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姥捨山    第3章  全17章



 平屋の玄関が、勢いよく開いた。

「こんにちは」

 渋く深みのある男の声が、家内中に鳴り響いた。玲子は庭を一望出来る縁側に佇む椅子に座り、守へ贈る冬用のマフラーを編んでいた。午後から近所の友人とお茶をする予定があり、午前中に化粧を終えて、心身共に平安だった。

「どなたかしら?」

 凝らしすぎた目を緩和するために数回のまばたきをし、重い腰を上げ、編み上がりを待つマフラーを足元に置いた。宅配便か新聞の集金だろう、と呑気に考えながら玄関へ向かった。玄関まで続く廊下は、玲子が行う掃除の恩恵を受け、光を煌びやかに反射させた。

 玄関には、空間を窮屈にする大男が二人立っていた。身長は二メートルを優に超える。男は瞳を隠す真っ黒のサングラスをかけ、黒のスーツを着こなし、黒い光沢のある皮靴を履いていた。その風柄は豹をも倒すような威圧感を放っていた。玲子は黒いスーツの男たちに圧倒されつつも、家を守る一人の主婦として言葉を放った。

「何かご用ですか?」

「突然の訪問、誠に申し訳御座いません。我々は、姥捨山プロジェクトの者です」

 男の一人が、低い声色で返事をした。男の言葉は無表情から繰り出す、冷淡な深みのない義務的な口調だ。男は胸ポケットから名刺を取り出し、玲子に渡した。名刺には、

『姥捨山 輸送担当 〇〇〇〇 公安委員会 電話番号 〇〇〇〇』

 と記載されている。 

 名刺の文字を追う玲子は、唐突な出来事に頭が真っ白になり、その場に立ち尽くした。輸送担当の一人が、玲子の立ち尽くす姿を気にとめることなく話しを続けた。

「貴方、奥山玲子さんは、姥捨山行きに選ばれました。今から、時間を二十分与えます。至急準備をしてください」

 輸送担当の言葉を聞き、玲子は力限りの思索を試みた。しかし、良策等は何も浮かばず、弱々しい声を出した。

「選ばれたって言われても、一体何を準備すれば良いのでしょうか?」

「ご自由にどうぞ。もう一分経過しました。残り十九分になります。えー、過去の該当者の方々は、書き置きをする人もいましたし、家族に電話をする人もいました。逃亡を試みる人もいました。しかし、貴方も見てわかる通り、我々から逃れる事は不可能です。この無益な会話の最中も、大事な刻々と時間が経過しています。以上です」

 輸送担当の一人は、身体を寸分も動かすことなく冷酷に言い放った。

「分かりました」

 玲子は輸送担当の言葉を聞き、刻一刻と迫り来る時が、首元に突きつけられた鋭利なナイフのように恐ろしく感じた。だが、心とは裏腹に冷静な声色で返事をし、小走りで縁側に走った。廊下の拭きあげた光沢は不幸へと誘う輝きに変貌し玲子の全身を襲う。姥捨山プロジェクトの該当者になるとは思ってもおらず、何をするべきか検討もつかず困惑した。

 守や子供たちへ電話をかけるために、携帯電話を握りしめた。しかし、働く三人は平日昼間は忙しく、電話を取る事が出来ないだろう。過去の経験が蘇り、勝手に動く人差し指が、携帯電話の電源を落とした。それから、縁側に座り込み、足元に転がる編みかけのマフラーを手に取り編み始めた。嫌なことや不案なこと、心悩むことがあると、玲子はいつも毛糸の柔和な手触りを楽しみつつ編み物をする習慣があった。身に染み込んだ習慣からか、このような窮地でも同じ行動をとった。編み針を持つ手が震えていたが、一針ずつ編み進めると、震える手も徐々に治った。

 無音の時間が縁側、庭先、玲子の視界に飛び込む形ある物の上を清流のように流れる。玲子は、寒冬にマフラーを巻きながら出社する守の姿を頭に浮かべながら、丁寧に編み進める。

「守さん。ありがとう」

 マフラーを編み終わり、床に置いた。同時に、これまで体を支えていた緊張が解け、筋肉が緩み、編み針を床に落とした。編み針は乾いた音を立てながら床を転がり、窓際で止まった。玲子の目にはうっすら涙の雫が浮かんだ。

「奥山玲子さん、お時間です。こちらまで戻ってきてください」

 輸送担当者の声が家中に響いた。玲子は全身が極刑の宣告を受けたかのように強張り、一歩一歩と足を引きずるように玄関へ向かった。

「出発の準備は整いましたか?」

「はい。大丈夫です」

 玲子は、弱々しく返事をした。

「では、玄関に降りて靴を履いてください」

 玲子は指示に従い玄関に降り、普段履いている靴を履いた。

「ここにサインをお願いします」

 輸送担当者の一人が、多くの文字が櫛比する一枚の紙を取り出した。玲子は紙の空白に蚯蚓のようなサインをした。玲子がサインをした紙には、玲子の名前、姥捨山の該当者である趣旨、財産の権利放棄の同意書、国からの感謝の言葉など複数の重要事項が記載されていたが、玲子の目には何一つ入らなかった。目に残す必要もない。もう、この家には帰れないのだ。

「では、この目隠し、そしてこの耳栓をしてください」

 輸送担当者の一人が、玲子に黒い目隠しと耳栓を渡した。玲子は耳栓をし、そして目隠しをした。目隠しで目を覆う直前、下駄箱の上に生けた玲子が育てた薔薇の花の赤色が玲子の目に飛び込んだ。薔薇の赤色は、この家で観ることの出来る最後の色彩として、玲子の瞳に激しく焼き付いた。

 玲子の白い腕に、輸送担当者の筋肉質で分厚い皮の掌が触れ、強く引っ張った。玲子は引かれる力に身体を預けゆっくり歩いた。視界を奪われているものの、数十年毎日歩き続けた庭の感触が足裏に伝わり、おおよその位置は容易に推測出来る。

 庭先には姥捨山該当者を輸送する黒塗りのワゴン車が止まっている。輸送担当者の一人がワゴン車後部席の扉を開けた。特注車の車内は、一人が横たわれる仕様に作り変えられている。玲子の腕を引いていた輸送担当者が玲子を抱え上げ、車内に連れ込み、横に寝かせた。玲子は見えない恐怖を全身で感じ、手足は細かく震えた。しかし、逃げることの出来ない状況を飲み込むしかなかった。輸送担当者の腕力が尋常ではない事は、視覚を塞がれても分かる。

 輸送担当者が扉を閉め、庭先からワゴン車は走り出した。ワゴン車のマフラーが奏でる重低音は、近所中に不気味な音色として響き渡った。閑静な住宅街には溶け込めない異音だ。横たわる玲子は、揺れる振動を背中で感じた。

「守さん」

 玲子は守の名前を呟いた。小さな口から漏れた呟きは、輸送担当の男たちに耳に届かない程の小声だった。

 ワゴン車は加速してゆく。

「やれやれ、この仕事は何人目でも慣れることは出来ないな」

「俺も同じだ。仕方ない、国から与えられた名誉ある仕事だ。最後まで、真っ当しよう」

「それもそうだな」

「さあ、目的地へ急ごう」

「オーケー」

「今回の女性は、あっさり引き受けてくれたから良かったな」

「ああ、前回の女性は泣き叫ばれ大変だったからな。危うく噛みつかれそうだった」

「人生、引き際が大切なのかもしれない」

「引き際か。確かにそうかも知れない。この仕事は、生き方の教訓になるな」

「教訓か。正にその通りだ」

 輸送担当の男たちの会話は、暫く続いた。勿論、耳栓をした玲子の耳には何一つ入らなかった。




第4章へ続く


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