは深林に囲まれているから、自宅に帰ることは不可能だ」

「うん。あの深林へ足を踏み入れたくない。例え自宅へ帰ったとしても、戸籍が抹消されてしまったわ」

 哀愁漂う声を漏らした。事実、輸送担当者が提示した同意書にサインをしたため、玲子を守ってくれる組織はどこにもなく、この村に住み、そして生きてゆくしかなかった。

 すると突然、輸送担当者に担ぎ込まれた黒塗りのワゴン車が発するマフラー音が玲子の耳元で流れた。音は遠ざかる、又近くわけでもなく不穏な音色を立て続けてた。玲子は慌て、両手で耳を塞いだ。

「どうしたの?」

 和義は玲子の表情を伺った。すると、不穏な音が消え去り、辺りは村の静けさに戻った。玲子に刻まれた恐怖が作り出した幻聴だったのだろうか。分からない。手を離し、元の姿勢に戻った。

「何でもない。話を続けて」

「この村はね、村の外部から見ることは出来ないように作られている。不思議だろう」

「だから、草原から私の目に見えなかったのね」

「その通り。先程潜ったクヌギの樹の入り口からではないと、村を見ることも入ることも出来ない」

「なぜ、そのような作りになっているの?」

「それについては、明日村を案内して説明するよ」

「この村には、和義さん以外にどんな人達が住んでいるの?」

「わしみたいな、老人ばかりだよ。三十人くらい住んでいたかな。忘れてしまった」

「老人の村。不思議な村ね」

「捨てられ、そして拾われた人の住む村だからね」

「私みたいに?」

「そう。でも、わしは自らやって来た。元々、姥捨山に興味を持っていたからね」

「和義さんは自分からやって来たと言うけれど、村には何か魅力的な物や食べ物があるの?」

「光り輝く人工的な娯楽はない。しかし、自由がある。勿論、わしにとっての自由だから、玲子さんにはちょっと窮屈かもしれんが」

「聞きたいわ。和義さんの自由について」

「まあまあ、少しずつお話しするよ。姥捨山やこの村についての理解と並行した方が良い」

「分かった」

「わしはそろそろ横になる、右の押入れの中に布団が入っているから、出して使って良い。わしは奥の部屋で寝るから」

「色々とありがとう」

「いえいえ、袖振り合うも何とやら。おやすみ」

 言葉を残すと、和義は襖を開けて奥に消えた。囲炉裏の火は小さくなり、吐息で消え去りそうな残り火を灯していた。

 玲子は押入れから布団を取り出し囲炉裏の脇に敷き、横になった。布団は多少硬かく、埃っぽい匂いが漂ったが、疲れた身体には羽毛布団のような寝心地だった。目を閉じ、自宅の寝室での記憶を追った。数日前の事であるが、遠い過去の記憶のように、繊細に曖昧に蘇った。

 囲炉裏内の木炭が燃焼して灰に変わってゆくように、玲子の夜もゆっくりと更けていった。



第8章へ続く。


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文豪方の残された名著を汚さぬよう精進します。