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【高島屋史料館TOKYO】 高島屋史料館TOKYO企画展 ジャッカ・ドフニ 大切なものを収める家 サハリン少数民族 ウイルタと 「出会う」の講演会が演劇舞台となった

先週日曜日、念願の【高島屋史料館TOKYO】 高島屋史料館TOKYO企画展 ジャッカ・ドフニ 大切なものを収める家 サハリン少数民族 ウイルタ(別の民族名称ニヴフ)と 「出会う」へ行った。この日ではないと出会えない人が講演会に来ることになった。その方とは笹倉いる美さんという私営博物館ジャッカ・ドフニの元学芸員、北海道立北方民族博物館学芸員(現在)である。
 笹倉さんに興味持ったのはいうまでもなくクレット島のモーン族が経営する私営博物館の経営および文化財保存問題を解決する手がかりを探るためである。また高島屋に文化人類学を扱う資料館があること、小さな資料館で民族資料をどのように展示するのか興味を持った。まず私は自らモーンの象徴であるガチョウ文を染めた自前のピンクのロンジーを履いて会場へ向かった。都営線の乗り間違えがあり講演会開始5分後に会場に着いた。先に展示室より笹倉さんの公演を傾聴した。会場は8畳程度の公演会場であり残りの席がたった5席ほどしかないほど来場者で埋め尽くされていた。

ウイルタの概略

私はウイルタ族に関しては専門外であるが、笹倉さんに聞いた概略を紹介する。まずウイルタ族はアイヌ語の蔑称でオロッコ、オロチョンととも呼ばれる。ややこしいのはアイヌが元々、中国の間宮海峡沿岸から満州の沿岸まで交易していた歴史から、ウイルタ語の仲間・方言ではないオロッコ、オロチョンというツングース系民族と混同されている。またウイルタはギリヤークとも呼ばれている。
樺太(サハリン)の先住民族であるウイルタはそもそも狩猟と牧畜を生業し父系家族である。同じ父系の先祖をもつウイルタ同志では婚姻が禁いされてる。日露雑居からサハリンと日本領樺太に帝国植民地主義により別れた時代にニブフの多くが樺太南部の沿岸部とくにポロナイスクのオタスへ移住した。けれども多いとはいえども民族の人口が数十世代の家族であった。移住先の学校で皇民化教育として神社が設置され学校の授業で参拝がされていた。さらに移住先の定住によりトナカイ遊牧ができなくなり、狩猟や観光を生業にするようになった。当時のウイルタには本名と字名、さらに和人名とロシア語名があった。日本の戸籍制度のより、自らが住んでいる地区の地理に因んだ和人の苗字が付けられていた。苗字の下の名前はウイルタ族の中だけは慣習として絶対に同名にならないように名前を付けた。一方で、当時、女子だけに裁縫の授業が日本全国で行われており、ウイルタの国民学校ではウイルタの刺繍が授業で行われていた。この刺繍の元々はトナカイ皮の刺繍であったが定住により布に刺繍するようになった。このウイルタの女学生の中に北川アイコ、のちにジャッカ・ドフニの初代館長となる北川源太郎(ウイルタ語名ゲンターヌ 以下 源太郎)の妻がいた。
 2人は日本領樺太で結婚し、源太郎の兄が北海道で働いていたことも関係してかつ網走市の受け入れもあり、戦後に網走へ疎開した。この当時の網走は網走監獄で有名なほど僻地であった。多くの囚人が過酷な労働現場で死亡し遺骨が作業現場に埋められ放置され隠されていた。このような人権問題に市民が公民権運動「オホーツク民衆運動」、「オホーツク民衆文化講座」を行なっていた。ある当時の網走市の雑誌に北川源太郎の民族運動が紹介されていた。というのもその公民権運動が起きていた北海道で、多くのウイルタやアイヌが自らの民族、それぞれの出身地の先住民族、少数民族であることで差別されることに対する公民権運動を始めた。
 公民権運動ではなく同時に網走市が疎開民引き受けに対する責務もあり、地域住民と網走市が源太郎の雇用を支援した。とくに今の異文化交流事業につながるウイルタの観光事業に邁進してきた。この結果、本来、病気治療の呪術具である木彫り人形に台座を付けて非呪術具化させた木彫り、アイ子らによるウイルタ女性自身が塗った刺繍が街のお土産となり、地域活性に貢献してきた。そのような網走で、周囲の網走に住むウイルタの反対や反発を押し切り、網走市や雇用を支援した地域住民の床屋の支援によってニブフの資料館ジャッカ・ドフニ資料館を作った。ジャッカ・ドフニの建物は、源太郎1人でデザインし建てたのではない。地域住民のある高校美術教師が、定住政策前のウイルタの家屋であるテントや冬の木造家屋をデザインに取り入れた。そして当時の資料館のチラシを見るとウイルタ民具、家屋のイラストが描かれビジュアルが重視されていた。というのもこのチラシもその美術高校教師が作成した。しかし一方でおおくのウイルタから源太郎夫妻の文化活動を見世物産業だと批判声があがり、源太郎夫妻が他の北海道に移住したウイルタから仲間外れにされていた。

ジャッカ・ドフニとウイルタの危機にひとりの和人がジャッカ・ドフニへ飛び込む


 しかし、不幸が次々と舞い込む。この資料館ができてまもない1980年代、源太郎は死去した。その後北原アイ子(以下アイコ)や地域住民によってジャッカ・ドフニは経営されていた。アイヌと比べて少数民族として人口の規模は非常に小さく、アイヌの人権が国に認知されたことに対して、一方でウイルタは彼らの権利団体である日本ウイルタ協会の活動も徐々に下火になっていった。高度経済成長期の観光ブームがさり、現在のサハリンのウイルタ語話者もごくわずかとなり、追い討ちをかけるようにアイ子自身の高齢化および資料館の老朽化でウイルタ文化の危機が迫った。
1990年初頭、1人の女子大生がウイルタの危機をしりアイ子のところに飛び込んだ。そう!笹倉さんである。笹倉さんは初めてアイ子に出会った時、余所者にたいして反発した態度をとっており、めちゃくちゃ怖い人だったという。その資料館に通い詰めていう中でアイ子とうちとけあい一緒に生活し、ウイルタ文化伝承について弟子入りした。1998年、笹倉さんはアイ子の一年の生活を撮影しウイルタ文化の生活、習慣を記録していった。この前で博物館学芸員の資格を取得したそうな。
 その後笹倉さんは愛知の学芸員と結婚し愛知に移住するも、ウイルタの危機を見捨てるわけにはいかず、夫に夫を自ら養うと言って夫婦は北海道の網走へ移住した。

学芸員資格科目「博物館情報論」で指摘されている少数民族・先住民族の著作権問題

ジャッカ・ドフニに笹倉さんが学芸員として就任したころ、ある出版会社で無許可で彼らの刺繍が表紙に使れた。笹倉さんは出版会社を尋問したが、この会社から「使用された経緯がわからない」という。笹倉さんはウイルタ協会側から独自に調べていくうちに、ウイルタ協会のメンバーが著者に渡した写真が使われていたということが発覚した。笹倉さんは経緯が解明して、出版会社を問いただした。その結果、資料館を介して日本のウイルタに著作権料が払われるようになった。またアイヌの公民権運動が盛んになり昨今、アイヌの刺繍の芸術運動が盛んになった。この中で、無許可で網走のウイルタの刺繍をアイヌの刺繍として商売が成り立ってしまった。この時の多くの学芸員は樺太アイヌとウイルタの交流が近世、近代にあり共有されているという歴史の側面だけを見て、この時の問題の本質に踏み入れなかった。というもの「アイヌ新法」でアイヌの公民権が盛んになった1990年代の時代背景にこの問題で波風を立てて厄介ごとになることを恐れていたと見られる。このためアイヌの文化支援をしていた笹倉さんの夫を攻撃し夫婦喧嘩になってしまった。しょうがないので夫はそれ以上、妻に口出ししないようにして、笹倉さんは無許可で刺繍したあるアイヌ女性手紙を出し勧告した。謝罪文の返事が来た。
ーこのとき私は、放送大学の「博物館資料論」で習った先住民族の無形文化財に関する著作権問題とその法的根拠を思い出し、復習になった。ー
これらの事件があったころアイ子は2007年に他界した。その後もなんとかして存続させようと2015年(2012年に休館)まで経営をしていた。

会場で共感が共鳴し大きな波が立つ

経営の中で、ある母親の子連れが「私の祖母はウイルタだった」と子供に展示場で話している光景を目の当たりにした。小規模な博物館である資料館がウイタに貢献した瞬間だった。笹倉さんは学芸員として少数民族・先住民教育、文化伝承の責務にいまも動揺している。なぜなら在日ウイルタともいえる彼らの子孫は差別を恐れたり、文化伝承の権利がアイヌの公民と比べて社会保障がされていなく孫の世代あたりでウイルタのアイデンティティが忘却されている。このような状況で和人である彼女自身が教えるべきか今も戸惑っている。しかしできることとして、今も、観光産業、小説の出版、漫画をめぐるウイルタの著作権、無形文化財の資源の扱いで間違いがあるたびに抗議活動をしている。現在は千葉県佐倉にある大学院の機能を兼任している国立歴史博物館で大学院生として日本史におけるウイルタの歴史を研究している。この博物館ですら彼らの歴史を知らないほど、今まで日本史史学者はウイルタを研究してこなかった。おそらく笹倉さんは日本史として最初のウイルタ史研究者といえる。
タイフェスティバルの少数民族にかんする展示で抗議した私と笹倉さんがかさなり、私自身は決して間違えたことをしていない、また在日ミャンマーのボランティアらに学芸員のミッションを否定し攻撃されたり、アイヌ社会の中にあるアイヌ文化の極右活動家に攻撃されるけども私は人の道を外していないと確信した。ジャッカ・ドフニ構想からオープン直後の経緯を聞いて、私は私の研究に関わっている家族、近隣住民、吉本芸人やオットーらを支えたクレット島の地域住民のことが浮かんだ・私の父が築窯の雑用をし、父の仕事仲間であるクリニックの隣のお婆さんが窯の骨材となるアルミ缶を分けてくれた。独裁者たる国軍の利益誘導を伴うクレットの観光産業や都市開発といえども、国軍の観光産業という目に見えないフーコーの「社会監獄」でクレットの地域住民は監獄の環境を最大限に利用してモーン文化を守ろうとしている。その中に島外であるバンコクに住む吉本芸人もいる。
そして笹倉さんがこの1990年代を話している時から、熱意が心底沸き上がり自らの内面にある熱気が自らを叩き付けてきた。公演のアンケート用紙にも書いたが「笹倉さんは私の未来の自分だ!」と思った。まるで私がアメリカ公民権運動の歴史映画の世界にいるようだった。

公演が終わり質問が来た後ろの席にいた網走出身で現在鎌倉にすんでいるおばちゃんが笹倉さんに質問した。「私はウイルタの刺繍文化を守る活動をしています。源太郎さんがいた時にジャッカドフニでウイルタの刺繍の型紙をうつさせていただきました。源太郎さんが亡くなったことを初めて知りました。私は源太郎さんを傷つけました。源太郎さんがウイルタのことを私に一生懸命話してくれました。私はウイルタも日本人と同じ外見をしているといい、源太郎さんは苦笑いしていました。」このおばちゃんは泣いていた。ウイルタの困窮を理解できなくて源太郎を傷つけたことそして傷つけたからこそ文化を守ろうと刺繍を研究している。
その時この会場に対する私の認識が変わった。劇場舞台に一瞬変わった。笹倉さんや椅子に座っている来館者がミュージカル俳優とななった。真っ暗な舞台にそのおばちゃんが椅子から立とうとする瞬間、眩しいスポットライトが当たった。会場の司会者が順を追って次に私が質問することになった。暗転し私にスポットライトが当たった。
「先生(笹倉さん)やとなりのおばちゃんのことを聞いて私は私自身に重なり、深く心から共感しています。先生の姿は私の未来の姿だと見えました。というのも国は違いますが、タイのバンコク郊外にあるモーンの文化財問題を研究しています。彼らはタイの軍政による政治問題で本来先住民のはずなのに少数民族とされビルマ人と差別されています。いいていいのかわからないけどJICAの都市開発と地球温暖化で文化財が危機的であります。先行研究で彼ら主体の博物館経の問題が指摘されています。知らない地域の少数民族のところに飛び込んでアイ子さんに出会いウイルタの文化伝承者として弟子入りしたことと私が重なります。JICAの開発があった1990年代に彼らの文化を守ろうとしたクレットの古老(オットー)にであいました。初めて調査したとき、右も左もわからず、タイ語もわからず、観光開発による文化財のおかしさを指摘して地域住民と揉めました。古老をも傷つけつけました。昨年、古老が他界しました。今も、私を嫌い人はいるけど、この古老に彼らの児童向けモーン語教科書を託されました。今では放送大学で提供されている先住民教育向けの博物館学芸員の資格をとっており、古老の意思を引き継いで博物館を再経営していきます。今日はありがとうございました」感極まりすぎて、学芸員としてモーン主体の私営博物館を私一人で建て直すにはどうすればいいのかという質問を忘れ、お礼の言葉だけをいった。
私が話しはじめたこの瞬間、舞台にいた来館者からの視線が私に集まり、会場がさざ波がたつ雰囲気となった。そう社会を動かそうとするくらい大きな共感が会場で反響しあったのだ。次にウイルタについて執筆したことのあるある文化評論家ライターが椅子からたち、(アイ子が他界したことを基準に)世界からいなくなったウイルタの文化財保護の権利はどこにあるのかと質問した。そうやって次から次へと共感に応じた質問が出てきた。
私はこの世界は大雲和尚(奈良康明先生)から教わった釈尊の悟りの世界観である「縁起」とキリスト教の世界観である「神の舞台」と後で深く頷いた。

 講演会が終わった直後、そのおばちゃんと仲良くなり一緒に笹倉先生のところへ行った。実は私はこの時まで当事者同志の交流が羞恥心を植え付ける非人道的だと感じて大嫌いである。というのも私の人生の中で当事者会といえば烏山病院の発達障害の当事者会やアメリカ映画、アメリカのアニメに登場する当事者会だけであった。病院では発達障害を持つ健常者が傷の舐め合いをして慰め合って、「悟り」を得る機会を当時社会で奪われて健常者の犬畜生になるためにあり恥じるべきだとかんじる。つまりアメリカの映画や烏山病院で健常者の為政者によって、治療と称して社会貢献と主体性を放棄させて負け犬の犬畜生となった障害者の掃き溜めとなっている状況を見てしまった。しかし障害者福祉でなければ当事者会もありだなとおもった。なぜなら当事者の主体性があるからだ。良い経験をした。

 大阪大学をはじめとするタイを研究する日本の大学とタイ軍政の長い歴の交友関係のせいで、私はブラジルの都会やニューヨークの先住民の公民権および都会の古代モーンの史跡を論拠にモーンを先住民として認める博物館展示があるべきだという研究計画書を大学院に書いたために大学院に進学を断られたことを伝え、笹倉さんに現在の笹倉さんが勤務する道立北方民族資料館の博物館実習で笹倉さんの弟子にしてくださいと頼んだ。毎年6月の実習があると教えてくれた。
ますます博物館学芸員の試験対策が楽しくなった。学芸員資格試験を早く終わらせてクレット島にもどりたい。
博物館再経営には、さまざまな利害関係:ステークスホルダーがあり、この利害関係者の合意形成に基づき、賛同者から寄付金がかかせない。というのもICOM(国際博物館会議)により博物館はNPOのため「配当金」を出さない代わりに、寄付金と社会貢献の評価によって経営されると規定されている。今後、私はクラウドファンドをやっていくつもりである。今後もよろしくお願いします

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