見出し画像

【俺史】社会人20年間を振り返る #1

2002年は短期的には「強い使命感と目標達成への責任感」を抱えながらも、将来に向けては「大いなる無気力」が続く1年でした。

2002年は大学4年生になる年、就活した年でした

工学部建築学科の大学生であり関東学生2部所属の体育会アメリカンフットボール部では副将だった

そもそも私の4年間の大学生活というものは、課外活動であるアメリカンフットボール部の活動以外の全てはとても退屈なものでした。

アメリカンフットボールへの想いはどこか別の記事で書こうかと思っていますが、この部活動は思春期の中で最高の時間であり、それについては濃厚な時間、人、そして経験を得られていて、それが今の人生にも活かされています。私にとってとても大事な時間でした。

しかし、それ以外の時間における虚無に近い退屈はどこからきていたのでしょうか。それは遡って思い返せば中学生のころからから始まっていたように思います。

自己有用感(self esteem)を感じられない思春期

私の両親は地方から東京に出てきて所帯を持ったいわゆる核家族でした。
家族仲は昔も今もとても良好です。
父も猛烈サラリーマンでしたが収入は人並みかそれ以上はあったと推測され、いわゆる中流家庭の少し上の方のような家でした。

私はその家の長男(戸籍上は次男)として生まれ、何不自由なく育ってきました。今思えばとても恵まれた環境下で育ったと思います。

父も母も教育には割と前向きな人で、私は幼い頃に小学校受験と中学校受験を経験しています。

しかし、小学校受験は全滅でした。
中学校受験も志望校には不合格で、唯一、中高一貫私立男子校の滑り止め校へ進学することになります。

一応、中学受験は全滅は避けられたので、失敗であったとは言えないのですが、じつはこの不合格を繰り返したこと、すなわち受験という挑戦がことごとく壁に阻まれつづけてきた経験から、私の思春期は
「自分はきっと何かの努力が足りないのだ」とか
「きっと自分は何かが欠けているから埋めなければ」という無力感と切迫感と常に戦っていた日々だったように思います。

中高のクラスは成績順で、私は万年最下位クラスだった

切迫感はあったものの、結果が出なかった過去の受験経験から、どうすれば勉強ができるようになるのかわからず、勉強への取り組み方が全くわからなくなってしまい、家に帰ってからも机に向かえども全く勉強に身が入らず、成績順はどんどん落ちる一方でした。ここで無気力が加速します。

当時の母校のクラス分けは完全に成績順でしたので、成績の悪い私のクラスは当然、最下位のクラス。
皆私と同じように成績が悪いメンバーが揃っており、勉強への熱意を高めあうような雰囲気は一切なく、進学実績が中程度でこれから飛躍しようとする新興私立学校において、このクラスに所属する生徒は完全にお荷物と言うか、落ちこぼれ的存在でした。

この状態で中高の5年間を過ごしてしまった

自分が将来何をやりたくて、何に意欲を燃やすのか、全く見いだせず6年間が過ぎます。私はこの間、スポーツや音楽活動など課外活動にも取り組みますが、やはり人生をかけて取り組んでみようと思うことに出会えませんでした。そんな中、高2の終わりに進路決定を迫られます。

でも勉強はやらなきゃダメだと常に思わせてくれる友人はいた

こんな無気力な私の中高生活ですが、一人の友人がずっとそれを見守ってくれていました。親友の泉くんです。(今もお付き合いがあるから照れる)

彼は私の実家と近い場所に住んでいたため、毎日同じ電車で学校に通う仲でした。スポーツ万能、勉強は常に学年1位2位。
彼は常に中学時代から「東大で航空工学を学び、パイロットになるか、宇宙に行くかしたい」と公言していて、実際にそれは十数年後本当にパイロットになるところまで完璧に成し遂げてしまうような男子でした。

自分のような無気力男子とは真逆の人間でしたが、頭脳の良し悪しによらず別け隔てなく人付き合いをするNice Guyだった彼のおかげで、無気力な中であっても友人だけは最低限いた6年間の学校生活でした。
(それは本当に良かった。心から感謝しています)

そんな彼がいたので、進路もその時点で想定できる最大限のチャレンジできるレベルを目標とおいて、実際に受験勉強を開始することが出来ました。

唯一、自己有用感を持てたのが数学だったから理系を選ぶ

実は、どういうわけか中学受験のころから算数や数学だけは「わからないこと」を残さずに進んでいけました。なので、赤点は一度もとったことがありませんでした。(他の科目はひどかった)

中高のときは、持ち前の無気力さから当然、定期テスト対策など、勉強へのやりこみが全くないので、点数自体はさほど良くないのですが、どういうわけか「あ、これ時間無制限だったら多分解ける」という感覚を常に感じならが問題を解いてました。

そんなことを泉くんに相談したところ
「ま、とりあえずハマショウは理系なんじゃないの?」
と言われ、理系の中から進学希望の学部学科を選ぶことにしました。

音楽と造形が好きだったので、なんとなく芸術要素がある建築学科を希望とした

とりあえず受験まであと1年となったとき、最終希望進路を建築学科と決めました。
今思えば、本当に建築をやりたかったわけではなく、とりあえず自分自身が発見できている好きなことや勝負できそうなことをかけ合わせたら、建築学科しかなかったのだ、と今は思います。
(当時はコンサートホールを設計するのが夢だからとか言ったような気がする)

でも、大学受験勉強は秋まで身が入らなかった

本当に5年間も学習習慣をつけなかった代償というのは、恐ろしいもので、受験期と言われる高3になっても全然受験に身が入りませんでした。

男子校でしたので好きな女の子に夢中になっていたわけではありませんし、課外活動も高3の頃にはもうやめていました。

ただ、突然9月ころの全国模試で数学だけ優秀者の成績ランキングに載ることがありました。泉くんに倣って、とりあえず勉強を続けていた科目の数学。これが唯一、勉強の成果が出だした瞬間でした。

あ、勉強でこうやればよかったんだ!と悟るが時既に遅し

勉強での成果の出し方が分かったものの、ときは既に10月。
受験は2月。もう時間がなさすぎます。

自分の無気力さを知っていたので、浪人しても絶対に成果は出ないとおもっていたので、もうこの数学を武器に受験を乗り切るしかないと考えます。

その戦略はシンプル。
合格点は大体65%。
だとしたら数・英・理の3科目で195点を取る必要がある。
なので、
【数学】絶対100点取る
【英語】60点取る
【物理】35点取る
こう決めました。

英語は文法や熟語のマスターはもう時間切れ。
なので、単語だけをとりあえず記憶。
英文の読み方・内容推測の方法だけマスター。
わからなかったら即切り捨てる。

物理は、とにかく力学だけやる。建築学科を受けるので熱力、電磁気はでないと考えるので捨てる。出たらもう死亡。

この戦略で受験に望みました。

大学受験も結局1校しか受からなかったが・・・

結局そんな偏った勉強、いや、もうほぼ一夜漬けと言っても良い勉強法で取り組んだ受験でしたので、結局国立大学は当然全滅。
早稲田など上位私立も全滅でしたが、滑り止めの学校であった母校(武蔵工業大学)だけ合格しました。

驚くことにこんな私が特待生だなんて!

どうやら、私は特待生入学でした。
なぜ特待生だったのかよくわかりませんが、4年間学費無しの高待遇でした。試験結果が良かったのでしょうか。よくわかりませんが、ただ数学は戦略通り100点でした。
しかし、こんな待遇が自分の無気力を加速化させることになります。

母校に全く愛を感じられなくなってしまった

そもそも、自分は小学校受験から失敗続きで、中高は落ちこぼれ待遇だった身でした。

そんな状態で付け焼刃的に勉強して受かった大学で特待生待遇だったので、入った大学を全くリスペクトできませんでした。

「俺みたいな落ちこぼれが特待生ってどんな大学なんだ・・・」

常にこんな風に思っていました。
実際に授業を受けてみても、やはり退屈でした。

大学の語学の必修授業である英語。
先生に質問されても答えられない同級生がたくさんいました。
(大体大学偏差値は、英語の偏差値にほぼ比例してますよね)

「なんなんだよこの大学」と全く母校愛を感じられない状態で、もう通うのさえも辞めてしまおうかと思っていました。
アメリカンフットボール部に入部する前までは。

#2につづく

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?