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姥捨山    第6章  全17章

  


 胸ポケットから、甲高い音が鳴り響いた。仕事の癖が骨の髄まで染み込んだ守は、反射的に携帯電話の応答ボタンを押した。

「おはようございます。守さん、出社時刻が過ぎていますが、何処にいらっしゃいますか?」

 部下の声が携帯電話から溢れ出す。

「もしもし・・・」

 守は蚊の鳴くような声で返事をした。

「良かった。無事なんですね。欠勤をしない守さんが出社されないので、全員心配していたんですよ。今、どこですか? 電車が遅延していますか?」

 部下の張りのある声が、守の耳へ雑音となって届く。

「悪い、しばらく会社を休む。いつ復帰できるかは未定だ」

「守さん。守さん。大丈夫ですか?」

 携帯電話からは、部下の声が途切れることのないアラームのように鳴り続けた。守は携帯電話を耳元から外し、終話ボタンを押し、そして電源を落とした。画面が真っ暗になると、次第に握り込む力がなくなり携帯電話を落としてしまった。携帯電話は空っぽな音を立てながら床の上を数回転がった。

 部下の甲高い声の木霊が消え、静けさに包まれた縁側。山間から顔を出した太陽は、守と縁側、そして庭先に咲き乱れる薔薇の花を平等に照らしていた。空は雲一つない快晴だった。縁側に不恰好に座る守は、一睡もする事なく、ただただ涙を流し続けた。季節外れの雨季のようだ。守の足元には、玲子が編み上げた青色のマフラーが転がり、溢れる涙を吸い込み、毛糸の持つ本来の柔らかさが消えて未知の生命体のように重くなっていた。

 守はマフラーを持ち、弱々しく立ち上がった。その姿は産まれたての子牛のように脚が細かく震え、いつ転倒してもおかしくない様子だ。それでも水を欲していたため、脚を動かし薄暗いリビングへ向かった。目を瞑っていても歩ける距離も、疲弊した守にとっては茫々たる砂漠を歩くような、過酷な距離だった。

 キッチンに辿り着き蛇口を捻り、冷水を飲んだ。滝のように流れ出す水が唇に当たり、口内、喉を通り、胃腸に流れ込む。息継ぎもせずポンプ車が給水するように、同じ姿勢で水を飲み続けた。

 どの位の水が蛇口を伝い守の身体へ流れ込んだのだろうか。いつしか胃の許容値を超えてしまい、蛇口から口を離し、流れ出る水を止めた。守のお腹は丸々と膨れ上がり、餓鬼のように変化した。顔を上げ、薄暗い天井を見つめた。天井には、玲子と二人で歩んだ月日の情景が投影され、何事もなかったように消え去ってゆく。守の目から再び大粒の涙が流れ出た。そして、流れる涙と合わせるように、飲み込んだ膨大な水が逆流し始め、守の喉元を激しく刺激する。

 苦しくなった守は、シンクへ顔を埋め、飲み込んだ水を一気に吐き出した。昨日の昼以来、固形物を食べていないため、口から出るものは全てが液体だ。吐き出る透明の液体は、いつしか胃液や胆汁が混じり、薄緑の液体に変わった。

「玲子・・・」

 吐き出す液体に混じり、玲子への愛着の声が漏れた。

 大量の水を吐き出し、膨れ上がったお腹は凹み、元の引き締まった身体に戻った。激しい嘔吐で頬は浮腫んだ。蛇口をひねり、体内から吐き出した大量の液体を下水に流した。液体が下水に消え、シンクが元の輝きに戻ったことを確認し、ゆっくりと顔を上げた。

 突然、守の目の前に黒煙を纏った黒い塊が浮かんでいた。その塊は、人間の顔ほどの大きさで、二つの狐のような目があり、裂けるように広がる口、鰐のように尖った牙が付けていた。守は黒い塊を真っ直ぐ見つめた。不気味だ。しかし、謎の黒い塊がゆらゆらと浮遊するとこへ驚嘆しなかった。玲子が姥捨山に消えたことに比べれば、黒い塊が浮遊することなど、瑣末なことだ。

 無言の睨み合いが続く。蛇口から滴りシンクで弾ける水滴の音が、秒数を数えていた。

 守が口火を切る。弱った身体から言葉を絞り出した。

「お前は?」

「俺の姿が見えるのか?」 

 黒い塊は答えた。地鳴りのような低音の声だった。

「勿論だ。はっきりと見ることが出来る。薄気味悪い、真っ黒い塊だ」

 守は言い捨てた。

「この醜い姿の俺は、お前が母親の子宮から出てきた瞬間に、お前の体内で作られ、それ以来ずっとお前と共に成長してきた塊だ。本来なら体外へ出る事は絶対に無い。それが常だ。体内に宿り、成長し、腐敗し、そして死と共に消えゆくもの。しかし、先程の激しい嘔吐で耐えきれず、体外へ出て来てしまったようだ」

「こんな不気味な塊を宿していたとは」

「不気味? このような醜い形に形成したのは、お前自身だ」

「俺が作った?」

「その通り。お前が過去に吐いてきた言動、それによって派生する負の感情、連鎖する憎しみが俺の醜い姿を形作った。原来、宝石のように可憐で透き通った塊なのだ。でも、燻んでしまった。まあ、今のお前には理解不能だと思うが」

「憎しみ? この俺が、そんな訳はないだろう」

 守は眉間に皺を寄せた。

「だから、お前には分からないと言ったはずだ」

「こんな疲労した時に根も葉もない戯言を言われるなんて不愉快だ。目の前から消えてくれないか? お前の顔も見たくはない」

「もう、体内に戻ることは出来ない。吐いてしまった悪口を取り消せないように、俺の存在を消すことは出来ない。今はお前の側で浮遊する。それが俺の仕事だ」

「疫病神だな」 

「お前の作り上げた姿だ。お前の側にいる事が俺の仕事だ」

「分かった。分かった。少し横になりたい。徹夜と先程の嘔吐で、深い眠りを欲している」

「勝手にするが良い」

 黒い塊は笑みを浮かべた。守は蛇口を捻り、青いマフラーをシンクで洗った。染み込んだ涙が水に溶け出し、下水へと消えてゆく。洗い終えたマフラーを強く絞って水気を切り、縁側に向かった。浮遊する黒い塊は、守の後を追った。

 縁側の床は、陽だまりが出来ていた。守は陽だまりの中へマフラーをそっと置いた。

「それは、大事な物なのか?」

 黒い塊が守へ問いかけた。

「ああ。玲子が残した最後の贈り物だ」

 守は庭先を眺めた。赤い薔薇の花が咲いていた。薔薇の花は、玲子が連れ去られる一部始終を傍観していたはずだが、言葉を漏らすことなく無慈悲に咲き乱れていた。

 寝室に移動し、押入れから布団を取り出し敷いた。家事をやらない守の手で敷いた布団は、手際が悪く至る所に皺が目立った。だが、皺を伸ばす気力は残っておらず、皺だらけの布団へ倒れこんだ。

 瞼を閉じると睡魔は直ぐにやってくる。睡魔に溶け込み、海のように深い眠りへと潜っていった。全てが偽りの物語であってほしいと願いつつ。

 黒い塊は浮遊しながら、守の寝姿をいつまでも俯瞰した。



 第7章へ続く


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文豪方の残された名著を汚さぬよう精進します。