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異物感

 ルポというかただのレポだけど、一日がかりで前後編を書いた。一日かかったのは、この形式に慣れないせいで、そして実在する人の台詞を取り込むことにとても神経を使うからだ。

 そして、書き終えて、書き終えたことによって、その日一日の印象、書き終えた瞬間の私、が、よそもの、よその人、よその時代のよその世界のものになったような激しい違和感を残していることに気がついた。
 これは、違う。いつもの「note」を書いたあとのあの、すっきりと原点にポジショニングし直す感じとはまったく違う。逆に、自分が遠くはずれてしまった感覚。

 もちろんすべては現実で、すべては実在で、事実で、ただそれゆえにその事実や現実は、多くのものを取り込みすぎる、のかもしれない。あるいは、事実たるに必要なファクタを残すために、削ぎ落とされたなにかによる違和感。

 同じ「書く」でも、内面を書いているときの作用とは180°ちがう。


 つまり、こうだ。
 私の現実は、現象の中に存在するのではない。むしろ、現象が現実の一部といえるかもしれないが、そこにフォーカスしてしまうとズレが生じてしまう。
 心象風景という、一見曖昧で胡乱なものこそが、私にとって最も安心できる、たしかな場所であり、現象に心を持ち出した瞬間、私は異邦人になる。
 そして、ことばは私と心象を現実に結びつける唯一の橋なのだ。


 現象は、情報をもちすぎる。歴史を孕みすぎる。重なる時間をあまりに多く想起させる。
 昨日、書いた以上のありとあらゆるファクタがそこに搭載されていて、とても書ききれないし、書いたところで荒唐無稽でしかない。

 とくに、あんな暑さの、嘘の夏は。

 「いま」をも褪せさせる色あいの街は。また恐ろしい「逢魔が時」を連れてきてしまう。


 私はやはり、どこかおかしいのだと思う。
 ひとが当たり前に生きる世界を生きられない。その空気は私には息苦しい。社会不適合とか、そんな言葉でもない。なにか生態が違うとか、そういう、根本的な感覚器の規格違い。

 私の「好き」はいつもガラス越し。外側から眺めて愛を呼びかけている。時折、慈悲深いと思ってくれる人がいる。それって実は、私はそこに「はいれない」からでしかない。求める筋合いがないから、綺麗なまま注いでいられる。

 結局、書きながら狂っていくようなものしか私を救(たす)けるものにはならない。

 往き合うはずのない世界で、往き合うはずのない人たちと関わってしまった。そんな、異物感。

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