深水家の Three Men


序章[たとえ明日が来なくても]


#1

 青く広がる空。明るい太陽。その日差しは強くてうしおは手をかざして遠く広がる海を見た。
 深水ふかみうしお。21歳。大学3年の夏を謳歌していてもおかしくない彼は、突然独りきりになった。母とは死別、父と二人暮らしだったが、心臓に欠陥を抱えていた父は手術に耐えきれなかった。
 
「葬式は要らないぞ。面倒だろうから会社にも挨拶だけでいい」
「寂しくない?」
「死んでるのにか? お前がしたいなら好きなようにすればいい。俺は気にならないから」
「でもさ、墓とかそういうの、俺知識無いよ」
 父は夢見るように言った。
「散骨がいいなぁ。どこでもいいよ、天気のいい時に青い空の下で撒いてくれれば」
「それでいいの?」
「いいよ」
「どこの海がいい?」
「あまり人の来ないような海がいいな」

 手術前のほんの戯れのお喋りだった。医師は70%以上の確率で成功すると言っていた。
 だが父は残り30%の中に沈んでいった。
 互いにいつかこうなると思ってはいたが、それが
(今だなんて)

 仲が良かった。まるで兄弟のように父と笑いあって日々を暮らした。会社は父の在宅勤務を認めてくれていたから、送られてくるデータを空いている時間まとめては送信していた。
 時には、動けない父に代わって汐が仕事を片付けた。会社の購買記録の精査と、見積もりを取って業者に発注。仕事が切れることは無かったが内容は単調で、父が横になっているベッドの脇で処理していくのは楽しかった。
「これってさ、インシデントになんないのかな」
「問題が起きればそうなるかもな」
「野菜とか買っちゃったり?」
「そうそう。だめだぞ、参考書なんかも」
 いつも冗談めいて話をする父子だった。

 少し感傷めいてそんな時間を思い出す。帰って、何ごとも無かったかのように暮らすことなど出来ない。今は8月の頭。3月までの休学届を出していた。今は友人たちに会うのも鬱陶しい。
『ひとり暮らしだろ? 泊りに行くよ』
 それは嫌だった。まだあの家は自分と父の聖地だ。
 あと一週間はここで過ごすつもりだ。現実感など、今は欲しくない。だから海を見る。ただ砂浜を歩く。

 誰かが走ってくる音が聞こえた。この浜はホテルのプライベートビーチだから人は少ない。思い切って高いホテルにして良かったと思う。宿泊客は落ち着いた年齢層が多い。
 自分には関係のない足音……のはずだった。

「見つけた!」
 後ろから突然抱き疲れて、前につんのめりそうになる。腰に回った手は白くて細い。
「良かった、遅いから心配したんだ」
 間違いだ、と手を振りほどいて後ろを振り返る。
 息を飲んだ。肩より長い髪が風にそよいでいる。カラーリングしているのだろう、薄いアッシュがよく似合っている。白い顔に相応しい大きな目と浮き出たような赤い唇。
(女の子……、いや、胸がないから男の子か)
 今度は前から抱きつかれた。
「もう! 何とか言ってよ!」
「きみ、俺は」
「しっ」
 汐の肩ほどに汗ばんだおでこがくっついている。汐の身長は172センチある。その胸からくぐもった声が聞こえた。まるで変声期前のような少年の声。
「お願い、助けて! 後ろからスーツの男が来てるでしょ」
 見れば確かにこのクソ暑い中で夏仕立てだろうとは思うが青いスーツの男が歩いてくる。
――ざくっ、ざくっ
 と砂の上を歩く落ち着いた音が聞こえた。
「あいつに狙われてるんだ、きっと変態だよ! 俺、あきら、お願い、待ち合わせに遅れたふりして、恋人みたいに!」
「こ……、俺は男だぞ、きみもだろ?」
「いいから名前教えて!」
「汐だけど」
 勢いのままに名前を教えてしまう。
「うしお! 待ってたんだから!」
「お、おう、待たせて悪かったな、あきら」
 スーツの男性の足が止まる。少しふっと笑って軽く会釈をするとそのまま引き返して行った。

「行っちゃったよ」
「もう少し! 振り返ったら困るから! お願い、さっきみたいに抱きしめて」
 仕方なくその細い体を抱きしめる。バスケットをやっている自分なら、軽々と抱き上げることが出来そうだ。
「もう大丈夫だろう。少し一緒にいてあげるよ」
「うん、ありがとう」
 見上げて来た目にはきらきらと夏の光が反射して、けれど儚げだった。

 少し歩いて昌が立ち止った。隣を見ると真っ青な顔だ。
「どうした、具合が悪い?」
「すこし、……はしった、せい……う、」
 Tシャツの胸のあたりを掴んでうずくまりそうになる昌を、掬い上げるように抱き上げた。
「どこかで休もう!」
 そうは言っても木陰が遠い。砂はきっと焼けるように熱いだろう。
「我慢出来そう? だめなら救急車呼ぶよ!」
「うう、ん、すぐ、おさまるから」
 それでも苦しそうな顔は青くなるばかりだ。
「ぽけ、とに、くすり、」
 汐は昌を抱いたまま、熱い砂に膝をついた。昌が着ているパーカーのポケットには何もない。
「じーん、ず、」
「分かった!」
 ポケットを探るとすぐに小さなビニール袋が見つかった。
(これ……)
 粒を取り上げて迷わずに口に持っていく。
「べろ、上げて」
 その下に薬を入れてやった。ニトロだ。これは水が要らない。すぐに溶けて即効性だ。みるみる状態が安定した。

 抱いたまま立ち上がる。
「すぐ近くにあるホテルに泊まってるんだ。そこに連れてってもいい? 多分ここから一番近いから」
 まだ青い顔の昌が頷く。
(父さんの飲んでいた薬だ)
きっと心臓が弱いのだ。そう思うだけで自分の胸が苦しくなった。


#2

 ホテルに着く頃にはもうお喋りが出来るほどに回復していた。
「下ろしていいよ、歩けるよ」
「まだだめだ、いいからじっとしてて」
 フロントでキーをもらって、4階の自分の部屋に連れて行った。広い部屋を取っている。そのベッドに昌を寝かせた。
「ご両親に連絡しようか?」
「いいんだ。うしおは? 一人なの?」
「そうだけど。あきら、年はいくつ?」
「16。11月で17になるんだよ。……多分」
 最後の言葉は呟くようで、汐の耳には入らなかった。
「16? 高2か。ね、お家の人に電話入れた方がいいよ」
「俺も一人なんだ、だからいいの」
「一人って、一人旅ってこと?」
「うん」
 なにか事情があるんだろうか。心臓が悪くて一人旅などいいわけがない。昌に父が重なって見える……
「うしお、薬のこと分かるんだね」
「ニトロのことか? 父さんが飲んでたから」

 すんなりと過去形が出てきた自分にショックを受けた。立ち上がり、冷蔵庫に向かう。零れそうな涙を指で払って冷蔵庫を開けた。
「なにか飲む? 種類はあんまりないけど。水、お茶、コーラ、」
「水がいい」
 ペットボトルを持って、ベッドの脇にソファの椅子を持って行った。
「ありがとう」
「旅行先でも誰かに連絡取った方がいいよ」
「本当にいいんだ。お父さん、死んじゃったの?」
「うん。手術中にね。体力が無かったから」
「そうなんだ……」
「きみは? どんな」
「心臓の話なんかしたくない!」
「……ごめん。そうだね」
 波の音がここまで聞こえてくる。そのまま話が途絶えそうになった。
「俺、高遠たかとおあきら。高くて遠いって書くんだよ」
「あきらは?」
「日が重なってるヤツ。繁盛するって意味があるんだって。親父ってさ、すごい儲け主義だから俺の名前にまでそんなの付けたんだ」
 なんと返事を返したらいいのか分からなくなる。
「俺はいい名前だと思うよ」
「ほんと!? うしおは?」
「俺は深い水で、深水。汐はさんずいに夕方の夕」
「きれいな名前だね」
「父さんがロマンチストだったんだ」
 また過去形だ。思わず両手に顔をうずめた。
「汐?」
 ため息をついて顔を上げた。
「ごめんね。葬式で来たんだ。散骨っていうの、分かる?」
「海に骨を撒くことでしょ? 俺もそれがいいって思う」
(こんな話するなんて)
 同じ病気の子どもにする話じゃない。汐は話を変えた。
「どこに泊まってるの?」
「俺? このもう少し先の別荘にいるんだ」
「別荘? 一人でなにかあったらどうするんだよ!」
 声を荒げてしまう。親も親だ。なぜ……。
「家出。だから一人。ウチの親はどうせ忙しいし、顔合わせることも少ないし。だから逃げ出してきたんだ」
「いつ帰るつもり? ずっと家出ってわけにもいかないだろ?」
 汐としては心配になる。この状態で一人になど出来るわけがない。
「決めてない。帰りたくないし」
「一人でいるのは良くないよ。また発作が起きたらどうするんだ」
「別に……いいよ」
「いいわけないだろっ」
「汐?」
 父を思い出してしょうがない。学校から帰ると倒れていたことが何度かあった。そのたびに救急車を呼んで……
「じゃさ、汐来てよ」
「来てって」
「別荘に。それともすぐに帰るの?」
「予定は無いけど。でも」
「一人になるなって言うけど、俺、家になんか帰る気ないもん。汐となら一緒にいてもいい」
 汐も一人になりたくてここに来た。一週間くらいと思っていたが予定があるわけでもない。帰れば独りを噛みしめるだけだ……。
 父の散骨がきっかけで知り合ったのは何かの縁かもしれない、そんなことを思った。
「分かった。行くよ。持ち物整理するから待ってて」
「ホント!? 嬉しい!」
 素直に感情を表す昌が眩しい。少ない荷物はあっという間にまとまって汐の用意が出来た。
「動けそう?」
「うん、大丈夫!」
「じゃ、行こうか」
 ホテルのチェックアウトを済ませて外に出た。

 もう日が傾いている。出歩くにはちょうどいい時間だ。はしゃいでいる昌に注意しながらゆっくり移動した。
(父さんの世話をしてるみたいだ)
それが心地よかった。父もなにかあればすぐ羽目を外した。茶目っ気のある父で、どっちが親だか分からないような……。

「遠いの?」
「ううん、そうでもない」
 ホテルの横の細い道を辿る。散歩は何度かしていたがその辺りに足を延ばしたことは無かった。
 木陰の中を歩く。靴の下の土の感触がいい。今は自然の中が落ち着く。蝉が鳴いて風がそよぐ。葉擦れの音を聞いていたい。
「気持ちいいね、今日は」
「うん」
 時々、空気の匂いを嗅ぐように昌が上を向いて息を吸う。気持ちを共感できる相手なのだと、年下相手にそんなことを思えた。

 15分近く歩いてログハウスが見えた。
「大きいね!」
「無駄に金使ってるから」
 自嘲めいた響きは無視することにした。新しくはない建物は周りの緑に溶け込んで、そこに息づいているように見える。
 木がきしむ音を聞きながら階段を上がりそのまま玄関を開ける昌に驚いた。
「鍵、かけてないの?」
「意味無いよ。なにも無いし」
 昌の後について入ると、外観に相応しい内装だった。
「暖炉があるんだね!」
「夏しか利用しないのに暖炉があることが俺には理解できないんだ」
「それはそうかもしれないけど」
 こういう贅沢なら味わうのは嬉しい。床も二階に上がる階段も、全てが木でできている。
「こういう木造って贅沢だよ。変な意味じゃなくて。味わえるって言うのかな…… 設計した人のセンスなのかな」
「……じいちゃん。じいちゃんが建てた時はもっとシンプルだったんだ。暖炉とかそういうのつけたのは親父だから。キッチンだって最低限だったのに今じゃシステムキッチンなんかになっちゃってさ」
 テーブルの上には一抱えの紙袋が載っていた。中身をガサゴソと出す様子を眺めていた。現れてくるのはフランスパン、卵、牛乳、オレンジジュース、りんご、ウィンナー、トマト、ブロッコリー、レタス……
「この近くに買い物できる店があるの?」
「無いよ」
 短い返事だからそれ以上聞くのをやめた。昌のプライベートに踏み込む気なんかさらさらない。
 ログハウスの中を眺めた。玄関を入って右手にリビング、ダイニング、キッチンと続き、階段は玄関の正面だ。左手に和室が見えて、その奥が多分トイレやバスルーム。一般の家庭ならありふれているだろうが、別荘としては和室がある分広い方だろうと思う。
「あ、トイレとお風呂はそっちの奥」
 思った通りの場所だ。
「寝るの、2階でいい?」
「いいよ」
「寝室3つあるから空いてるとこ好きにしていいからね」
「ありがとう」
 これまでの話の様子から資産家なのだと分かる。ちょっとしたチェストなんかはアンティークなのかもしれないと思った。

 食品を片付けている昌に声をかけた。
「なにか手伝おうか?」
「んんと、今から夕食作るつもりなんだけど」
「昌が?」
「俺しかいないし」
「料理が出来るとは思わなかった!」
「するよ。食事コントロール自分でしてるから」
 そうだった。父の食事を作っていた時も脂分や塩分などに気を遣ったものだ。
「慣れてるから手伝うよ。一緒にやろう」
 その言葉で昌は照れたようだ。
「うん、じゃお願い」
 ブロッコリーを茹でて、レタスやパプリカと一緒に盛る。それに茹でた豚肉でしゃぶしゃぶサラダだ。ご飯は簡単なトマトスープのリゾット。そしてオレンジを切る。
「すごいね、ちゃんとした夕飯だ」
「でもレパートリーとしてはこれが基本なんだ。サラダとリゾットとフルーツ。味付けが変わるだけ」
「でもバランスが取れてるよ」
 サラダにはドレッシングが3種類あるから、それでも楽しめる。

 食事を終えて、昌と一緒に紅茶を作った。と言っても、ティーパックだ。
「汐はコーヒーが好きなの?」
「好きだよ」
「じゃ」
 チェストの上のメモ帳を取って来る。それにコーヒーと書いた。どうするのか見ていると、それを玄関に持って行ってドアの外に画びょうで貼った。
 汐の視線を感じて、「買い物しないから。これで届くんだ」と説明した。
「誰かが見に来るってこと?」
「うん」
「それで買ってくるの? ……あ、さっきの食品の入った袋もそうだった?」
「うん」
 なんとなく分かってきた。突っ込んで聞かれたくない時には昌の返事が少なくなる。だからそれ以上は聞かなかった。
「いつもなにしてんの?」
 テレビも無い。ここでどう時間を潰しているのか。
「散歩することが多いんだ。星を見たり、風に吹かれてたり。裏にブランコがあるんだよ。そこに座ってぼんやりしてたりする。外に出たくない時は本を読んだり。かったるくなったらソファに寝転がってたり」
「今どきじゃないんだね! きみくらいならゲームやったりするだろ?」
「時間が…… 消えちゃう気がするよ、そういうの」
 思ったより症状が重いのか、と思った。父も手術が近づいて良く言っていた、「時間を大切に使いたい」と。

「体は? もう落ち着いた?」
「大丈夫だよ。ごめん。今日はさ、ちょっと疲れたから先に休んでいい?」
「もちろんさ! 具合悪いの?」
「ううん。ホントに疲れただけ。えっと、……なにも無いんだ、ここ」
「いいよ。俺ものんびり旅行気分で来てるし。小説も持ってきてるから」
 ホッとした顔だ。
「そうだ」
 昌は玄関のメモを持ってきた。
『室内で2人で遊べるもの』
「ずい分大雑把だな! それでいいの?」
「いいんだ。……後は勝手に判断するだろうし」
「え?」
「ううん、何でもない! じゃ、おやすみなさい」
「お休み。ゆっくり寝ろよ」
「そうする」
 昌は階段を上がって行った。

#3

 汐は散歩に出てみようと思った。夜の浜を歩くのが好きだ。明かりと言ったら空と、コテージやらホテルやらのちらほらしたわずかな光だけ。だから解放感がある。
 玄関を出ようとして迷った。鍵をもらっていない。昌は気にした素振りも見せなかった。散々考えて、メモをテーブルに残した。
『ちょっと浜を歩いてくる。20:15 汐』
(明日鍵のこと確認しないと)
出来れば合鍵が欲しい。自分の荷物もたいした物はないが、安全面から言っても絶対あるべきだと思う。

 月は半欠けだが、薄い影を作るほどには明るかった。浜まで来ると広がる波の音に光が揺らめいていて幻想的だ。
 汐は海に向かって座った。来たばかりの頃はこうやって何時間も座っていた。思うのはいつも父のことだった。
(父さん。もっと他の話をすればよかったね、墓の話だなんてバカみたいだ)
 最初の夜はそれで泣いた。
 次の夜はあれもこれも、し足りないことばかりが浮かんで悔やんで泣いた。
 そしてもう泣くのをもうやめようと思った。
 家に帰ったら父の日記を読もうかと考えている。読まずに焼いてしまおうか、そんな思いもまだ持っているが、好奇心というより父の思いを知りたい。肝心なことを何も話さずに逝かれてしまったようで。

「こんばんは」
 思いの中に漂っていたから声をかけられて飛び上がりそうになった。
「あ、ごめん。驚かせてしまったね。足音で気がついているかと思ったんだ」
(誰?)
 それが聞こえたかのようにその男性は自己紹介をした。
仁科にしな大樹ひろきと言います。昌の付き人のようなものなんだけど、どうも嫌われていてね。隣、座ってもいいかな?」
「はい」
 返事はしたが分かっていない。
「あれ? もしかして分からない? 昼間、昌が俺のことストーカーみたいに言っただろ?」
「あ!」
 そうだ。ついでにあのときに言われた言葉も思い出した。
『恋人みたいに』
「俺、男です。恋人じゃないです」
 大樹は吹き出した。
「それを言うなら、俺もストーカーじゃない。昌のことだから『変態』とでも言ったかな?」
 明かりが月で良かったと思う。きっと真っ赤になっている。
「なに、散歩?」
「はい。あ、鍵! かけてないんです、不用心だけど」
「大丈夫、かけてきたよ。いつも2階の寝室の明かりが見えたら外からかけてるんだ」
「そうなんですか!」
「だから帰るなら俺と一緒じゃないと中に入れない」
「良かった! 安心しました」
「きみは真面目そうだね」
「そう、じゃなくて、真面目です」
「なるほど。訂正するくらいに真面目なんだな」
「変ですか?」
「いや、安心したよ。あの子の周りに君みたいな子はいなかったからね」
 年齢が分かるほどには月の下は明るくない。
「すみません、仁科さんは」
「大樹でいいよ」
「じゃ、大樹さんっておいくつなんですか?」
「34。きみからしたら結構おっさんだろ?」
「そうでもないです。父は46でしたから」
「……今は? 亡くなったの?」
「はい。この海には散骨のために来たんです」
「そうか…… そんな時に昌のことで巻き込んでしまって申し訳なかった」
「いえ。縁だって思ってます」
「きみ、昭和?」
「昭和って?」
「古いからさ、言うことが」
 ちょっとむすっとしてしまった。
「自分だって、ギリ昭和のクセに」

「昌のこと、知りたいんだろ?」
「はい」
「あの子は高遠グループの系列会社の社長の息子だ」
 やっぱり、と思った。コマーシャルなんかでよく高遠グループの名前を見る。ドラマのスポンサーだったり。
「兄弟は?」
「いるよ、彼は末っ子だ。我がままに育ったからね、あまり姉や兄にも相手にされていない」
「でも一人っきりで別荘だなんて」
「俺がついてるから」
「それでも!」
「いろいろと事情が、ね」
 そこからは聞いてはいけないのだろう、と察した。
「心臓が悪いんですね。あなたと別れた後、ニトロを飲ませました」
 さっと自分を見る気配を感じた。
「それで」
「取り敢えず僕の泊まっていたホテルに連れて行って休ませました」
「ニトロ、と分かったんだね」
「父は心臓病だったんです。手術中に亡くなりました」
 しばらく無言が続いた。
「そうだったのか…… なら余計に辛いだろう」
「でも彼の面倒を見れます。あんな風に一人にしておくくらいなら」
「それで別荘に?」
「昌に頼まれたから。一緒にいてほしいって」
「そうか」
「長いんですか? 心臓悪くなってから」
「生まれた時からね。学校も休みがちだったから余計我がままで」
「でも料理もちゃんと作るし。本棚見たら問題集とか参考書とかも並んでたし」
 大樹はくすっと笑った。
「プライドは高いんだよ。だから学校に行ったときに遅れを見せたくないんだ」
「それ、偉いです! いい口実にしてサボるより」
「留年……したくないんだよ、あの子は。たとえ幾らかとは言え、今のクラスには話が出来る相手がいる。留年したら島流しと同じだから」

 似たようなことを父が言っていた。
『たまに会社に行くと驚いた顔されるね。異動が多い場所だから、知らない顔があったりな。おとぎ話の浦島太郎になったような……』
 冗談めいて言っていたが、そう聞こえるように言っていただけなのだと分かった気がする。

「父は…… 辛いという顔をしたことが無かったです。そんな話もしなかった」
「大事にされてたんだね」
「……はい」
 そうなのだろう。父子二人。なにかあればこうやって遺される自分。それを考えなかったとは思えない。父のことを思い出すと、ほがらかな笑顔だけが浮かんでくる。
 零さないと誓った涙が夜の中に零れた。
「昌のそばにこのままいてもいいですか? 大樹さんは嫌われてるんでしょう?」
「そりゃはっきり言い過ぎじゃないか?」
 大樹は笑った。笑いが治まると真面目な声に変わった。
「いいのかい? 君の予定は」
「ないです。家に帰るのが……帰りたくないって思ってたし。帰ってやることっていったら遺品整理だし」
「辛いね」
「大学は休学しました。だから本当にやることないんです」
「だから『縁』なのかい?」
「ええ」
 手を差し出された。その手を握る。
「頼むよ。助かる。ついでに家庭教師も頼まれてくれるかい?」
「喜んで」

 別荘に戻るとドアにあったメモがない。
「食材とかいろいろテーブルに置いてたのは大樹さんなんですね?」
「そう。会うのを嫌がるからね。メモを通しての関係だよ」
 大樹は軽く笑った。
「寂しいんじゃないですか?」
「俺が? まあ、嫌われていい気分はしないけどね。君じゃないが、俺には昌の世話しか仕事が無いんだよ。だから手間がかかるのは大歓迎なんだ。そうだ、きみの好き嫌いは? 必要な物あれば昌と同じようにメモを貼ってれてもいいし。ああ、携帯の番号とアドレスも交換しておこう。……万一のことも考えないとね」
 ずっとこういう間柄なんだろうか、そんなことを思った。これしか仕事が無いなら余計寂しいに決まっている。自分なら嫌だ、遠ざけられて見守るのは。父にそんなことをされたらきっと後悔しか残っていなかっただろう。
(あ……昌はまだ分かってないのかもしれない……悲しませたくないから遠ざけてるとか……?)
 そんな可能性を考えてみた。いつ逝っても構わないように。もしそう思っているなら大樹を大事に思っているのかもしれないと思う。
(本当に嫌なら鍵を預けないよな。買い物も頼まない)
 なんだか昌の心がちょっと見えたような気がした。
「ここに来てなにか一緒にやったこともないんですか? 例えば買い物とか」
「最初は一緒に回ったよ。近場の店にある物、無いものを知っておいた方が頼むのも楽だからってね」
(やっぱり……だったら嫌いなわけがないじゃないか)
 大樹は気がついているのだろうか、そんな昌の思いを。
(でも……まだ会ったばっかりなんだ。俺があれこれ口出すことじゃないよね、父さん)
「昌のこと、任せてください。健康面、様子見てるのは慣れてますから」
「良かった。君に出会えたこと、確かに『縁』かもしれないね。なにかあったら時間関係なく連絡をくれ。すぐ近くのホテルにいるから」
「はい」
 鍵を開けてもらって中に入る。
(不思議な感じ)
 鍵を気にしない生活。そんな日々がこれから始まる。

#4

「おはよ」
 7時に下に降りるとすでに昌がキッチンに立っていた。卵を割っている。
「おはよう! ごめん、のんびりし過ぎた!」
「汐って、寝坊助?」
「そんなこと無いけど。昌は?」
「早く寝ちゃうからさ、朝早くに目が覚めるんだ。6時過ぎに散歩して、帰ってきたら朝飯作るって感じ」
「健康的な生活してるんだな! 明日はちゃんと起きるよ。何しようか、サラダは?」
「じゃお願い。卵、目玉焼きでいい?」
「なんでもいいよ」
 まるで父と一緒にいるようだった。それほど日が経っていないのに懐かしさに眩暈がしそうだ。
 思いを振り払うように頭を振る。
「今日はどうする? 天気悪くないよ。でも散歩は朝したんだよな」
「釣りがしたい! それなら竿が何本かあるよ」
「釣った魚はどうするの?」
「近くにさ、仲良くなったおじさんがいるんだ。持ってくと刺身とか煮魚とかしてくれるからそれ食べてる」
「まるで自給自足だね。昌は偉いなぁ!」
 昌は照れたように下を向いた。
「そんなこと言われたこと無い」
「そう? 俺だったらいい加減な生活になるような気がする」
「ならないよ、汐は」
「意外と俺はだらしないんだ。そうだ、勉強さ、見てあげるよ」
 ぱっと顔が上がった。
「ほんと!?」
「うん。俺も昌にやれること欲しいしね。家庭教師やるよ」
 嬉しそうな顔をする昌を見て、まるで兄になったような気がした。

 昌は勉強が良くできた。苦手なのは古文と地理。
「英語より分かんないよ、昔の日本語って!」
「そうだよね。時代によってこれほど言語が変わった国も珍しいかもしれない」
「汐はオールマイティって感じ。苦手ってあるの?」
「あるよ! 古文だろ? 地理だろ?」
 昌は吹き出した。
「じゃ、教えるのって苦痛?」
「苦手だからさ、人一倍勉強したの。入試にだって関わるし」
 それは本当だ。そのためだけに勉強したといえる。
「ふぅん……大学って……楽しい?」
 どきり、とした。昌の未来に大学はあるのだろうか……
「楽しい、ともいえる。講義を除けばね」
 また昌が笑う。
「そのために行ってるのに?」
「薬剤師に……なろうと思ってたんだ」
 父の役に立ちたかった。医師になるには垣根が高すぎる。だからせめて薬剤師に、と思った。その道も当然険しいのだが目標があったから頑張れた。しかし今となっては……
「思ってたって、今は?」
「考え中。だから休学したんだ」
 明確な目標が消えてしまった今、その道に魅力も未練も無くなってしまった。そうだ、それも堪えているのかもしれない……
「俺さ」
 急に昌の声が小さくなった。そのまま言葉が消える。
「なに?」
「……9月に……手術受けるんだ」
 鼓動が跳ねた。
「二度目、なんだけどさ」
 返事が出来ない。
「聞いちゃったんだ……成功率……40%って」
 父は70%だった……
「4割が成功って……大学入試の倍率より低いよね、きっと」
「……そんなことないさ、今の医学は、」
「お父さん、手術で死んじゃったんでしょ」
(なんて……なんて言えば)
 口にすればすべてが嘘になるようながした。気休めなど言えない。けれどそれさえ言えなかったら。
「成功率……20%無かったから。それに体力が無かった。年齢的にもね。昌みたいにぴちぴちの高校生なら成功率は上がると思うよ」
「そう!? そう思う?」
「俺はそう思うね。だから病室でも勉強教えてあげるよ。どうせヒマだろ?」
「うん!」
「しょうがないから昌の兄貴になってあげるよ」
「ほんと?」
「だからスパルタ教育するぞ」
 嬉しそうな顔を見て、寂しいのだ、と思う。入院してもきっと見舞客もそうはいない。身内でさえどれくらい関わってくれるのか。
「あのね。大樹のこと」
「大樹さん?」
「うん……誰にも言わない?」
「言わないよ」
 汐は厳かに答えた。
『誰にも言わない?』
 高校2年生だ。多感な年ごろ。打ち明け話満載のこの時期に、昌にはなんでも話せる相手などいないのだろう。
「……あのね」
「聞くよ、なんでも」
「好き、なの」
「え?」
 真っ赤になった昌がぱっと両手で顔を隠した。
「うわあああ! 言うんじゃなかった!」
「大丈夫だって! 大丈夫だから」
(どういう『好き』なんだろう)
 憧れ、という意味なのだろうか。一番近い大人。父親がいないも同然なら、父性を感じてもおかしくない。それを『恋』と混同しているのなら分かる気がする。
「そっか。じゃ、逃げちゃうのは嫌いなんじゃなくて照れてるのか」
 両手で隠れた顔が何度も頷く。
「そうかそうか。いいよ、言わないよ、誰にも」
「大樹に……言わないよね?」
「言わないよ。でも一緒にいるのは嫌なの?」
「だって……どんな顔してたらいいか分かんない」
 汐はくすっと笑った。
「そうか。昌は照屋さんか」
 切なくなる。数少ない接触者の中で恋に近い思いを抱いている昌が。

 ホテルと反対の方に歩いていくとだんだん波音が大きくなっていく。釣り竿を抱えて歩く昌の声は弾んでいた。
「いつもこの先の磯で釣るんだ」
「磯? 危なくないか?」
「ううん、たいしたことないから」
 行ってみると本当に大したことがない。10段ほどの階段まである。降りていくと座って釣りを楽しむのにちょうどいい置き石までいくつもあった。
「なんだ、人口の磯なんだね」
 笑ってしまった。まるで釣り堀の海版みたいで。直接荒い波が当たらないように離れたところにテトラポットが散開している。
 汐に笑われて昌はぶすっと膨れた。
「だって……大樹にここなら釣りしてもいいって。ここ、昔ウチが作ったらしいんだ。本当の磯釣りじゃないけど……」
「いいよ、笑ってごめん! 釣りってあまりしたことないから教えて」
 そう言うと途端に嬉しそうな顔に変わった。あれこれ教わって釣り糸を垂れる。
「何が釣れるのかな」
「だいたいメジナとかクロダイ。俺にはクロダイとか大きいのは釣れないんだ、暴れるから」
 細い腕では大物を釣るのは無理なのだろう、悔しそうな声だ。
 釣りをしていると口が解れるのか、昌は自分のことをいろいろ話し始めた。
「俺を産んだお母さんはすぐに死んだんだって。今いるオバサンは親父の後妻。バカみたいだ、大樹と同じくらいの年でさ、大樹を見ると声が変わるんだよ。お前は親父と結婚してんだろ! って言いたくなる。でも大樹が相手してないから黙ってるんだ」
 どう相槌を打てばいいか分からない。大きな家にはそれなりのゴタゴタがあるのだろう。だが後妻との間に子どもはいないらしい。
(じゃ、どうして兄弟は構ってくれないんだろう?)
 姉と兄がいるのだと言う。姉は23歳。大学を出てから父親の会社で秘書をしているらしい。来年結婚することになっているそうだ。兄は大学3年生。汐の一つ上だ。昌とは6つ離れていることになる。
(年が離れてるから、かな)
 そんな風に思った。
「大樹さんはいつから昌の面倒を見てくれてるの?」
「物心ついた時にはもういたよ。どこに行くのもずっと大樹が一緒なんだ。家族でなんて出かけないし。あ、出かけないのは俺だけ。きっと俺、親父が浮気して出来た子なんだと思う」
 あっけらかんと返事のしづらいことばかりを言う。そんな環境だから外見の割には大人びているのか。だが心臓が悪いのにそんな家族の中にいる昌が不憫になってしまう。
 気がついたことがある。大樹は34歳だと言った。昌の物心ついた頃といえば、大学を卒業したばかりの頃だろう。
(そんなに若い時から? ただこうやってそばにいるだけ?)

 たいしたものは釣れなかった。昌が小さいメジナを2匹釣り、汐は見事にボウズ(釣果無し)で終わった。
「ま、初心者はこんなもんだよね」
 偉ぶったことを言う昌の鼻を捻り上げてやる。
「なんだよ、ホントのことなのに!」
「そんなに痛くないだろう!」
 力を入れたつもりではなかったが涙目になっているから慌てた。
「こんなことされたことないもん! 大樹だってしないし!」
「分かったって、ごめん!」
 何度か謝って昌の荷物を持ってやると機嫌が治った。多分、こんなやり取りさえもが楽しいのだろうと思う。汐には分からない。どうして家族なのにこんな子どもを放っておけるのか。

 近くに住んでいるおじさんは50代半ばくらいの男性だった。海の男、というより団子屋のおじちゃん、といった雰囲気だ。人好きのする人で今日は煮魚にしてくれると言う。
「二人掛かりで2匹か」
 笑われて、汐が思わず頭を下げると煮魚を待つ間に釣りのコツを教えてくれた。
「次は大漁だといいね」
 煮魚だけじゃ足りないだろうと、奥さんからきのこの炊き込みご飯までもらった。
「ありがとう!」
「ご馳走さまです!」
 そう頭を下げて別荘への道を辿る。視界の角に人影を感じ振り返ると大樹だった。声をかけようとすると唇に人差し指を当てて姿を消した。きっとこうやっていつも昌の様子を見ているのに違いない。
(俺がいなかったら昌一人で……)
そう考えるととてもやるせない。

#5

 昼間ずっとはしゃいでいたせいか、軽い発作を起こした昌は夕食を待たずに横になってしまった。
「明日は出かけるのをやめてのんびりしよう」
 顔色の悪い昌を気遣う。大樹に来てもらおうか、などと考えた。
「ドア、開けて寝てもいい?」
 心細いのかそんなことを昌が言う。
「今夜はここにいるよ。そしたら安心だろう?」
「ここに? この部屋で寝るの?」
「うん。待ってて、用意するから」
 日ごろから体は鍛えてある。ふんっ! と気合を入れてロッキングチェアを二階に引きずり上げた。目を丸くしている昌の前に置いてクッションと毛布を持ってくる。
「さ、寝よう」
「え、いいの? 疲れない?」
「慣れてるんだよ、父さんの看病で」
 それがよほど嬉しいらしくて、また発作を起こすんじゃないかと心配するくらいに喜んだ。
「ほら、大人しく寝ろよ。気になって眠れないだろ?」
 何度も目を開けて汐がいるのを確認する昌を怒る。ランプの明かりを弱くして寝たふりをするとやっと観念したようで、寝息が聞こえてきた。

 眠って幾らも経たない内に小さな音で目が覚めた。開けたドアを軽くノックしているのは大樹だ。
「驚いた!」
「しぃっ、ちょっといいかい?」
「はい」
 後について下に降りると、椅子に座った大樹が真面目な顔で汐を見た。
「こういうのは困る」
「こういうのって?」
「君はすぐにいなくなるだろう? だから昌をこんな風に甘やかさないでもらいたいんだ」
「こんなって、そばで寝てたことですか?」
「そうだ」
「今日も発作を起したんですよ。そんな時くらいそばにいてやらなきゃ」
「今まではそれでも一人でやってきたんだ。君がいなくなったら昌はどうなる?」
 カチン! と来た。あまりにも思い遣りが無さすぎると。
「だったら大樹さんがついててやればいいじゃないですか! こんな中途半端な形じゃなくって。昌はまだ16なんだ!」
「君に何が分かる? あの子は」
「その分からない相手に昌のこと頼んだのは大樹さんですよ」
 大樹は黙った。
「こんなに頻繁に発作起こすなんて重病人って言ってもおかしくないのに大人が誰もいない。どうかしてるよ! 一人でやってきただなんてよく言えるよ!」
「……悪かった。そうだな、君に押し付けたんだよな。明日帰っても構わないよ、後は俺がするから。これ」
 胸から財布を出したから汐は完全にキレて立ち上がってしまった。
「ふざけんなよ! そんなんでここに来たんじゃない、俺は自分の意思でここにいるんだ。俺は帰るつもり無いから。もう寝るから出てってくんないか!?」
 大樹は汐を見つめた。ふっとその目が和らいだ。
「済まない。……汚い大人社会に住んでるとね、人の善意って言うのが分からなくなるんだ。これでも昔は君みたいに…… いてくれるんならお願いだ。昌の自立心を消さないように付き合ってもらえないか? どうしたって君と離れる時は来るんだ。その時に苦しむのは昌なんだよ」
 汐は大樹の言葉でやっと落ち着いて来た。そうだ、過去も現在も未来も、昌のそばにいるのは大樹なのだから。
「すみません、言葉が過ぎました」
「そんなことないさ。君が怒って当然のことをした。……思った通りのことを口にして行動する。そうだよな、若いときってそれが出来るんだ。いてくれるなら有難いよ」

「大樹?」
 声が大きかったせいか昌が起きてしまった。下りてこようとするのを大樹が止めた。
「なんでもない、汐くんに今日のことを聞いてたんだ。もう行くよ、ゆっくり休みなさい。じゃ頼む」
「はい。さっきは」
 大樹が首を横に振ったから後の言葉は飲み込んだ。不安そうに見ている昌のところに戻る。
「ごめんな、声大きかったか?」
「怒鳴ってなかった?」
「いや、そんな風に聞こえた? 心配かけたね。大丈夫だから寝て」
 横になった昌の長い髪が広がる。
「髪、伸ばすの?」
「これ、願掛け」
 吹き出した。16の子どもが願掛け。
「大樹に好きって言ってもらえるようにって」
「じゃもっと素直にならないと」
「難しいんだよ、いろいろと」
「ませたこと言って。寝ろよ、起きててやるから」
「うん。おやすみなさい」
「おやすみ」

 次の日は起きては寝て、起きては寝ての繰り返しだった。食事は汐が作って食べさせた。
「ごめんね、汐」
「いいんだよ。慣れっこさ、こんなこと」
「俺が女の子だったら良かったね。汐もちょっとは楽しめたのに」
「なに言ってんだか。本持ってこようか?」
「ううん、もう少し寝ていい?」
「いいよ。俺は本読むから」
 ロッキングチェアの座り心地にすっかり汐は嵌ってしまっている。だから苦にはならなかった。それより青白い昌が気になっている。

 二日ほどそうやって過ごして、やっと二人で散歩に出かけた。今日は風があって雲も出ている。歩くにはちょうどいい。
「外、気持ちいい!」
「そうだね。でも歩くだけだぞ」
「分かってるって。ね、磯のとこ、行かない?」
「釣りしないよ」
「座るだけ。浜で波を見るよりあっちが好きなんだ」
 ゆっくり歩く。薬は汐が持っている。クーラーボックスに冷えた飲み物も入れてきた。嫌だと言うのを、別荘に置いてあった麦わら帽子まで被らせてある。
 磯の置き石に座っていると、テトラポットにぶつかった波が姿を変えて寄せて来る。浜に寄せる波よりずっと荒いが危険はない。しばらく黙って二人でそれを眺めていた。
「いいね、こういう毎日も」
「去年は一人だったけど汐がいてくれるから今年は楽しいよ」
「去年も!?」
「うん。だってどこいたって変わんないし。去年は俺、もうちょっと元気だったから」
「去年も大樹さんが一緒?」
「まぁ、ね。でもさ、好きな人と一緒に寝るのってくらっとするからさ」
「くらっとって?」
「その、やだなあ! 分かるでしょ」
「ちょっと待てよ、本当にそういう意味で好きなの?」
「だって……カッコいいし。優しいし。いつもいてくれるし」
「そうだろうけど」
 それでも人恋しさがそういう気持ちにさせているのだと思う。女性が周りにいる気配は無いのだから。
「それで髪伸ばしたんだ」
「うん。大樹、お母さんみたいな人が好きなんだと思う。お母さんの写真、髪が長くってきれいでさ。その写真、時々じっと見てるんだ。俺ね、お母さん似なんだよ。帰ったら写真見せてあげる」
(知らない母親に似せようと髪を伸ばしているのか……)
「汐は? 好きな人、いないの?」
「あ、聞かないで。失恋したてだから」
「え、マジ?」
「そ、マジ」
「堪えてないように見える」
「失礼だな」
 確かに堪えていないと思う。1年半付き合って別れた一つ下の女の子。自分が思うより相手の気持ちが軽いと知って引いてしまった。
「『好き』っていうのにさ、二種類あると思うんだよ」
「二種類? どんなの?」
「『愛』に繋がる『好き』と、繋がらない『好き』。その場だけ楽しむんなら友達でいる方が楽だ。だから別れた」
「ふぅん……なんか難しい。汐もいろいろ大変なんだね」
「なんだよ、それ」
「ただのロマンチストじゃないんだなって思った」
「悪かったね、ロマンチストで」
「俺は『愛』に繋がる方だと思う」
「大樹さんに?」
 パッと顔が赤くなった。
「照れるっ」
「俺にはこんなに素直に言えるのに」
「……言ってみようかな……どんな顔すると思う?」
「そりゃ驚くんじゃないかな」
 間違いない。まして『愛』に繋がるなどと言われてしまえば。だが大樹は大人だ。子どもの憧れを上手く躱すことなど容易いだろう。
「からかわれてるって思うかもしれないよ」
「そうかなぁ」
「俺に変態って言っただろ? 大樹さんのこと」
「わ、言った」
「だから本気にしないんじゃないかな」
「……変態って言ったの、知ってたの?」
 汐は笑ってしまった。悲壮な顔をしているからだ。
「だいじょぶ、だいじょぶ。本気にしちゃいないよ」
「うわ、不安!」

#6

 日が高くなる前に磯を離れた。戻って昼食を食べてから数学を教えようかと思う。昌は呑み込みがいいからあっという間に単元が進んでいく。こういう生徒は教えていて楽しい。
 だが昌の顔には疲れが見えた。大丈夫だと言い張る昌を寝室に追いやる。
「ほら、もう眠いんだろ? 今なにか作って来るよ。それ食べたら少し寝るんだ」
「大丈夫なのに」
 そう言う昌は、もう欠伸をしている。

 軽食を作ってベッドに持っていくと、昌はもう眠っていた。トレイを持ったままそっと下に下りる。
「食欲無いのかい?」
 突然の声でびくっとした。
「ああ、驚いた! 落とすとこでしたよ」
「ごめんごめん。俺は君を驚かせてばかりいるね。食材を持ってきたんだ。2人分だからメモに書いてあるよりちょっと多めに持ってきた」
「あ、すみません。食費」
「いいんだよ、家庭教師代の一部、そう思ってくれれば」
「ありがとうございます」
 買ってきたものを冷蔵庫にしまいながら大樹が言葉を続ける。
「どうかな、昌は教えがいがあると思うんだ」
「ありますね! すごいです、吸収力が」
「もっと遊んでいいくらいなんだけど本人は……無駄な時間を過ごしたくないんだろうね」
 それにはなんと答えていいか分からない。
「花火を持ってきたんだけど、子どもっぽかったかな」
「あ、いいと思います! きっと喜ぶ」
「君、花火好きだろ」
「分かります?」
「昌より君が喜びそうな気がするよ」
 ちょっと赤くなった。確かに花火が大好きだ。
「眠ってるんだろう?」
「はい。やっぱり疲れたみたいで」
「ちょっと昌を覗いていくよ」
 二階に上がる大樹について上がった。
(ずっとこんな風に寝てる昌を覗いて来たのかな)
昌も切ないが、大樹も切ない。そんな思いに包まれた。

 穏やかな寝顔に大樹はほっとしたらしい。
「寝てると憎まれ口を聞かなくて済む。まったく人の顔見ると」
 その時昌の寝言が聞こえた。
「ひろ……すき、ひろき……」
 大樹の固まった様子を見て汐は説明をしようとした。夢に見て『すき』と言えば、たいがい恋愛の対象としてだ。
「実は昌、大樹さんのことを本当はずっと大好きで憧れてて」
 振り返った大樹は真っ青になっている。
「大樹さん?」
 汐の声も耳に入らない様子で、大樹は突然部屋を出て行った。そのまま階段を下りて出て行こうとする大樹の背中を追った。
「大樹さんっ」
 熱くなった砂浜を足速に歩いていく大樹に走り寄った。
「待ってよ、大樹さん!」
 大樹の腕を後ろから掴む。
「どうしたんですか、急に!」
「いられない、あの子のそばには……だめだ、こんなの」
「どうして、」
 ぐるっと振り返った大樹は我を失ったように叫んだ。
「俺の子なんだ!」
「なに言って」
「俺の、俺の息子なんだ、昌は」
 大樹は熱い砂に膝を落とし、両手に顔をうずめた。呻くように言う。
「俺は……昌の……」
「そんな……」
「綾子さんは……愛のない結婚に疲れていた。長女の梢恵こずえちゃんの家庭教師だった俺は……」
 後は言葉にならなかったがその意味するところは分かった。
 大樹はハッとして顔を上げた。
「おれ、今なにを」
「昌が大樹さんの息子だって。言いませんから。昌には言わないから」
 大樹の呆然とした顔に、汐は何度も繰り返した。

 汐はやっとの思いで立ち上がる大樹に手を貸した。
「どうかしてる、あんなこと口走るなんて」
 呟く大樹が頼りなげで、一人ぽっちに見える。
「なんでこんな歪な関係になったんですか」
 大樹は肩を落として、内ポケットから出したサングラスをかけた。
「あ……すみません」
 昌は母親似と言っていた。大樹に似ているところはほとんど感じられない。
 まさか父とは知らず、大樹に振り向いてほしいがために母のように髪を伸ばしている昌……
「そうだね。この上なく歪な関係だ、俺たちは」
「昌のお父さん……すみません、高遠さんはこのこと」
「知ってるよ。だから俺に昌の面倒を見させてる。これはね、復讐なんだ、高遠さんの」
「憎んでるのに昌を引き取って育ててるんですか?」
「……頼んだ、土下座して。彼女は……自殺したんだよ。救急車で運ばれた彼女は助からず……帝王切開で昌は生まれた」
「どうして……昌を高遠さんに?」
「生まれた時には心臓が悪かった……学生の俺に何が出来る? あの子を引き取ったって手術代どころか生活費だってままならない……俺は頭を下げ続けるしかなかった。そして今はこの通りさ」
 自嘲、というより疲れて聞こえた。昌が生を受けてから今のこの瞬間まで、自分を憎悪する男に息子を託してきたのだと思うとその悲惨さに言葉も出てこない。
「俺は……」
 言い淀む大樹を見て、ずっと誰かに聞いてほしかったのだと思う。この16年を全てを胸に秘めて大樹は一人過ごしてきたのだ。
「高遠さんに命じられて大学を出たよ。高卒なんかにうろつかれちゃ困るってね」
「大樹さん、いくつだったんですか?」
「俺? 昌が生まれた時に18だった。綾子さんはきれいな人だった……バカな俺は一時《いっとき》の過ちで一つの命を作り出してしまったんだ。世間が見えてなかった……今、俺みたいなヤツを見たらきっと言うよ、お前には世の中ってもんがなにも分かっちゃいないってね。……死んだ女《ひと》への思いだけで生きていけると思っていた」
 無言になった大樹に話しかけることを躊躇った。だが昌の屈託なく笑った顔が思い浮かぶ。
『……言ってみようかな……どんな顔すると思う?』
「大樹さん」
 大樹はただ海を見ていた。
「多分だけど。昌は大樹さんに好きだって告白すると思う」
 口元が震えているように見えた。
「けど聞いてやって。そして笑ってやって、それは恋じゃない、ただの憧れだって。お願いです、そうしてやって」
「俺は……昌から離れた方がいいんだ」
「これ以上何を何を失くせばいいんだよっ、昌にはなにも無いじゃないか、大樹さんしか……昌を思う人はいないじゃないか……」
 波の音が苦しかった。変わらずに全てを飲み込むような波が。

#7

 大樹と別れて別荘に戻った。分かってくれたと思う。約束はしなかったけれど、きっと昌を置いてどこかに消えるような真似はしない。それでは昌が悲しすぎる。
「どこ行ってたのさ!」
 入るなり昌の声を聞く。テーブルで怒った目をしてオレンジを食べている。
「起きちゃったのか。ちょっとそこまでぷらっと行ってたんだ、まだ寝てるだろうと思って」
「ドアの閉まる音で目が覚めた」
 思い返すと大樹の跡を追ってかなりの音を立てたような気がする。
「ごめん! うるさかったよな。そうだ、昼飯」
「ここに置きっぱなしのサンドイッチ食ったけど。俺のでしょ?」
「そう。冷蔵庫にしまうの忘れた。重ね重ね、ごめん」
「まったくだよ! ね! 花火見つけた。今日やろうよ!」
 やはり子どもだと思う。花火ではしゃいでいる……
「……大樹も呼んだらどうかな、って思うんだけど」
「え、なんで?」
 思わず問い返して、汗が噴き出しそうになる。
「浜で花火なんて、いい感じだと思わない?」
「いい感じって」
「汐が忘れ物したとか言ってさ、で、二人きりになった時に好きだって言ってみようかなって」
「本気なのか? 相手は大人だぞ」
 途端に口が尖った。
「どうせ俺、ガキだし。それに……今のうちに言いたいんだ……失恋したら汐、慰めてくれる?」
「もちろんさ! しょうがない、タオルで涙拭いてやるよ」
「あ! ホントに失恋すると思ってる!」
「思ってない、思ってない」
「嘘つき!」
(手術が成功すると思ってないんだ……だから打ち明けておきたい?)
なにも出来ない。どう助けてやることも出来ない。
(大樹さん……昌の気持ち、分かってやって)
 父親なのだから受けとめて欲しい、大人として。出来れば微笑んで『バカを言うんじゃない』と言ってやって欲しい……

 昌は日が沈むのを今か今かと待ち詫びている。
「どれを着ようかな」なんて言うから「夜の浜は真っ暗だぞ」と笑って見せた。夜が来ないでほしい…… こんなことを思うのは初めてだ。
 それでも日は無常に翳《かげ》り、暗闇がひっそりと辺りを侵食し始める。少年の淡い夢の煌《きら》めきを包み隠すように。

 携帯に伸びる手は細くて白くて儚かった。
「大樹? 浜辺で花火するんだ。バケツに水汲んで持ってきて」
 言葉に淀みなどあるわけもなく。大樹はどれだけ自分を殺してきたのだろう。スピーカーから聞こえる声はいつもと同じだった。
『はいはい。仰せのままに』
「時間、あるよね?」
『あるよ』
「じゃ、俺と一緒に花火をすること」
『冗談だろ?』
「しなかったら帰んないから」
『脅しか? お巡りさんに言いつけるぞ』
「するの、しないの!?」
『しょうがない、付き合ってやるよ』

 知ってしまったから……汐は自分が泣きたくなった。
(俺は今21だ……18から? そんな、無理だ、俺なら無理だ)
若く希望に包まれるべき時代が過ぎていく、自分の横を、静かに。
(俺は見てるしか無いんだ、ただの行きずりの友人だから)
 父の声を聞きたい、唐突にそう思った。父ならどんなアドバイスをくれるだろう……何を言って自分を慰めてくれるだろう。
(情けない、俺は自分の気持ちしか優先してない)
 かと言って、このまま二人のそばを立ち去るのは怖かった。悪いことが起きるようで。
「昌!」
「なにさ、いきなり大声で」
「俺、昌の手術が終わるまでそばにいるから」
「家庭教師で来てくれるんでしょ?」
「それだけじゃなくって。毎日行ってやるよ、病院」
「ホント!?」
「うん。パソコン、やったことある?」
「無い」
「教えてやるよ。小さいパソコン持ってるんだ。B5だからベッドの上でも楽だと思うよ。通信しなきゃ大丈夫だと思う」
「うわっ、やったっ、いいの? ホントに」
「任せとけ。得意だからさ」
 父を手伝っていつも触っていたパソコン。
 なにかしてやりたかった。偽善と言われてもいい、ただそばにいてやりたい、そう思った。優しさなんかじゃない、もっと別のもの。大切にしてやりたかった、壊れないように。

「夜の海っていいよね」
「一人で来るなよ、足元が見えないんだから」
「でも」
「来たかったら俺に言うこと。一人になりたいとかだったら離れたところにいてやるから」
「汐ってさ、世話好きだよね。ちょっと前に出会ったばっかりなのに」
「やることが……無いから。急ぐ用も無いし。困る?」
「違う、そんな風に思ってないよ」
――ざっざっ、と音がした。
「バケツが来た!」
「なんだと? 帰ってもいいんだぞ」
「なんだよ、大人げないよ」
「都合が悪いと大人扱いか?」
 慣れっこなのだろう、別に怒った口調じゃない。

 花火はパチパチと賑やかな音を立てて明かりを振りまいた。シュウシュウと煙と共に弾ける火花。昌をちょっと遠くに離れさせてロケット花火を波に向かって打ち上げる。飛んでは消える火は、本当に花が散るようで。
「もう半分も無いや」
「花火は俺も久しぶりだな……」
 それまでほとんど口を利かなかった大樹がぽつんと言った。
「大樹が最後にやったのっていつ?」
「……17の頃」
「へぇ! もっと子どもの頃かと思った」
「花火を好きな人がいてね……楽しかったよ、あの頃は」
「今夜は? 俺とやっててつまんない?」
 返事は返らない。ゆらゆらと危ないシーソーの上を行ったり来たりする昌……
「……あ、汐」
「なんだ?」
「俺、テーブルの上に濡れタオル置いてきちゃった!」
――ズキッ と胸が痛んだ。
「なに、俺に取りに行けって?」
「ごめん、いい?」
――ズキッ と心が痛んだ。
「……大樹さん……昌をお願い」
「いいよ、慣れてる」
 もう一度『お願い』と言いたかった。汐は振り返ることも出来ず別荘へと向かった。

#8

 テーブルの上にはちゃんと濡れたタオルが置いてあった。椅子を引いて座る。そのタオルをじっと見つめた。
 今頃どんな会話をしているだろう。頬を染めた昌は告白をするのだろうか。大樹はそれをどう聞くのだろう。考えたくないのに次々と形をなさない薄いブルーがかった思いが湧いてくる……
 5分もそうしていただろうか。タオルを持って立ち上がった。後ろ手にドアを閉めて、やたらまたたく空を見上げた。月はなんの感銘も寄越さずただ光を投げて来る。星が遠い。

 浜に向かってゆっくり歩いた。もし話をしていたとして、肝心なことは終わっているはずだ。きっと昌は沈黙を保てない。若さが、残り少ない可能性がそれを許さない。

 走って来る足音が聞こえた。昌だと思った。横を通り過ぎようとする影を咄嗟に腕に捉まえる。
「だめだ、走っちゃ」
 それだけで分かった、告白をした昌を大樹は拒否したのだと。
 荒い息の昌の足は止まろうとせず、まるで地団太を踏むようにそこでバタバタと音を立てた。
「放して、よ」
「昌」
 その細い肩を抱いた。
「ふ、ふ、ふぇ……ぇ、ぇ、」
 叫ばず震えるように泣く昌が愛しい。ただ抱きしめた、冷たく見つめる月の下で。

 磯に行った。
「ほら、気をつけて」
 握った手を放さずに階段をそっと下ろした。あの後発作を起しかけた昌の口にニトロを入れた。落ち着いても、どうしても帰りたくない、という昌を連れてここに来た。
 置き石に座らせる。少しの風が昌の髪をなびかせていた。座っても手を握ったまま時間を過ごした。
「波の音ってさ」
「ん?」
「おいでって言ってるみたいで……怖いね」
「昌は行かないよ」
「……行くかもしれないよ」
「行かないよ」
「そんなの! ……分かんないじゃん」
「行かない。ベッドの上で退屈してる昌にパソコン教えるんだからさ。俺はいやってほど見舞いに行く。だから昌は行かない」
「…………」
 しばらく波の音を聞く。連れて行かれないようにと手を握りしめて。
「あのね」
「うん」
「大樹に……言ったの、好きだって。なのに笑うから」
「うん」
「ホントに好きなんだって言った」
 汐は聞いていた。そうか、笑ったのか。良かったと思う。本気で受け答えしないでくれた。
「頭……撫でられたからその手を叩いたんだ。ませガキって言われた。全然本気にしてくれなかった」
 少しくぐもったような声だから、多分下を向いているのだと思う。けれど昌を見なかった。
「真面目に言ってるんだって、そう言ったんだ、だから真面目に聞けって」
「大樹さんはなんて?」
「ありがとう、って。オムツ取れて……『ひろ、ひろ』って追っかけてきた子が……こんなおませなことを言うようになったのか、って。最近嫌われたかと思ってたから……嬉しい、って」
 昌はこてん、と汐の腕に頭をつけた。
「俺、ガキ? ただのませガキ?」
「いい男になるよ、昌は。大樹さんに『しまった』って思わせるほどいい男になる」
「……なれるの、かな……」
「なるさ。そして大樹さんに言ってやれ、『もう遅い』ってさ」
 静かになった昌の呼吸が徐々にゆっくりになる。
「寝たかい?」
 上の方から大樹の声がした。
「はい」
 下りてきた大樹は昌を横抱きに抱えあげた。

 別荘への道を辿った。汐は先にドアを開けて大樹を通した。階段を軽く駆け上がり、ベッドを整えてやる。横になった昌の目じりには涙の痕があった。
 大樹がその頭を撫でる。汐はその手が親の手に見えた。父親が息子を撫でる手だ。
 肌掛けの下でわずかにもそっ動いた昌は左側を向いた。大樹がふっと笑う。
「子どもの時から俺の左側で寝てたからね。癖なんだよ、左に寄って寝るのが」
「コーヒーでも、飲みませんか?」
「……いや、今日はやめとこう」
 出て行く大樹を見送るために外に出た。
「ありがとうございました」
「なんで君が?」
「言いたくて。昌、ちゃんと泣きましたよ。だから大丈夫だと思います」
「そうか……俺が礼を言いたい。君のお陰で大人でいられた。ありがとう」
 差し出された手を握る。
「おやすみ」
「おやすみなさい。鍵は僕が中からかけますから」
「うん。じゃ、また」
 背中が見えなくなるまで見送った。

#9

 それから軽い発作を二度ほど起こし、昌は9月を待たずに入院となった。手術は予定通り9月16日に行われる。
 家族は誰も来なかった。面会時間中、いるのは大樹と汐だけ。学校の友だちと言っても昌には見舞いに来るほどの仲のいい友だちはいない。
 担任の教師が一度来た。若い男性教師で、悪い人ではなかったが気が回るようには見えなかった。早く良くなってほしい、一緒に勉強できるのを待っている、そんなことを言って帰った。
 人が来ない、そんなことでストレスを感じることは無いようで、昌の状態は安定している。
(誰も来ないから状態がいいだなんて)
 父は寂しがり屋だった。男だから口に出しては言わなかったが、確かにそうだった。だから本当は会社に行きたかったに違いない。散歩に出れば商店街のお馴染みの店ではよく人と喋っていた。八百屋だの、スーパーだの。喫茶店ではマスターと仲が良くて店が暇だとよく話し込んでいた。

 状態が安定したとは言っても、顔色は良くなかった。だから車椅子に乗せて病院の庭を散歩させた。天気が悪ければ院内を。
 個室だから医師にちゃんと断ってパソコンを教えた。インターネットをするのは、回線を使っていい場所だけ。それでも昌は喜んだ。今まで触ったことの無いパソコンの世界が色の薄い昌の世界を彩っていく。表計算を教え、ワープロ機能を教え、対戦の必要のないゲームをインストールし。
「ありがとう。君のお陰で昌が退屈せずに済む」
「本当に……来ないんですね、誰も」
「昌にはその方がいいんだ、無理な会話を続けるよりも」
 そう言われてしまえば、その通りだろうから何も言えない。妻の浮気で出来た子どもに向き合えと戸籍上の父親に求めても、きっと返ってくるものは何もない。
「手術の後って、昌はどうなるんですか?」
「成功すれば普通に通学できるようになる。それくらいかな、変わることと言ったら」
 目の前の勉強には打ち込めても昌は将来に希望を持っていない。それは空っぽだからだ。期待もされず『高遠家』の隅に追いやられている昌。そしてそれは大樹も同じだ。社会の隅でわずかに呼吸して生きている大樹。
「いっそのこと高遠家を離れてしまったら……昌と二人で出てしまったらどうですか?」
 大樹は驚いたような顔をした。
「今さら……なんの取り柄も社会経験もない俺がどうやって生活していく? 俺たちには『高遠』という大きな傘が必要なんだ」
「でもその傘の下じゃ陽は当たらないでしょう! 二人なんだからなんとでもやっていけるんじゃ……貯金とかは?」
 大樹は笑った。投げやりな笑いだ。
「昌のそばにいるだけだからね。なんの贅沢も必要ない。家も1ルームを使わせてもらってる。俺の手当は16万なんだ」
「じゃ、手取りでは」
「14万を切るかな。それで高遠さんへの大学の授業料の返済と自分の衣類、光熱費なんかを賄ってる。ああ、国保も払ってたっけ。食費や雑費は昌の生活費と込みで別枠で15万預かってるけどね。昌のパソコンも俺が買った。生活に必要だとは思えないそうだ」
「ずっと……14万?」
「実際必要ないんだ。どこに行くのもスーツだし、そう困ることは無い。金額から感じるほど悲惨な状況じゃないんだよ」
「……もし……高遠さんに出て行けって言われたら? そしたらどうするんです? そんな時が来るかもしれない」
「来ないことを……祈るよ」

 何か方法を、と考える。汐は開いている時間にハローワークにも電話で聞いてみた。
『厳しいですね。社会経験無し、技能無し、34歳。工場とかそういった現場での仕事なら採用があるかもしれません』
「大樹さん、仕事を選ばなきゃなんとでもなります。考えてみませんか?」
「いや、俺は……」
 怖がっているのだと思う。囲いの中で生活してきた。今のままなら考える必要さえない。
(でも本当に出て行けって言われたら? 高遠さんが……この状態に飽きたら? 高遠さんに何か遭ったら?)
 汐にはもう他人事には思えない。

  
 9月16日は、朝から病室がバタバタと騒がしかった。昌の手術が始まるのだ。
(本当に誰も来ない、手術の日だっていうのに!)
 そこにどんな大人の事情があろうとも、まだ16の子どもじゃないか、と思う。昌はどうってことない、という顔をしてはいたが、落ち着かなそうにパソコンをいじってみたり取り留めない話を途中でぶった切ったり。
 手術前の点滴が始まり、その落ちる速度と時計とを見比べる。
「もうやだ」
 ぽつんと漏れる声。
「上手く行くって! そしたらあの海で泳ごう!」
「俺、泳げないもん」
「しょうがない、教えてやるよ」
 ちょっと歪んだ笑いが浮かぶ。そんな日が来ることなど信じていないかのように。
「汐、お父さんと何話したの? 手術の前」
 虚を突かれた。咄嗟に言葉など出てこない。あの時の父の夢見るような声が蘇る。
『散骨がいいなぁ。どこでもいいよ、天気のいい時に青い空の下で撒いてくれれば』
「ごめん、変なこと聞いた?」
「ううん、なんてことない話だった。庭のこととか。意味のあることなんてなにも話さなかったよ」
「ふぅん」
 大樹はタオルを整理したり、チェックしたはずの必要な物をまたチェックしたり。誰もが落ち着かなかった。上手いことも言えず、何度か昌の手を握る。
「ずっといるから」
 そんなことを不安な目を向けられるたびに繰り返した。

#10

 その時、廊下に大きな笑い声が聞こえた。
「いや、先生の腕は確かですからな。信じてますよ」
 野太い声だ。押しつけがましいような喋り方。
「精いっぱい力を尽くします。どうぞお任せください。では後程」
「私は会議でもう来れんのですが、付き人を置いていきますのでそれにお伝えください」
「分かりました。では」
 入り口がパッと開いた。入ってきた男は恰幅のいいがっしりとした初老の男性だった。茶色のスーツが光沢を放っている。
「昌、久しぶりだな」
「親父……」
 本人も来るとは思っていなかったのだろう、言葉が続かないほど驚いている。
「上原先生の執刀だ、有難く思うんだな。35%未満でも生き残るチャンスはあるそうだ。先生は日本有数の外科医だ、期待に応えるように頑張るんだぞ。じゃ、」
「俺! 40%って聞いた! 成功率40%って」
「似たようなもんだろう。とにかく後は自分が頑張ることだ」
 言い放って出て行った高遠の後を汐は思わず追いかけた。
「待ってください、高遠さん!」
 響く汐の声で、廊下の先の高遠の足が止まった。
「君は?」
「昌の、昌くんの家庭教師の深水汐と言います」
「家庭教師? そんな報告は受け取らんが」
「押しかけ、といってもいいです。夏休みに仲良くなり、そのまま勉強を見ています」
「それで? 給料なら出さんぞ。昔から家庭教師には碌なもんがおらん」
「そんな話ではありません」
 汐はきっぱりと言った。高遠と疎遠になったからと言って、自分には失うものなど無い。
「もっとそばにいてあげてほしいんです。まだ昌は16です。これじゃ可哀そうです」
「君にはなにも分からんだろうが、そのために大樹がいる。それで充分だ」
 歩き出す高遠の前に飛び出した。
「なぜです? なにがあったかなんてどうでもいいです。でも16の昌にそこまで冷たくする必要がありますか?」
「どうでもいい? 問題はまさにその『どうでもいい』部分にある。部外者の君に話すことなどなにも無い」
「汐くん、もうやめてくれ」
 いつの間にか大樹がそばに来ていた。
「社長。私がいながら申し訳ございません。お忙しい中を来てくださってありがとうございます。きっと内心は昌も喜んだと思います。この後は私がおりますので」
「昌のために来たなどと思い違いをするな。私は上原くんに挨拶に来ただけだ」
 食って掛かりそうな汐の腕を掴んで大樹は頭を下げた。
「はい。承知しました」

「なんで? なんで怒んないんですか! 見舞いに来たわけじゃないって、それに手術の直前に35%未満だなんて言われたら!」
「頼む、これ以上はもう…… 昌が心配だ、一緒に行ってくれるか?」
 汐は唇を噛んだ。確かに聞いていた。そういう家なのだと、そう言う父親なのだと。でもあんまりじゃないか。強張った顔を腕で拭いた。
(そうだ、肝心なのは昌だ)
 二人で病室に向かうと昌の怒鳴り声が聞こえてきた。
「なん%? どっちが正しいんだよ、40と35! 俺の、俺の命なんだ、正直に言えよっ!」
「落ち着いて、昌くん、そんなに興奮しちゃダメ」
 看護師が手を焼いている。
「鎮静剤を打ちますからね」
「ごまかすな! 先生を呼んでよ!」
「昌、言うことを聞くんだ」
「大樹まで騙してたの!? 俺、俺……だめなの?」
 鎮静剤を打たれた昌の頬が濡れていく。
「昌」
 なんとか目を開ける昌。汐は聞こえている限り話し続けた。
「昌、治ったら俺の家に来いよ。俺んとこでのんびりすればいい」
「うしおの、いえ?」
「うん。俺んとこで寝てりゃいいさ。美味いもん食わせてやる。どこにも行くな、俺の家に来い」
「いく、うしおんとこに……いく……かならず……」
 眠った昌は時間通りに手術室に向かって運ばれていった。

 デジャブを感じる、こうやって手術室の控室にいると。手術室に入って行った父は思ったより元気な顔で……出てきたときにはなんの表情も浮かべていなかった。
 簡単な葬儀の場で会社の人が『安らかな顔で』と言ったとき、(それは父さんの顔じゃない)と思った。父は安らかな顔などしたことが無かった。笑顔はほがらかだったり、苦笑だったり茶目っ気たっぷりだったり。たまに落ち込んだ顔も見たが安らかな顔など……。
 だからそこに横たわっていた父はもはや父では無かった。
 火葬が終わってほっとしたのを覚えている。偽物の顔を誰にも見られたくない……見たくなかったから。
(昌……出て来いよ、お前のつんけんした声、また聞きたいよ)

 座っていた大樹がいきなり立って驚いた。
「高遠さんのところに行ってくる」
「行ってどうするの?」
「昌を引き取って……二人で生きていきたいと言ってくる」
「承諾してくれると思う?」
「いや。でも話してくる、昌のために」
 出て行った大樹はどんな思いだったのか。
(俺が煽ったせいかな……)
言い過ぎただろうか。そう考えたが振り返ってそうではないと思う。誰かがもっと早くに言うべきだったのだ。その上での大樹の決断なら自分のような若造になにを言われようが揺らぎはしなかっただろう。
(昌、大樹さんが高遠さんと話してくるって。だから昌、帰って来いよ、必ず)

 大樹は2時間近くたって戻ってきた。手術はまだ終わってはいない。やつれたような顔だった、まるで一度に年を取ったような。
 向かいの椅子に疲れ切った体を下した。
「だめ、だったんですか?」
「二人で……暮らして構わないと言われた。高遠と縁を切っていいと。正確には『縁を切る』だったかな」
 苦笑が浮かぶ。
「ほんとですか!」
「金は返していく。少なくとも昌の手術代は」
「よく認めてくれましたね」
「昌は……」
 大樹は両手に顔をうずめた。
「認知されていなかった」
 とっさに意味が飲み込めなかった。
「戸籍上の実の父親の欄は空白のままなんだ……俺はそんなことさえ考えてなくて」
「それって、……私生児?」
 大樹の髪が揺れる。
「あの子は戸籍でも一人だった……俺が気がつかなきゃ……言い出さなきゃあの子は」
「復讐だったんですか、それも高遠さんの」
「いつか昌に戸籍謄本を見せるつもりだったと……そう言われた」
 その後の激しい言い争いが大樹から根こそぎ力を奪ってしまったのだろう。
「この入院に関しては支払ってやると言われた。上原先生の手前もあるからね、分割やら踏み倒しやらは高遠さんにしても困るだろう。でももう退院してからの行き場はないんだ……マンションもすぐ引き払うことになったから。あの子を引き取っても俺は……」
「俺んちがありますよ、大樹さん」
「君の?」
「もう俺は一人っきりです。そんなに大きな家じゃないけど、でも三人で住んだって困らないですよ。ね、そうしませんか?」
「そんな迷惑は」
「昌にもさっき言いました。退院したら俺んとこに来いって。もし気になるって言うんなら生活が落ち着いてから住むところを探したっていいじゃないですか。一つ一つ考えていきませんか?」
「……時間をくれないか。俺も……考えたい」
「はい。でもほら、言ったでしょう? これも何かの縁だって」
「縁……」
「そ! 昭和だけど」
 大樹の口元にやっと小さな笑みが浮かんだ。
 二人で手術室が開くのを待つ。まだまだ時間はかかるだろうけれど。

#11


 手術は長くかかった。途中で何度かバタバタと行き来があって看護師は厳しい顔をしていた。看護師を捉まえて聞くと「今救命処置を行っています!」と言われた。
 胸の潰れるような思いで二人で無言で祈った、帰って来い、と。
(昌、死んじゃだめだ、昌! まだ楽しいこと、ひとっつもしてないじゃないか、昌!)
 それからさらに一時間待った。手術室のドアが開き、ストレッチャーに乗った昌が運ばれていく。
「せんせい」
 喉がカラカラなのだろう、しわがれたような声で大樹が声を出した。
「あきら、は、」
「手術は無事成功しましたよ」
 汐は背中を壁につけた、倒れそうな気がして。
「途中危機的状況に陥りましたが、なんとか蘇生しました。これから意識が戻るまではICUに入ります。正直まだ予断を許しませんが、無事に目を覚ますのを待ちましょう」
「ありが、とう、ございました」
 深々と頭を下げる大樹に頷き、一緒に頭を下げた汐に笑顔を見せてくれた。

 ICUに入った昌は静かで、大人しくて、本当に生きているのかと疑いたくなる。大樹も同じ思いなのか、窓につけた手を放さない。
 これでいいような気がする、汐はそう思った。
「大樹さん、俺たち二人だけでいいじゃないですか、昌を見守っていくのは。頼むことでも頼まれるようなことでもないんだ、どうせ気持ちは同じなんだから。そうでしょう?」
 大樹は濡れた顔で汐を見た。
「……そうだね」
 これから三人の生活が始まるのだ。

 昌は目を開けた、しっかりと。入っていいと言われ、ICUに汐と大樹は一緒に入った。
「ひろ、き」
 呼吸器を外したばかりの昌の声はしわがれていた。
「いるぞ、ここに」
「頑張ったな、昌!」
 二人とも半分泣き声だ。大樹の方は涙がとめどもなく流れている。
「なくな、って、おれ、がんばっ、たよね?」
「そうだ、頑張った。頑張ったよ、昌は」
 上原医師からそっと声をかけられる。
「その辺で。まだ楽観は出来ませんから」
「はい」
 昌に無理をさせたくない、そう思うから二人とも離れようとした。
「ひろ、も、すこし、そばに、いて」
 そのか細い声に立ち止る。振り返った。昌が微笑む。目が……閉じた。

――ピピー!!!!

 けたたましい機械音が響き渡る。
「除細動!!」
「はいっ」
「昌!」
「昌っ」
「お二人とも出てください!」
「でも!」
「出てください、外へ!」
 廊下から中を食い入るように見る。いつの間にか二人は強く手を握り合っていた。
「あきら……」
「昌は大丈夫! 大丈夫!」
 汐は怒鳴っていた。まるで安手のドラマを見ているようで、中で動き回る医師や看護師がテレビの枠の中にいるようで……。
「あきら、あきら、あきら、あきら、」
「大樹さん! しっかりしなくちゃ! 俺たちがしっかりしなくっちゃ! 信じよう、昌は戻って来るって」
「かえってこい、あきら、かえってこい……」
 染み渡るような青い空が窓の向こうには広がっている。けれどここはセピア色に包まれていた……


「これで全部? 忘れ物は無い?」
「全部だ……」
 からっぽの個室を見回す。
「こうやってみると広いね」
 汐の声に大樹は頷くだけで返事はしなかった。
「先生たちに挨拶はしたし。……下に行こうよ」
 じっとベッドを見る大樹に部屋を出るよう促すが動けずにいる。
「あっという間だったな……」
「うん、本当に」
 ばたばたっと廊下から足音が聞こえた。
「なにやってんだよ! ずっと待ってるんだけど!」
「ほら、お冠だ。だから行こうって言ったのに」
「感慨深いんだよ、もうこの病室に来ることも無いんだって思うと」
「勘弁してよ! やっと退院なんだからさ」

 退院した後は汐の家に行くのだと伝えた時の昌は訳も聞かず歓声を上げた。
「やったっ! それって、汐と二人で住むってこと?」
「違うよ、三人」
「三人?」
 大樹がちょっと小さな声で言った。
「俺も……いいかなって」
「わ、わ、わ、マジ!? マジなの? 三人で住むの!? もうあのクソったれの家に行かなくっていいの?」
「そ! 帰るのは俺んとこ。つまり、今日から二人は深水家の居候ってこと」
「居候なんだ!」
 嬉しそうな昌。理由を聞かないその顔に大樹はほっとしていた。
「期限なし。大樹さんがちゃんと昌と二人でやっていけるって思う時まで」

 だから今、三人は汐の運転する車に乗っている。
「昌、窓閉めろよ」
「やだ! 外の風浴びたいんだ」
 健康な肉体が浴びる風は心地よくて。もう10月の風は冷たいというのに、空の青を見上げながら昌は車の中で大騒ぎだ。
 大樹が昌の口を塞ぐ。その手を「あぐ」っと噛んで、昌は叫んだ。
「高遠昌、元気に深水邸に帰りますっ!」
「それほどデカくないよ!」
「痛い、手が、血が出てる、血が……」
「しまった、大樹、血に弱いんだった!」
 三人の声は道行く人が振り向くほどに騒々しかった。


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