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20番の方

昨日の土砂降りが嘘のようにあがった朝だった。

アーケードのない商店街の一角、濃いグレーのビル横をすり抜けエレベータのボタンを押す。
2階までとはいえ、今日は階段を昇るのが億劫だった。
そうだ。紹介状を書いてもらうのだった。頭の中で、所持金を計算する。足りるだろうか。そんなことを考えながら、エレベータ上の数字をぼんやり見つめた。

木蓮も桜も終わり、もうしばらくすればこの通りのハナミズキが花をつけるのだろう。さっき通った歩道を思い出す。クリーニング店。カフェ、美容院の看板、右足、左足、右足、左足……。今日何を話すつもりだったのか、すっかり抜け落ちて、足先ばかりが視界を埋めつくした。

「おばあちゃんが亡くなった」

弟からその報せが届いたのは今朝だった。

「明日が告別式やって」

短い、用件だけのメールが、たくさんのメルマガと通知メールに紛れているのをみつけたのは昼も過ぎる頃だった。
通夜は、今日の夜らしい。
情報だけがざらりと私の内側をなぞって行った。動揺はしないが、いいようのない異物感が残っている。

押し戸をあけると受付は目の前だ。
病院というよりは、マッサージ屋やネイルサロンのようなつくりのその待合室で、番号カードを渡され、順番を待つ。今日は「20番」だ。
この病院では、患者のプライバシーを守るためにすべて番号でやり取りされる。午前中から数えて20番目の患者ということなのだろう。
前回は「26番」だった。
待ち人数は3人ほどのようだ。

もともと考えがあった訳では無いが、弟からのメールを見たせいか、上手く頭を整理できない。今日、何を話せばいいんだろう。何も浮かばない。
いいや、紹介状と薬だけ貰って帰ろう。今日は。

待合室のソファに座り、観葉植物の植えられたバーミキュライトを見つめながら、「どうするかなあ」と考える。こんどは診察のことではなく、葬儀の件についてだ。
うちにあるのと同じフィカス・ウンベラータだと思っていたその植物は、よく見れば造花だった。プリントの目が粗い。触ってもひんやりしなかった。

故郷は遠い。国内とはいえ海を超えたところにあった。日帰りするにはむりがあるだろう。
海辺の街の、雲の流れる速さを思い出した。

「姉ちゃんは、関わりないやろうから、来なくていいと思う」

メールの文面が脳裏をよぎる。
だから、なんでいつもあんたがそれを言うの。
嫌な思いが頭をもたげた。つま先からじわりと、あの4年前の朝が忍び込んでくる。

4年前、父さんの時もそうだった。「姉ちゃん、遠いやろ。無理して来なくていいで」実の父親。私たちの、たったひとりの父親の葬儀なのに。

「20番の方、お入りください」

ふいに呼ばれて、立ち上がる。そうだ、診察を乗り切らなければ。
乗り切る、というほどのことでもないのだが、この病院はまだ二度目で、何を話していいかもよくわからなかったせいか、緊張感があった。

「こんにちは」
先生と目が合って会釈をする。鞄をおろし、丸い椅子に腰掛けると、医師はカルテをちらと確認し、言った。
「カウンセリングの紹介状は、作っておきましたからね」
「ありがとうございます」
ほとんど条件反射といっていいくらいの穏やかなほほえみを作って、頭をさげる。繕う必要がないと言われても、そう振舞うことしかできなくなって久しい自分がいる。
「お薬は、どうでしたか?」
「あ、お薬、効きました。よかったです」
「そうですか。それはよかった。どのようによかったです?」
「はい、不安がすこし、ましになりました」
まるで、例文のような答えだ。精神科に来ているというのに、どうしてなんでもないように振舞っているのかわからない。
「では、これでしばらくつづけてみましょう。……一週間、どうでしたか?」
どうでしたか。
虚をつかれ、ついさっき受け取ったばかりのニュースについて話してみるかどうか、迷った。9割方、話さないだろうとも思った。

イレギュラ対応は面倒臭い。こんなことを言うのはきっと不謹慎なのだろう。明日も仕事がある。締切があって、私の作業は詰んでる。ワーカホリックとも違う。自分が上手くコントロールできなかったツケが、ここにきて皺寄せとなっているだけだ。
誰にも頼ることは出来ない。だから自分で決めて、動くしかない。わかっている。
世界の何もかもが敵というわけではなかったが、決して味方でもなかった。
自分の過去なんてものに振り回されたくなどない。もちろん今起きている厄介事にも。
心を揺さぶられたり、乱されたりしている暇はないのだ。
揺さぶられないコツがひとつある。口に出してしまわないことだ。
「いいえ。とくに、なにも」
私はにっこりと笑って、答えた。

今日、何して生きる?
明日は、何して生きる?
日々がおおごとで、大仰で、死の淵から蘇るように目覚めて今生の別れのように眠る私にとっては、毎日毎日問いかけている言葉だ。
現実味がうすいせいなのか、非現実的なことにもなんとなく対処出来てしまうのは、よいのか、悪いのか。
私はきっとあの故郷へは帰らないだろうし、そつなく、責められないように済ます方法をGoogle先生にでも訊いて、淡々と処理するのだろう。

これで、祖父母の代は誰もいなくなった。

花は不思議だ。春は不思議だ。
素知らぬ顔をして何度も咲き誇る。
父さんと過ごした最後の春は、きっと小学校に上がる年だったのだろう。
祖母と最後に過ごしたのがいつだったのかなんて覚えていない。嘘。覚えている。父の三回忌。

だけど、その時に会った祖母はすっかり昔と変わってしまっていて、いや、私の記憶が書き換わっていただけなのかもしれないけど、別人にしか思えなかった。父の妹である叔母もだ。
幼い頃、弟だけを祖母の家に連れていっていた叔母の記憶も、可愛げがないと私を嫌っていた祖母の記憶も、とっくに都合よく仲睦まじく書き換わっていたのだから、おあいこだろう。

特段、いい思い出がない。別に恨んでもいないけれど。
その時のことはその時のこと。二十代半ば、今の私より若かった叔母を、今更責めるべくもない。三回忌だって、「にっこり」相槌を打ってやり過ごした。それがもっとも平和な選択だ。
それに何より、実感がない。
私の頭は、今の、現実の私と幼い頃とで断絶がある。そのことも、今こうして『病院』にかかっている理由のひとつだ。私には現実感がない。

……ただ、故郷の雲の流れる空を思い出すと、胸が少し苦しくなる。
思わず、目を閉じてしまう。

結局のところ、僅かに残された私の中の手ざわりはその苦しさのなかにしかないのかもしれなくて、あとは順次、消えていくだけだ。過去の繋がらない人間に、未来を見ることも、きっと難しい。なめらかに、とはいかないだろう。

「20番の方、お会計です」

かりそめのナンバーで呼ばれて立ち上がる。ひとのアイデンティティなんて、「これ」とそんなに違わない気がする。ぼんやりと番号カードを見てそんなことを思った。来週にはきっとまた、別の番号で呼ばれる。

血を受け継ぐってなんなん? なんで父さんより、あなたがあとなん?
あなたは父さんに、何を遺してくれたん?

昨日の土砂降りの名残りのビニール傘が、傘立てにいくつも刺さって、白くぼやけていた。

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