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姥捨山    第5章  全17章



 玲子を乗せた黒塗りのワゴン車は、高速道路を降りて細い農道を走り、舗装のない険しい林道に入った。林道は杉の葉が敷き詰められ、左右から小枝や枯れ草が飛び出している。暫く走ると、林道は行き止まりになった。しかし、ワゴン車はアクセルを緩めることなく、膝丈程まで草が伸びている草原を走り続けた。泥濘みを勢い良く走り抜け、ワゴン車の側面には、飛び散った泥が歪な模様を描いた。寝せらた玲子は、五感の二つを遮断され、胸が裂かれるような恐怖を味わっていた。口を覆われていないため言葉は発することが出来る。しかし、浮かぶ言葉は喉奥で止まった。

 輸送担当者たちは任務の遂行のため、車の前方を直視し、会話する事なく目的地へと車を走らせた。

 名もなき僻地の奥深く、ワゴン車は目的を果たし、高鳴るエンジン音を止め、周りの音に溶け込むように停止した。玲子は輸送担当者によってワゴン車から降ろされ、着けている目隠しと耳栓が丁寧に外された。玲子の目の前に、深林の世界が広がった。辺りには人の気配がなく、人工物と呼べるものも一切ない。空間を奪い合うように茂る木々が、玲子を切り裂くように睨みつける。玲子は身震いをし、輸送担当者の顔と見た。輸送担当者がかけるサングラスが深林の闇と同化し、漆黒の輝きを放った。

「我々はここまでです。では、失礼します」

 輸送担当者の一人が冷淡に言い捨て、ワゴン車の扉へ手を掛けた。

「私は、これからどうすれば良いのでしょうか?」

 玲子は深林の恐怖に怯えながら、輸送担当者へ問いかけた。

「我々には分かりません。我々の仕事は該当者をここまで輸送することです」

「あなた方は、帰るのですか?」

「はい。勿論です。任務遂行しました」

「ここは、日本のどこでしょうか?」

「それは、申し上げることができません。また、例え申し上げましても、あなたが自力で人里に辿り着くことは不可能な場所です」

「私は死を宣告されたことと同じ事でしょうか?」

「いえ。あなたはまだ生きております。我々は殺してはおりません」

「ここまで連れてくるなんて、殺したと同然です」

 玲子は頼みの綱である輸送担当者に嘆いた。しかし、玲子の嘆きは空を切り、輸送担当者は微動だにせず仁王立ちしている。

「あなたの心臓は動いています。そして、呼吸もしています。生物学上では、生の状態です。我々は任務遂行です。失礼します」

「そんな・・・」

 玲子は弱々しく呟いた。輸送担当者たちは玲子に一礼し、ワゴン車に乗り込み力強く扉を閉めた。車の扉が閉まる音は、玲子と輸送担当者の最後の繋がりを断ち、そして孤独の淵へ投げ込むために鳴り響く合図のような轟音だった。

 玲子は去ってゆくワゴン車が灯す光を眺めた。ワゴン車のマフラーの低音が深林の静けさを透き通り、耳に飛び込んできた。長時間、耳栓で聴覚を遮断されていたため、マフラー音が悪魔の奏でる旋律のように聞こえ、咄嗟に両手で耳を塞いだ。すると、マフラー音は遮断され、血流音がさらさらと鼓膜を揺らした。

 走り去るワゴン車は深林の中に溶け込み、玲子の視野から消え去った。

 ワゴン車が去った後、深林の放出する闇が玲子の体を蝕み始めた。太陽の光は届かない。辺りは初冬のように肌寒く、聞いたこともない奇声が響き渡る。

「逃げなきゃ。木が、獣が、襲ってくる」

 震えた声を発し、玲子は全力で走り出した。例え無謀なことであっても、輸送担当者の車に追い付き、深林の闇から解放されたいと渇望した。足元に残されたワゴン車のタイヤ跡を必死で探しつつ、走り続けた。

 腰まで茂る草が、玲子の足に絡みつき行く手を塞ぐ。運動は苦手だ。数十年ぶりの全力失速は、広大な深林では毫末な距離に等しい。直ぐに息が上がってしまい、走る足を止めてしまった。いつしか、ワゴン車のタイヤの跡は跡形も無く茂る草に飲み込まれていた。

 深林に立ち尽くし、逼迫した表情を浮かべ空を眺めた。玲子の何倍も背丈のある木が茂り、僅かな光しか目に届かない。目は光を欲していた。僅な光、燐寸のような微かな光でも構わない。

 暗闇の中を三日三晩、迫り来る闇から逃避するため、光を求め歩き続けた。守や子供たちのこと、自宅のことなどは、一切考える余裕がなかった。

 

 早朝、深林を脱出し光に満ちた草原へ出ることが出来た。朝日が眩しい。それから足を引きずるようし、草原に生える古木まで辿り着いたのだった。


第6章へ続く   


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文豪方の残された名著を汚さぬよう精進します。